永久

 第一部 闇(くら)き導き神の祈り

ザイン=エルダ(3)

「ごめんなさい、し、知らなかったんです!」
 少年の懇願の声が、咲き乱れる花で飾られた庭に響いた。
「入っちゃいけないって、わからなくて…本当なんです!!」
「……」
 薄汚れたボロボロの衣服を着て地面に平伏する少年を、複数の男女が冷ややかに見下ろす。
 その中で最も豪奢な身なりをしていた女が、何事かを横にいる女に耳打ちする。
 ── その髪は、ヴェール越しにもわかるような赤い色をしていた。
「…面を上げよ」
 耳打ちされた女は、重々しく少年に声をかけた。
 その声音にある冷たさに、少年の痩せた身体が振るえ上がる。その恐怖に引きつった顔を見つめ、女は殊更ゆっくりと言葉を重ねた。
「恐れ多くも、王妃様のお庭にそのような下賎の身で入った事、王妃様は大変ご立腹なさっておられます」
「……!」
 少年は何か言わなければ、と口を開くものの、声を出す事が出来なかった。
 ヴェール越しに彼をひたと見つめる、女── 王妃の視線がたとえようもなく恐ろしかったせいだ。
 まるで…虫けらでも見ているかのような、見下す瞳が。
「本来なら到底許される行為ではありませんが、王妃様は慈悲深い方。特別に許して下さるそうですよ」
「…え……?」
 一瞬、何を言われたのかわからずに、少年は目を瞬かせる。
 そんな少年に、王妃の言葉を代弁する女はにこりと笑いかけた。それは一見好意的に見えたが、その翠玉の瞳にある輝きは何処か残酷さを漂わせる。
 しかし、自分の置かれた状況を受けとめるだけで精一杯だった少年は、その事には気付かない。混乱の恐怖に、落ちつきなく目をきょろきょろさせるばかりだ。
 女は笑みを張りつけたまま、おどおどと見上げる少年に気軽な調子で言い放った。
「…王妃様は、殊の外、赤い色を好まれます」
「あ、赤……?」
 予想外の言葉に少年が目を丸くすると、女はしたり顔で頷く。
「そう…お前の持つ、赤いものを王妃様に献上するのです。…わかりますね?」
「赤い、もの……」
 それさえ出せば許されるかもしれない。
 目の前に差し出された一縷の希望に、少年は女の言葉通りに赤いものを持っているのか思案し始めた。
 …いつの間にか王妃を護衛するように控えていた男達が、自分の横に移動している事に気付かないまま。
「お、おれ…赤い物なんて──」
 絶望的な気持ちで持っていないと答えかけた少年は、真正面から王妃の視線を受け止めて絶句した。
 王妃が何を求めているのか、本能的に理解したのだ。
 赤いもの。すなわち、それは──。
「…── っ!!」
 悲鳴は、形にならずに咽喉の奥で蟠(わだかま)る。
 ぶうん、と低く何かが空気を切る音がすぐ近くでしたと思った時には、彼の視界はぐるりと回転し、城壁に囲まれた四角い空が目に入る。
 その掴み所のない青さが、見慣れたもののはずなのに、何故か見た事もない遠い世界のもののように思われた。
 次いで、赤い飛沫が彼の顔に飛んでくる。いや、彼の顔だけでなく、地面に、草に、花に。
 ああ、赤い。
 そんな事を思った瞬間── 全てが闇に沈んで消えて行った。

+ + +

 作業が一段落した頃、丁度正午を告げる鐘が鳴った。
 立ち上がり、前掛けについた泥汚れを申し訳程度に払う。
 ずっと同じ体勢を取っていたので、すこしぎこちない違和感が身体にあったけれども、それよりも空腹感の方が勝った。
 ようやく、昼食が食べられるのだ。
 いくら王宮で働いていても、所詮下働きであるアウラ達の食事が豪勢であるはずもない。
 それでも彼等にとって重要なのは味よりもむしろ量で、育ち盛りである彼等は満腹感を得られる事に幸福感を感じるのだった。
 それまでが、それぞれ戦場などで満足に食べられない生活を経験している。
 その経験があればこそ、彼等は貴族が見たら家畜の餌と変わらないように見える食事でも、不平不満を何一つ口にせず、むしろありがたがって食べるのだ。
 おそらくそういう理由もあって、ロディアは戦災孤児であるアウラ達を買い求めたに違いなかったが、そうした背景はアウラ達にとってそれ程重要な事ではなかった。
(…あれ?)
 ちょっとばかり小走りで食堂に向かったアウラが、その違和感に気付いたのは本当に偶然の事だった。
 アウラが向かう先── つまり食堂から、いつもと違うような雰囲気を感じたのだ。
 思わず立ち止まり、しばらく考えてみたものの、結局わからないままにアウラは再び足を食堂に向けた。
 そんな事を考えていられるような状態でなかったからだ。だが、すぐにその違和感の正体が判明した。
 普段ならとっくに喧騒で騒がしくなっていてもおかしくない昼食時だと言うのに、そこは和やかさも賑やかさもなく、何処か緊張した空気に包まれていたのだ。
(……?)
 理由がわからないままに、配膳台に向かい、野菜の切れ端の浮いたスープと、固パンを一切れ確保する。
 その間にも変な違和感は続いていた。
 大抵、アウラが食事をしようとすると、意地悪な年上の男の子達が邪魔をしたり、からかってくるのに、今日に限って彼等はアウラに目もくれず、黙々と食事に専念しているのだった。
 別に邪魔されたい訳ではないけれど、普段が普段だけに何だか薄気味悪くて居心地が悪い。
 固いパンを噛み締めながら、辺りを窺(うかが)っていると、食堂の入り口にサマナの姿が見えた。
 サマナもやはり何処となく緊張したような表情をしている。
 普段なら、自分から声をかけようとは思わないアウラだったが、ここにいる人間の中では比較的近しい人物と言えば彼女しかいない。
 慌ててパンの残りをスープで流し込むようにして食べると、袖で口元を拭いつつサマナの側に近寄った。
「…サマナ」
 声をかける瞬間こそ、緊張で心臓がどきどきと高鳴ったものの、何時もなら不機嫌そうな顔しか向けないサマナが無表情な顔を向けた事で少し勇気を取り戻す。
 サマナが口を開く前に、先に質問を口にした。
「何か、あったの? みんな…元気がないんだけど」
 口早に言うと、サマナは軽く目を見開いた。
 まさかアウラが、自分からそんな事を尋ねてくるとは思っていなかったのかもしれない。
 しばらく黙ったままアウラの顔を見つめ、やがてサマナは軽く肩を竦めた。
「サマナ?」
「…元気がない、ね」
 何処となくませた口調で自嘲気味に呟くと、サマナは何時ものような不機嫌そうな顔を向け、苛立ったように言葉を重ねた。
「…イアクが、殺されたんだよ。あのばか、よりにもよって王妃様の庭に入り込んだんだってさ。── 王妃様の怒りに触れて、その場で首を刎ねられたんだ。…アウラ、あんたも気をつけるんだね」
 言うだけ言うと、サマナは配膳台から自分の分を取り、足早に奥のテーブルに移動してしまう。
 アウラはその背中を呆然と見送った。
(…殺された?)
 つまり、死んでしまったという事だ。
 イアクという名前に覚えがあった。確か、サマナと同じ位の年齢の少年で、やはりアウラ達と同様、他国から売られてきた奴隷だ。
 直接意地悪こそして来なかったけれど、アウラが困っているのを見て笑っていた記憶がある。
 その姿を捜してみて本当にいない事を確認し、アウラはようやくそれが本当の事なのだと理解した。
 ── ここはザイン=エルダの王宮。
 最悪の事態にでもならない限り、安全であるはずの…場所。そうだと思っていたのに──ここでも、命の危険はあるのだ。
(王妃様の庭に入ったら、殺されてしまう……)
 限られた場所しか知らないアウラに、それが何処の事かはわからなかった。
 けれど何時、その辺りに行く事になるかわからない。
 入っただけで殺されてしまうような、そんな恐ろしい場所に行きたくないとは思うけれど、もしロディアがその辺りの草むしりを命じれば、アウラに拒否権はないのだ。
 今更ながら恐怖を感じて、アウラはぎゅっと前掛けを握り締めた。

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