神の悪戯
承 〜白夜祭にて(後篇)〜
女性化── それが巡の持つ、体質的な問題だった。転換体質とも言う。
男女両方の性を行ったり来たりする厄介な体質で、一般ではほとんどいないが、守護役を担う家においては、稀ではあるが珍しい事ではないものである。
しかし、問題は大いにあった。何しろこれは時と場合を選ばない。斎が唸るのも無理はなかった。
基本的に自分は男だと思っている巡にしてみても、これは頭の痛い問題なのだ。これではまともに恋愛など出来るはずがない。
(…せめて、蘭珠に一言頼めば良かった……)
黙って抜け出してきたのだ。心配しているだろう── 色々な意味で。早く戻らなければ、と気は急いた。
だが、しかし。
(…西通りは何処にいってしまったんだ……?)
人混みに紛れた結果、道を見失ってしまったのだ。それも、全く見知らぬ場所で。
道を聞こうと思っても、具体的な場所がわからないし、それ以前に興奮状態にある人々は近寄り難いオーラを発しているのだ。
巡は途方に暮れた。
(…だが、こんな所で立ち尽くしているのはあまりにも不毛……!!)
よし、と気合いを入れ、巡は近くの露店の主人に話しかけようと試みた。
「済みません、あのっ、に、西通りは……っ」
「あーら、ごめんなさあい。ちょっとどいてねえ」
そんな間延びした声がすぐ背後でしたかと思うと、謎の衝撃が巡を襲った。
「!?」
身体がぶつかったのだ、と理解する暇などなかった。
(えっ?)
ぐるり、と視界が回る。目の前に露台がぐんぐん近付いてくる。
(…ぶつかるっ!?)
思わず目を閉じ、来たるべき衝撃に備えて歯を食いしばる。
(!!)
軽い衝撃が身体を駆け抜けた── が。
(……?)
何故か痛みはいっこうにやって来なかった。
怪訝に思いつつ目を開くと、至近距離に露台があり、その寸前で巡の体は止まっていた。
(???)
何が起こったのかまったく理解出来ずに、巡は混乱に陥りかけた。頭の中を疑問符が駆け回る。
その時だった。
「大丈夫かい?」
心配の滲んだ声が耳元でし、巡ははっと自分を取り戻した。それと同時に自分の肩と腕を掴む手の存在に気付く。
「あ…れ……?」
まだそれでも状況が掴めないまま、巡はゆっくりと背後に顔を向けた。
「今日は祭りだ。気をつけないと。周囲は他人にはまったく気を配っちゃいないんだから」
その場にそぐわない、穏やかな口調だった。
それだけ言うと、巡の恩人は肩と腕を掴んでいた手を離し、そっと微笑んだ。
「は、はあ……」
間の抜けた返事を返しつつ、巡はその人物を凝視した。
見た所、二十歳前後。漆黒の髪と瞳を持つ青年である。
身なりは周囲の人々に比べ地味なものだったが、かえって気品すら漂わせているように巡には思えた。
切れ長の目に宿る光は理知的で、どちらかと言えばこんな祭りにやってくるよりも、図書室か何かで静かに読書している方が似合いそうだ。
そんな遠慮のない巡の視線を平然と受けとめて、青年は面白そうなものでも見るかのように僅かに目を細めた。
「…そんなに、《天域》の人間は珍しいかい?」
からかうようなその言葉に、巡はようやく自分がどういう状況なのかを理解した。
「い、いやっ、そんな事は…っ」
慌てて目を反らす。その様子が可笑しかったのか、青年が小さく笑い声を漏らした。
しかし、それはばかにしているようには聞こえない。これもまた人徳とでも言うのだろうか。
「あの、助けてくれてありがとう」
ようやく巡は礼を言った。恥ずかしくて穴があったら入りたい位だった。
「どういたしまして」
青年はそんな巡の内心には気付いた様子もなく、さらりと穏やかに返した。
「これからは気をつけて。どんどん見境がつかなくなるからね」
一目見て巡が余所者である事に気付いたのだろう、そんな忠告まで言ってくれる。
「あ、ありがとう」
素直に受けとめて、巡は頭を下げた。
「じゃあ、僕はこれで」
「ちょっと待った!!」
頷いて、去って行こうとする青年を、思わず呼び止めてしまい、巡は一体自分が何をしたいのかわからず、パニックに陥った。
ぐるぐると、どうしようという言葉だけが頭の中で渦を巻く。
「…何か?」
「あの、その、えっと……」
(…どうして呼び止めたりしたんだ、俺っ!? これで何もなかったらばかみたいじゃないか!?)
内心だらだらと汗を流して巡が悩んでいる間に、二人の間に妙な間が生じた。
「……」
「……──!」
困り果てて、どうしたものかと思ったその時。不意に巡の頭の中を名案が駆け抜けた。
(よ、よっしゃあ、これだ!!)
自分で満足し、巡は怪訝そうに自分を見つめている青年に向き合った。そして出来るだけ心細そうな様子で言葉を紡ぐ。
「…済みません。あの、恥ずかしながら…道を教えていただけませんか? 迷ってしまって……」
「道?」
青年は巡の内心に気付いた様子もなく、腑に落ちたような顔になると、安心させるように頷いた。
「いいよ。何処に行きたいんだい?」
「えっと、…西通り、なんだけど」
「西通り? ならすぐそこだよ。連れていってあげよう」
「済みません、助かります」
うまくいった事に対してと、何とか無事に宿に戻れそうな事に安堵して、巡は内心ほっとため息をついた。
そうしながらも、笑顔を保って青年の横に並ぶ。青年は巡より頭一つ以上背が高かった。
会って間もない人間について行くなど、危険以外の何ものでもないのに、何故か巡はその時そんな事は考えもつかなかった。+ + +
「め・ぐ・り・さ・ま? …一体、今まで何処で、何をしていらっしゃったんですか?」
にっこり。
そう表現するしかない笑顔を浮かべつつ、これ以上はない迫力で蘭珠は巡に迫る。
確実に部屋の気温は、外よりも幾分下がっているに違いない、と場違いな事を巡は考えた。
(…本気で、怒ってるなあ……)
自業自得ながらも、巡は心の中でため息をついた。日頃優しく、滅多に怒らないだけに、蘭珠の怒りは恐ろしい。
「…私は十の年からあなたの守り役としてお仕えしてきました。何があってもあなたの味方であろうと、ただそれだけを思い、見守ってきました。──…なのに。あなたは、私に黙ってお出かけになるんですね。ここは《地域》ではないんですよ?」
「…うん、わかってるよ……」
「…それがわかっていながら。もしもの事があったらどうするつもりだったんですか。何の為の守り役です?」
(…実際、もしもの事ならあったんだけどな……)
流石に正直に話す訳にはいかないだろう。
結局、青年の親切な道案内で、無事に宿まで戻る事が出来た巡だったが、その青年と別れた途端、元の少年の姿に戻ってしまったのだ。
だから黙っていれば罪状は黙って出かけた事だけになるし、蘭珠に余計な心配をさせずに済むはずだ。
「ごめん、蘭珠」
ここは素直に誤るのが得策だ、と頭を下げる。
巡も、蘭珠が怒るのは守り役としての役目からではなくて、純粋に巡の身を案じてくれるからなのだという事はわかっているのだ。
「本当に、ごめん」
「……」
対する蘭珠は沈黙で応える。頭を下げたままの巡には、蘭珠はどんな顔をしているのかわからなかったが、じっと蘭珠の言葉を待った。
そして。
「…まあ、あなたがこうなさる事など、下条様もお見通しだったのでしょうね」
苦笑の滲んだ、呆れたような口調。そこで二人の間にあった緊迫した空気は幾分和らぐ。
「…父さん?」
全く予想外の言葉に、思わず顔を上げると、蘭珠が苦笑混じりに頷いた。
「お気付きじゃなかったんですか?」
そう言った顔は、何だか意味有り気だ。ばかにしている訳ではないようだが、非常に気になる笑顔である。
「下条様が今回あなたの《天域》行きを取り計らったのは、巡様に世界を見せておきたかったからですなんですよ」
「世界?」
「ええ。あなたは下条家の次期。つまり、あなたは将来《地域》の守護役として《地域》に縛られる事になる。…そうなったら、《天域》になど、下手すれば一生来る事も出来ないんですよ」
「……」
それは確かな事実だ。
各地の守護役とはそうしたものなのだ。言わば生きた人柱のようなもの。
時としてその場所の平安すら左右する。統治者としての側面よりも、むしろそちらの方が重い。
「だから…下条様はあなたに他の場所を見せておきたかったのですよ。御自分が当主になられたからこその親心です」
まさかそんな意図が隠されているとは思わなかった。
そんな事を考えもしなかったし、あののらりくらりとした父親がそんな事まで考えてくれるなんて意外でもあった。
気恥ずかしさから思わず外方を向く巡に、さらに蘭珠は重ねて言う。
「それに、これは私の勝手な想像ですが、この先あなたが当主となられる事を考えても、《天域》の御当主に会見する機会を与えたのではないか、と思われます。…あなたのなさった事は、そうした下条様のお気持ちを踏みにじるようなものだったのですよ」
「…ごめんなさい」
もう、こうなったら謝り倒すしか道はなかった。
「…巡様、あなたの好奇心は決して悪いものではありません。…お願いですから、私の知らない場所で無茶はしないで下さいね」
「はい」
「…いいお返事ですわ」
にっこり笑った蘭珠はもう何時もと同じ笑顔だった。
「では、反省なさった所で、明日の予定ですが……」
さっさと話を切り替えると、蘭珠は明日の《天域》当主との面会の詳細を述べた。
それを黙って拝聴していた巡だったが、その内生来の好奇心が首を擡げる。
「…蘭珠。その《天域》の当主って、俺の従兄弟になるんだよな」
「え? ええ、そうです。御当主の母君は、下条様の妹君ですから」
唐突な巡の質問に、蘭珠は面食らったような顔で答えてくれる。何を今更、といった様子で視線を巡の方へ投げかけてきた。
「似てるのかな、俺達って。どんな人なのかな」
その純粋な巡の疑問に対する蘭珠の反応は、実に分かり易いものだった。つまり── 大笑いしたのである。
「め、巡、様…っ、そ、そんな事もお知りになってなかったんですか……っ?」
笑いで息も絶え絶えになりながら、蘭珠はそんな質問を返してきた。目許には涙すら浮いている。
「…悪かったなっ、そんなに笑わなくたっていいだろう!」
不機嫌さ全開で頬を膨らませた巡に、蘭珠は困ったように笑いを収めて、済みません、と謝る。
「まさか、そんな事を聞かれるなんて思わなかったもので……」
「どうせ俺は物を知らないよ」
ふん、と拗ねたように言えば、蘭珠は微笑んで頭を振った。
「《天域》御当主の人となりなど、私も知りませんよ」
「じゃあ、何であんなに笑ったんだよっ」
「…だって、巡様? そういう事ではなくて、本当に何も知らないんでしょう?」
「……」
「《天域》の御当主はとても有名なんですよ。御顔や性格などはもちろん存じませんが、御名前位は私も知ってますもの。でも、巡様はそうした事を引っ括めて知らないでしょう?」
反論出来なかった。実際、巡は《天域》当主の名前すら知らなかったのだ。年齢、その実績等に至っては言わずもがなである。
「…そんなにすごい奴なのか?」
恥を忍んで尋ねると、蘭珠は少し考え込んでからぽつぽつと答えた。
「そう、ですね…世間では《天域》を甦らせた方だと、言われてますね」
「甦らせた?」
「ええ。…前代の御当主、白希様はとても病弱な方で、政務はほとんど側近の手に委ねられていたとか。その為…具体的にはよくわかりませんが、《天域》は一時完全に乱れたそうです。それを正されたのが現当主なんですよ」
「へえ……」
普通に暮らす分には、特に他の場所の事など知らなくても問題ない位である。
特に『二柱』は『四天』とは空間的に離れ、しかも《天域》と《地域》はその『四天』のある地上を挟んで対極にあるのだ。
巡はまるで他人事としてその話を受けとめ、単純に感心した。だが、話はそこまででは終わらなかった。
「もちろん、それだけなら大して有名にはなりません。それならば、《地域》の先代の方が余程有名ですもの」
そう言って、蘭珠は意味有り気に巡を見つめた。赤紫の瞳に、思いがけず真剣な光が浮かぶ。
「問題は、その時、御当主がまだ十五歳の少年に過ぎなかったという事です」
「!!」
(俺と、同じ年で……?)
「…興味深いでしょう?」
そう言って、蘭珠は問いかけるような目を巡に向けた。
「…今、その…《天域》の当主っていくつなんだ?」
尋ねた巡に、蘭珠は今度は笑わずに答えた。
「《天域》守護役である尾上家の現当主、尾上祥様は巡様よりも四つ年上…今、十九歳です」
それを聞いてなるほど、と理解する。それならば、栞に縁談が来るはずだ。
(尾上…祥……)
心に名前を刻みつける。
(本当に、どんな奴なんだろう)
自分と同じ年の時に、世界の一部を背負いそしてそれを立て直した人物。期待とも不安ともつかない思いが沸き上がる。
そんな人物と自分は明日対面するのだ── 《地域》守護役・下条家の名代として。
外からは夜も更けたというのに、手拍子も激しい音楽とざわめきが聞こえてくる。祭りはまだ続いているのだ。
妙にどきどきする巡の心とは関係なしに、《天域》の祭りの夜はにぎやかに更けていった。