神の

起 〜御家騒動〜

「なっ…にいいいい!? し、栞が家出しただとお〜〜〜〜!?」


 それが、状況を知った後、下条家当主・下条斎が発した第一声だった。
 そう叫ぶやいなや、彼はふっとその場に倒れかける。

「あ、あなたっ!! しっかりなさって!!」

 すぐ横にいた彼の妻が慌てて彼を支え、近くの椅子に座らせた。その彼女の顔も血の気が引き、まるで紙のような様相を呈している。
 側近の一人が転がるような勢いで水を持ってくると、斎はそれを一息で飲み干し、絶望的な深いため息をついた。

「何という事だ……。このような不祥事、我が下条家始まって以来初めてだぞ……」

 蒼白な顔色で呻くように漏らすと、そのまま頭を抱え込んでしまう。

「も、申し訳ありません…っ、私の、私の育て方が間違っていたのですわ……!!」

 彼の嘆きを受けて、その妻はわあっとその場に泣き崩れる。
 ── 端で見ている分には、大げさな芝居がかったその様子は大いに笑えるものであったが、本人達はいたって真剣である。
そんな彼等の血が自分にも流れているのだと思うと、問題のブツの第一発見者は本気でうんざりした。

「…あのさ、ショックなのはよく分かるんだけど……」

 側近達の、何とかしてくれと訴える目に負け、渋々口を開く。
 と、まるでそれを待っていたかのように、二人はぱっと顔を上げ、期待に満ちた目を向けてきた。

「…騒ぐより、さっさと栞の奴を捜した方が賢いんじゃないか?」

 その言葉に、側近達が我が意を得たりとばかりに頷きあう。

「おお、我が息子、巡よ! よくぞ気付いた!!」

 今まさに考え至ったという様子の発言に、本気で頭痛を覚える。
 これがこの世界を支える『四天二柱』── それも二天を従える一の柱、下条家の当主なのだ。我が親ながら、よくも勤まるものだと思う。

「すぐに栞を捜し出すのだ!!」

 びしいっと命じたその言葉は、しかし遠慮がちな物静かな声によって水を差される。

「── 恐れながら下条様……」
「何だ、雨水?」

 口を開いたのは、五人の側近でも最古参の男だった。
 何事かとその場にいた全ての目が彼に集まった。彼はそんな視線を物ともせず、淡々と述べる。

「わざわざ捜す必要はもうないと存じますが」
「何故そう言い切る?」
「は…、先程、栞様のお手紙を巡様が発見なさった際、私もその場に居合わせましたので。もうすでに城下は調査いたしました」

 そこまで言うと、雨水はチラリと巡に目配せした。その意図を察し、巡は代って口を開いた。

「父さん、」
「この場ではそう呼ぶな、息子よ」
「…はいはい」

 軽く肩を竦め、下条様、と呼び直す。

「どうやら、栞は城下にはいないみたいだ。だとしたら、残りは一つしかない。雨水には立ち入れない下条家の者だけが使える移動手段──」
「『門』か!?」

 斎は驚きを隠さずに叫んだ。

「そんな、まさか……」

 彼の妻も、信じられないと言わんばかりの、今にも卒倒しそうな顔で呟く。
 そんな彼等に構わず、巡は言葉を重ねた。

「雨水の情報収集能力は知っての通りです。それをもってしても見つからないんだ、それしか考えられないでしょう? 栞はばかじゃない。だから城下に出たりはしないと思っていたけど……」
「しかし、『門』を使うなど……」
「甘い」

 仮にも父親にぴしゃりと言い放ち、巡は上目遣いに彼を見た。

「許可を。『門』を使ったなら何らかの痕跡が残っているはず。急がなければそれもなくなるかも知れません」
「…わかった、非常時だ。許そう」

 巡の迫力に押されるように斎は頷いた。
 思いがけずあっさり許された事に、巡はほんの少し意外な感じがしたが、それ以上は何も言わなかった。どうやら、事態は彼が思っているより深刻なようだ。
 その時まで。巡は姉の失踪をそれ程深くは考えていなかった。
 しかし、その数日後に彼は知る事となる。その事が、その後の彼の人生を大きく左右しかねない状況を生み出す事になってしまう事を。
 結局『門』を調べた結果、そこを使ったと思しき痕跡が発見され、下条家の長女の家出が確認された。
 それはまさに、新年を向かえる数日前の事。


 回帰月二十と五日。下条栞、失踪す。

+ + +

 『四天二柱』── それは世界を構成する六つの区域を表わし、『四天』は《東域》《西域》《南域》《北域》を、『二柱』は《天域》《地域》をそれぞれ示している。
 六つの区域にはそれぞれの地を統べる統治者が存在し、彼等はその地において『王』であり、また『神』であった。
 彼等の一族を総称して『六家』と呼び、民と異なり姓を持つ。各家は互いに血を交わす事で結束を強め、世界を守護してきた。
 《地域》の守護役である下条家を襲った問題は、ここから生じたと言って過言ではない。
 何故なら、血の交わりは『二柱』においては特に重要な意味合いを含んでたからだ。
 『二柱』の家に生まれてきた以上、余程でなけば避けられない宿命。天と地の均衡を保つ為に繰り返されてきた、『必然』。
 それはあまりに長い事繰り返されてきた。それ故に──。

+ + +

 思えば、彼女が失踪する数日前からその予兆はあった気がする。もっと正確に言うなら、回帰月二十日の夕刻から。
 その日、何かの会話の弾みで斎がぽろりと漏らした何気ない一言。それが引き金だったのだと思われる。
 曰く──。

『栞、お前は一応女なのだから、少しは化粧の練習でもしておけ』

 そしてさらにはこう付け加えた。

『あまり愛想がないと嫌われるぞ』

(誰にだ)

 その場にいた人間(全て血縁者)は皆、心の中で思ったに違いない。
 何しろ、その前日までは、

『栞、化粧なんぞする必要はないぞ。お前はまだ十五だし、第一、そんな ものしなくても母に似て美人だからなあ』

などとのたまってくれたのだ。
 『たった一日の間に何が!?』と思えるほどの変わり様である。 
 その時、巡は確かに見た。
 気の強さは天下一品、実際巡など勝てた例のないその栞が怒りもせず、口元に微笑みを浮かべたのを。…ちなみに目は冷たく光っていた。
 おそらくこの時に栞は気付き── そして家出を決意したのだろう。
 いや、もしかしたら前々から予測はしていたのかもしれない。今まで、そういう話にならなかった方がおかしいのだ。
 『二柱』において生を受けた娘は、天と地の均衡を保つ為に、必ず他方へ嫁がなければならない。それは今までかつて一度も覆された事のない理なのだ。
 まったく例外がなかったかといえば、確かに嘘になる。だが、連綿と続いた《ニ柱》の歴史上、その例外は数える程度しか存在しなかった…不思議な事に。
 しかし。
 栞は宿命だと言われて、はいそうですか、と納得するような少女ではなかった。
 ── 幸か不幸か。

+ + +

「…それは何ですか? 巡様」

 突然そんな声が背後でした。
 驚いて振り向くと、そこに見知った顔の女が何時の間にか立っていた。余程巡が驚いた顔をしていたのだろう、こちらも目を丸くしている。

「そんなに驚く事ないでしょう。…何か、良からぬ事でも考えていたんですか?」

 そう言ってふわりと微笑む。そこでようやく巡はようやく自分を取り戻した。

「蘭珠……」
「お邪魔でしたか?」

 軽く首を傾げる。それに合わせて赤茶色の緩くウェーブがかった髪が揺れた。
 今年で二十歳の、なかなかの美女だが、惜しまれる事にその髪は肩の辺りでざんばらに切られ、着ている服は味も素気もない地味な男物である。

「…またそんな服を着てる。城内にならず者なんてそうそういないんだから、女の服を着たらいいのに」
「おかしいですか?」
「うん」

 はっきりした答えに蘭珠は目を細めて笑った。

「お許しを。…この姿の方が楽なのです」
「でも、せっかく美人なのに」

 巡の本心からの言葉に、蘭珠はおやおやといった顔で言った。

「あら、お褒め下さってありがたいですわ。でも、私は栞様や、巡様の方が美人だと本気で思いますよ?」
「…何か、嬉しくない。そりゃ双子だから造りは一緒だけどさ」

 実際本気で言っている言葉に、巡は苦虫を噛み潰したような顔になる。
 唇を曲げる主人を面白そうに眺めて、蘭珠はその傍らに腰を下ろした。

「それより、それは何なのです?」

 手元に向けられた蘭珠の視線を辿り、巡は彼女が何を知りたいのか理解した。

「これの事か」

 そう言って手にしていた紙片を差し出す。受け取った蘭珠は、それにさっと目を通すと納得のいった顔で頷いた。

「なるほど。それで側近達が、やけにバタバタと落ち着かなかった訳ですね」
「そういう事…あれ?」

 ふと気付いて、巡はきょとんとする蘭珠に目を向けた。

「何で蘭珠が知らないのさ。牙珠は?」

 蘭珠が巡についているように、栞についていた蘭珠の兄を想って問いかける。

「ああ。あれは何も言いませんから。それ以前に最近顔も合わせていないんですが」

 そう言って肩を竦める。

「仮にも兄に対して冷たいかもしれませんが。…あの口の固さは半端ではありません。きっと今頃、父を含めた側近達が泣いているでしょうね」
「あ、そうか。牙珠に責任を問われる事もあるんだよな……。同情するよ。よりにもよって、あの栞の守り役なんてしているから。多分、栞の事だから牙珠にも何も言ってないと思うし」

 同情的なため息を漏らし、巡は空を仰いだ。

「それはそうと、蘭珠。俺に何か用があったんじゃないの?」

 思いついて話を振ると、我に返った顔で蘭珠は頷いた。

「ええ、下条様がお呼びです。何か、思い悩んだ御顔でしたわ」
「父さんが?」

 何か、嫌な予感がした。
 行ったらそこで、何か自分にとって良くない事が起こるような──。
 被害妄想と言われれば否定も出来ないが、悲しいかな、今までそういう予感が外れた事の方が少ない。
 だが、嫌な予感がしたからと言って、すっぽかす訳にも行かない。巡は渋々と腰を上げる。
 そして、父親でありまた下条家の当主である斎の私室に向かった巡は、そこでやはり行くべきではなかったと後悔する羽目となる。
 そう…今回もその予感は、ものの見事に的中してしまうのだった……。

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