永久

 第一部 闇(くら)き導き神の祈り

ザイン=エルダ(4)

 イアクの訃報は、結局ロディアの口から齎(もたら)される事はなかった。
 いつもと同じように夕食が始まり、いつもと同じように一日が終わる── 何事もなかったかのように。
 普段と違う事があったとすれば、いつもは賑やかな夕食が昼食の時のように陰鬱な雰囲気が漂い、夕暮れを告げる鐘がなった後、しばらく置いて一度だけ鐘が鳴らされた事くらいだ。
 …鐘の音は汚れを祓うとザイン=エルダでは言われている。
 不浄なものが徘徊する夜から朝に変わる時と太陽が丁度真上に差し掛かった時、それから日が落ち光の加護が失われる時に王宮を始めとして、国中の鐘楼で鳴らされる以外は、誰かが死んだ時にしか鳴る事がない。
 鳴る回数は死んだ人間の身分で決まり、最高位である王ならば十回、次に位が高い王太子ならば九回、王妃が八回…と減って行き、最も身分の低い奴隷は一回だけだ。
 ── それだけが、イアクが死んだ証。葬儀もなければ、花を手向ける事すらない。
 鐘が鳴らなければ、アウラ達以外の人々はイアクという少年が死んだ事も、王宮にいた事も知らないままなのだ。
 イアクが何処に葬られたのかという事に至っては、同じ奴隷のアウラ達にもわからない事だった。
 ただわかるのは、他国民であったイアクには、この国の土へ還える事が許されなかっただろうという事だけ──。
 奴隷としてザイン=エルダに来て、半年程。
 同僚(という程付き合いはなかったけれど)の死に遭遇したのは、これが初めての事ではなかった。
 もう何度か一度だけしか鳴らない鐘を聞いた事があったし(鐘の音の意味を知ったのも最初に聞いた時の事だ)、王宮にいる奴隷階級に属する人間は数多い。
 一月と空けずに鐘が鳴っても、アウラを含めて他の奴隷達も特に気に留めていなかった。
 ── 今回のように『殺された』と死因がはっきりしたものでなかったが故に。
 イアクの死の瞬間を、偶然目撃した者がなかったら、今まで通りの日々が過ぎて行ったのかもしれない。
 怪我や病気なのだと、漠然と思っていた。それ以外に、この王宮で死に至る可能性などないと、無意識に思っていたのだ。
 身近な人間なら突然の死に不審を抱くかもしれないが、同じ奴隷同士でも結束が固い訳ではない。どちらかと言うと皆、排他的だった。
 …彼等のほとんどが、食べる物もなく、いつ殺されるのかと怯えて逃げ惑う戦場を経てやって来た者ばかりだ。
 明日とも知れない場所から、奴隷の身であろうとも、死の恐怖に最も遠い大国の王宮へやって来たのだ。
 ようやく安全な場所へ来られた、もうこれで恐ろしい思いをしないでもいい── そんな風に安心しても仕方がない事だろう。
 その思いが、打ち砕かれた。そして同時に彼等は想像してしまったのだ。

 ── もしや、今までの仲間の死も、みんな殺されて果てたものだったのではないだろうか……?

 不安は伝染し、けれども反抗する勇気も気概もなく、彼等は恐怖だけを思い出す。
 その日を境にして、彼等の間にザイン=エルダに対する不信感が芽生えるのだが── それが確かな形として芽吹くのは、もうしばらく後の事だった。

+ + +

「待ちなさい、サマナ」
 イアクが死んで、十日。
 まるで何事もなく日々が過ぎようとする頃、朝食を終え仕事に向かおうとしたサマナをロディアが呼び止めた。
「…何ですか、ロディア様」
 今日もアウラがぐずぐずしていたから、その事についてだろうか、とサマナは思った。
 サマナがアウラを好きになれないのは、余計な手を焼かせるだけでなく、アウラが何かヘマをした時、世話をしているサマナまで小言を言われる事があるせいだった。
(なんで、あたしがあんな子を世話しないとならないの)
 日々、その思いは募った。
 同じ人買い商人の所にいて、年が近いというだけの理由で。
 いつもおどおどと人の顔色を窺って、何をしても人より遅くて。アウラの世話さえなかったら、もっとサマナは自由に動けるはずなのだ。
 アウラの事がなければ、サマナは他の奴隷少年・少女達の中でも役に立つと自分で思っていた。
 実際、細かい所によく気がつくからか、ロディアも他の奴隷よりは信頼しているような素振りを見せる。
 それが密かなサマナの誇りだった。だからその足を引っ張りかねないアウラが、鬱陶しくて仕方がないのだ。
 こんな所で終わってたまるか、と思う。こんな、他国民奴隷などという最下級の位ではなく、もっと上の位に昇ってやるのだ。
 あの戦争で、村が焼けた時もたった一人生き延びた。
 人買い商人に『保護』された時はどうなる事かと思ったものの、思いがけずザイン=エルダの王宮に入る事が出来た。
 ── もし、戦争がなかったならば、一生足を踏み入れる事のなかったであろう、この場所に。
 多くの奴隷は人生の終わりだと思った事だろう。けれど、サマナは絶好の機会だと思った。
(のし上がってやる。あたしは、奴隷なんかで終わりはしない)
 そしていつか、自分を見下した人間を逆に見返してやるのだ。
 その野望を胸に抱き今日まで来たが、ロディアの言葉はそんな思いを打ち砕くものだった。
「今日は今まで行っていた場所ではなく、南の庭で作業しなさい」
 南の庭。
 その単語を耳にした瞬間、冷水を浴びせられたかと思う程にぞくりと悪寒が走った。
「南の庭…ですか?」
「そうです。お前は年の割りに機転も良いし、少しくらい難しい仕事を任せても良いかと思うのですよ。わかりましたね」
「……」
 今までのようにすぐに返事は出来なかった。
 南の庭── そこは別名、『王妃の庭』と呼ばれる場所。そして同時にあのイアクが非業の死を遂げた場所でもあった。
 難しい仕事…簡単に言ってくれるものだ。確かにその仕事は困難を極めるだろう。下手すれば命がけなのだから。
「サマナ? 返事は」
「…わかり、ました」
 ロディアの有無を言わさない言葉に、サマナはぎこちなく返事を返した。
 サマナの返事に満足したのか、そのままロディアはサマナをそこに残して去って行く。その背中を憎悪に満ちた視線で見つめる。
(── こんな所で、終わって堪るもんか……! あたしは、どんな手を使ってでものし上がってやるんだから…考える、考えるんだ、サマナ。ここをどうやって切りぬけるか……!)
 王妃の庭で作業したからといって、必ず殺される訳ではない。
 もしそうでなかったら、もっと鐘の鳴る回数は多いはずなのだから。
 そして── そこでサマナが作業する事は、今の所では恐らくロディアしか知らない。
 下女頭であるロディア以上の位の者は、奴隷などという下々の者には直接関わらないし、他の奴隷にロディアがいちいちその事を告げるはずもない。
 ならば── うまく誤魔化せば王妃の庭で作業をせずに…つまり命の危険に晒されずに済む。
 そう結論した瞬間、サマナの脳裏に浮かび上がったのは一人の少女の顔だった。
 食堂はすでに人が疎らになっている。その隅で、人目を気にするように朝食を摂る姿を見つけ、サマナはその唇に薄く笑みを浮かべた。
(利用してやれ)
 罪悪感はこれっぽっちも抱かなかった。
 そのままテーブルの間をすり抜け、食事に集中している痩せっぽっちの少女の前に移動する。
「── アウラ」
「……?」
 呼びかけると、少女── アウラは何事かとその無駄に大きな目を持ち上げる。
(ああ、あんたを世話してて良かった)
 思いがけない所で思いがけない物が役立つ事もあるのだ、とサマナは思った。
「アウラ、ちょっと頼みがあるんだ」
「頼み……?」
「そう、別に大した事じゃないんだけどね──」
 サマナは浮き立つ気持ちを抑え、手短に用件を伝える。
 自分の代わりに南に庭に行くこと。
 そしてそこで何時も通りに作業をすること。
 自分はまだ今までやっていた場所にやり残した仕事があるから──。
 王宮内の地理を把握していないアウラは、怪訝そうな顔をしながらも断わる理由もないのだろう、やがてこくり、と頷いた。
(…今まで散々、世話をかけてくれたんだ。役に立ってもらうよ)
 万が一、アウラがヘマをして王妃に殺されたとしても、それならそれで構わない。これ以上面倒な世話を焼く必要もなくなる。
 ロディアに知られれば多少面倒な事になるかもしれないが、その時はその時。これから手を考えればいい。
(あたしは、こんな所で死ぬ訳には行かないんだ)
 内心の思いを隠し、サマナはアウラに南の庭の正確な位置を教え、その場を離れた。
 何か物言いたげなアウラに気付く事なく。
 運命の分岐点が、今、正に目の前にあった事に気付く事なく──。

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