神の悪戯
承 〜白夜祭にて(前篇)〜
(…どうしたらいいのだろう……)
ぐるぐると思考が回る中、ただその言葉だけがはっきりとした意味を持っていた。
目の前には人、人、人。人ばかり。
日頃城内からほとんど出た事のない巡にとって、目前の人の海は驚異以外の何ものでもない。そんな最中に、何故か巡は一人で突っ立っている。
(何で…こんな事に……)
しかし、それに答えてくれる者は誰もいない。
巡は途方に暮れながら思い返す。そもそもこんな所に来る羽目になった、事の顛末を──。+ + +
「巡、《天域》に行って来い」
開口一番にそう言うと、斎は訳もわからず立ち尽くす息子に椅子を勧めた。
「…どうして俺が?」
椅子に腰を落ち着けて、ようやく口から出たのはそんな言葉だった。その質問を予期していなかったのか、斎は目を丸くする。
「かわいい我が息子は、かわいそーなお父様の頼みを聞いてくれないのか…っ」
そう言いつつ、そっと目頭を指で押さえる。
そのわざとらしい演技に、巡は頭痛を覚えながらも先を促した。
「…あのなあ。俺が聞きたいのは理由だよ。まだ行くとも行かないとも言ってないだろ?」
「そうだったか」
途端ににこやかな表情になる。その変わり身の早さに、巡が呆れ果てたのは言うまでもない。
「そもそも、全ては私の監督が行き届かなかった事に責任がある」
打って変わった重々しい口調で、斎は話し始めた。
「よもや栞が家出する程『昇嫁』を嫌がっていたとは、この父は思いもしなかったんでなあ」
そこではあ、と辛気くさいため息を一つ。
「…別に栞は昇嫁だけを嫌って家出した訳じゃないと思うけど」
思わず茶々を入れる巡。しかし、それに構わず斎は続けた。
「しかし、だ。この《地域》を統べる下条家の娘として生まれたからには、昇嫁は避けて通れないものだ。栞にもその事は十分に説いていたつもりだったんだが……」
「でも、家出しちゃったし」
「……」
ついに無言になる父親に流石に同情して、巡はフォローとばかりに話題を転じた。
「そ、それで、何がどうなったら俺が《天域》に行く事になるんだよ」
咄嗟の機転だったのだが、打たれ強い父親はあっと言う間に復活していた。いつもの調子で巡を窘(たしな)める。
「息子よ、短気は良くないぞ」
「…なら、前置きはいいからちゃんと説明してくれよ。『理由』を」
「栞は近々昇嫁する予定だった」
苛々する巡の心中を知ってか知らずか、斎は淡々と言葉を紡いだ。
「それで新年を迎えたらまず顔合わせをしようという事になった。相手は知っての通り、《天域》の当主── 次期ではない。つまり、そう簡単には動けない訳だ。それでこちらから向こうへ出向く事になっていたんだが……」
「…その肝心の花嫁の方がいなくなってしまったという事か。…って、まさか……っ!?」
がばっといきなり血相を変えて身を乗り出した巡を、不思議そうに斎が見返す。
妙な沈黙が流れた後、巡が恐る恐るといった様子を隠さない押し殺した声で問いかけた。
「まさか、俺に代わりをやれって言うんじゃないだろうなっ!?」
「なるほど、その手があったか」
ぽんと手を打った斎に、巡は気負いのやり場を失ってがくりと肩を落とした。
そんな息子を面白そうに眺めて、斎は安心させるように、やるとしてもそれは最終手段だ、と慰めにもならない事を言う。
あんまりな言い様に言葉なくうなだれた巡へ、斎は唐突に本題を切り出した。
「お前には私の代わりをしてもらうのだ、巡」
「…え?」
顔を上げると、相変わらず捕らえ所のない微笑みを浮べて、斎は巡を見ていた。
「今、雨水達に『門』を調査し、栞が何処に跳んだのか推定してもらっている。しかし、『門』を使った以上、そう簡単に割り出せないはずだ。あれが一体何故、各地を統べる当主に権限が任されているのか。その理由を知っているか? 巡」
予想もしていなかった問いに、巡は自分でも満足のいく答えを見出せなかった。
『門』とは、特殊なものであり、各地の当主とその許しを得た者だけがくぐれるものであるという事ぐらいしか知識がなかったのだ。
次期当主となるはずの巡でさえそうである。他の人間にはもっと理解し難いものだろう。
「あれはな、下手をすると時間軸までも歪めてしまうのだ」
巡の沈黙を返事とみなして、斎は答えを口にした。
「場合によっては予想外の場所に辿り着く所か、二、三十年は時差を飛び越えてしまう。…つまり、それだけ危険だし、見つかる可能性もかなり低いのだ」
そこまで言うと、斎は言葉を切り、何か問いかけるような目を巡に向けた。ここまで言えば答えはわかるだろう、と言わんばかりだ。
だが、巡には父親の言いたい事の見当がさっぱりつかなかった。
「…それで? 栞が見つからない事と俺が《天域》に行く事がどう結びつくんだよ」
「…言っただろう、ばか息子」
にやりと笑って、斎は言い放つ。そしてそのまま巡の反論を待たずに言葉を重ねた。
「私の代わりをやってもらう、と。私はこれでも《地域》の守護役、下条家の当主だ。『門』の管理を任されている以上、私が動く事は出来ない。つまりだ。《天域》に赴き、顔合わせの期日の延期を伝えてもらいたいのだ。一応、お前は下条家の次期だ。その位の責任は果たせると思うが?」
「…つまり、こういう事か……?」
ようやく合点がいった巡は、じとり、と斎を睨み付けた。
「俺に、あんたに代わって《天域》の当主に頭を下げて来いって事かっ!?」
「その通りだ」
「あーのーなあっ!?」
あっさりと肯定してみせた斎に、巡は噛みついた。
「何で俺がそんな事……っ!」
「…私は《地域》を簡単に離れられない。その上、この事態だ。《東域》や《南域》ならばともかく、《天域》などには到底動けはしない。…まあ、私も最初はお前の身体も事もあるし、榊にでも行ってもらおうと思っていたんだが」
「榊に?」
ふと、分家である右条家の次期の顔が脳裏を駆け抜けた。
巡にすれば実の従兄弟にあたる。学者肌の、それでも人当たりの良さをそれなりに持つ逸材である。
「いいんじゃないか? 榊はしっかりしてるし、俺よりはマシだと思うけど?」
「確かにな。榊ならお前と違って思慮分別があるし、落ち着きも教養もある。それに、《天域》の当主と年齢も近いしなあ」
「……」
実の親とは思えない言い草である。だが事実であるだけに、巡は何も言えず、かといってムッとはきて反論を試みた。
しかし、巡が口を開く前に斎はにっこり笑って言ってくれる。
「しかし、どんなにばかでも私の息子はお前だ」
そう言われたら、何も言えない。…少し引っかかるものはあったが。
「だからお前に任せる事にした。ただ…『万が一の事』が起こった時が問題だ」
「…確かになあ……。いくら何でも誤魔化せないよなあ……」
「《天域》の当主は若いが切れ者だからなあ」
うーむ、と腕組みをしつつ、斎はちらりと巡を見る。
「せめて、お前がコントロールでも出来ればいいのだが、こればかりは、なあ」
「仕方ないじゃないか。体質なんだし」
斎の何処か責めるような口調に憤然として巡は訴える。
「大体、俺だって好き好んで女になる訳じゃないんだからな!!」+ + +
「ちょっとそこのお兄さーん! 良いものあるよ、寄ってかない!?」
そんな脳天気な声で、巡は我に返った。
ほとんど反射的に声のした方に目を向ければ、派手に着飾った客引きらしい男が、満面の笑みを浮かべて見下ろしている。
…が。
目が合った瞬間、男は目を丸くして口笛を吹いた。
「おっと、こいつは失礼。まさか男装の美少女とは気がつかなかった」
「…何か?」
上目遣いに睨むと、男は大仰に肩を竦めた。
「そんな恐い顔をしないで! 折角美人なのにもったいないよー?」
何時か何処かで聞いたような事を言いながら、男は検分するようにその目を巡の頭から爪先まで走らせる。
そして満足そうに頷くと、お約束のような言葉を口にした。
「お嬢さん、お暇なら僕と一緒に……」
「断る」
一刀の元に切り捨てて、巡は背を向けて人混みに紛れ込んだ。男が追ってこない事に安堵しつつ、深くため息をつく。
「ったく…何だってこんな時に、こんな状況で、こんな事になるんだよ……」
呟き声は普段と異なり高い。まさしく、鈴を転がすような澄んだ響きを持つ、しかし必要以上に甘くない声だ。
視線もほんの少し低く、服が少し泳いでいる。
そこにいるのは、紛れもなく少女、しかも稀に見る美少女であった。
明るい茶の髪も金茶の瞳も、少年であった頃と全く変わっていないにもかかわらず、である。
つまりは、巡はとんでもない女顔だという事でもあったが、まだ十五歳という事もあり、それ程表立っては目立たなかったのだ。
(嫌な予感が当たってしまった……)
巡の暗さに反して、周囲は明るく賑やかだ。巡は何となくぐれたくなってしまった。
あと二日で新年を迎える今、この時期。《地域》の対極に位置する《天域》では祭りがある。
『白夜祭』と呼ばれるこの祭りは、その名の通り夜であっても昼のように、新年までの二日間夜を徹して光と活気に満ちあふれるのだ。
今日はその初日。周囲が輪をかけて賑やかなのは当然の事であった。
(こんな事なら祭りが見たいなんて思わなきゃ良かった……)
そう心の中で嘆きつつ、後の祭りという言葉を噛み締める巡だった。
《地域》では祭りはほとんど見られない。外出を禁じられている訳ではなかったが、治安がいいとは言い難い以上、簡単に出かける事も躊躇われたのだ。
うかつだった、と言えば確かにそうだった。このような状況に陥る危険性は何時でも何処でもあったのだ。
── これがせめて明日初顔合わせとなる《天域》当主の目前でなかっただけ、救いだと思うべきなのだろうが。