神の悪戯
転 〜思わぬ再会(前篇)〜
ばくばくばくばく。
今や、巡の心臓は極限状態に達しかけていた。掌が汗ばみ気持ち悪いし、何だか眩暈もしてきた。
(巡様、落ち着いてください)
気遣わしげに、蘭珠が耳元でそっと囁く。
(そんなに、緊張なさる必要はないんですよ)
そう、相手は《天域》の当主である前に、従兄でもあるのだ。
血の繋がった── 今まで、会った事も話した事もない相手だが── 親戚である。
だが、だからと言って緊張が簡単に去ってくれれば苦労はない。蘭珠に心配ないと微笑みかけた顔は、悲しいくらいに引きつったものだった。
(巡様……)
さらに蘭珠が何かを言いかけた時だった。彼等の前を先導するように歩いていた、黒い服を着た若い男が立ち止まる。
先程巡達を迎え、そのまま問題の当主がいる部屋まで案内してくれていたのだが、流石に巡に緊張が伝わってしまったのだろう。
「下条家次期様」
静かに深い声が巡を呼んだ。
何事だろうと思って顔を向けると、現当主の側近頭を務めるというその男は巡を気遣うような目を向けている。
「御気分が優れないようでしたら、遠慮なく仰って下さい。すぐに部屋を用意させます。お顔の色が、先程からよくございませんが、大丈夫ですか?」
やはり、と思うと同時に巡は赤面した。
いくらこういう場面に慣れていないとは言え、相手の側近頭に心配されるようでは、下条家の次期の名が廃るというものである。
すぐに大丈夫だと手を振って否定すると、相手は流石に慣れている様子で頷いた。
「ならば安心いたしました」
にっこりと微笑んだ顔は何処か人を安心させるもので、巡の緊張も少し解れた。
気分が少し落ち着いた所で、ようやく巡も周囲を見る余裕が出てきた。再び歩き出しながら、前を歩く男を何気なく観察する。
当主が十九歳であるからか、側近頭を務める彼もかなり若い。
栞の守り役の牙珠と同じくらいだろうか。二十歳をいくらか過ぎた辺りのようだ。
かなりの長身で、体格も恵まれている。日に焼けたような薄茶の髪を無造作に後ろで束ね、雰囲気的にはおよそ文官たる側近には見えない。
外見で人を判断すべきでない事は巡にもよくわかっている。実際、彼の言葉遣いは失礼でない程度に丁寧だし、物腰も穏やかである。
妙なギャップを感じはするけれど、いい人みたいだ、と巡は結論付けた。
人の上に立つ人間の側には、自然と似たような人間が集まるものである。
だからきっと、この男が仕える当主もきっと穏やかな雰囲気の人に違いない── と、巡は勝手に思ったりもした。
…そういう脈絡もない考えをしてしまうくらいに、これから会う人物を気にしているという事でもあったのだが、当然巡は気付きもしない。
「あの奥の間で、当主はお待ちです」
と、男は先に見える扉を視線で示した。
巡はその言葉で我に返り、その動揺を振り払うように一度頭を振ってその後に続いた。+ + +
「尾上様、何か良い事でもあったのですか?」
背後に控える側近の一人の思わぬ言葉に、彼── 《天域》守護役である尾上家の若き当主は首を巡らせ、言葉を発した人物に目を向けた。
「何故、そんな事を?」
今まで側近からそのような事を言われた事がなかっただけに、驚きを隠せなかった。
滅多に動揺を見せない彼の驚きに、尋ねた側近の方が面食らったのか、困った顔をして自信なさげに答える。
「はあ…、何か、嬉しそうな御様子でしたので」
あまり答えになっていない言葉だったが、そうとしか言えなかったのだろう。その答えに、彼はくすり、と笑みを零す。
── それが、またしても周囲の側近をぎょっとさせるくらい、珍しいものとは考えもせずに。
「そうか…まあ、間違ってはいない、かな。何しろ…初めて従弟殿に対面するんだから」
「はあ……」
「下条家の現当主には会った事はあるが、次期は今まで話した事もない。どんな人間か気になるじゃないか」
そんな彼の言葉に、側近は一応納得したのか、ほっとしたような顔をする。それを確認して、彼は再び顔を正面に戻した。
彼の片腕たる側近頭が迎えに出向いたのは先程の事。そろそろこちらに来る頃だろう。
(…従弟、か……)
つまり、それは血が繋がっているという事だ。当たり前の事ではあるが…それは彼の胸に波紋を広げる。
(どんな人間なのだろう)
願わくば── 自分と似ていないといい。顔形ではなくて、その在り方が。
下条家の次期という事は、何時か自分と同じ立場に立つという事。だからこそ……。
そんな事を考えて、彼は自分の考えに微苦笑を浮かべた。そして、ばかな事だ、と自嘲する。
(似ているはずがない。下条と尾上は…違うのだから)
そう思った時、彼の真正面にある扉が叩く音がし、彼を思考の海から引き上げた。
「下条家の次期様をお連れ致しました」
扉の向こうから、聞き慣れた彼の側近頭の声が告げる。
(…来た……)
彼は一度目を伏せ、祈るように思った。
(似て…いなければいい……)
そんな彼を現実に引き止めるかのように、扉は殊更ゆっくりと開き始める。
彼は再び真っ直ぐに視線を上げる。初めて会う、従弟を迎える為に。
そうして── 《天域》と《地域》、二つのかけ離れた場所で生まれ育った二人はついに顔を合わせた。+ + +
扉が、開く。
軋む音一つ立てずに、ゆっくりと。
巡は一度深呼吸をすると、一歩足を中へと踏み入れた。
正面に人がいる気配がする。しかし、巡は目を上げる事が出来ずにいた。そのまま数歩進み、片足をつき礼を取る。
「…この度は、忙しい中お時間を割いていただきありがとうございます。私が……」
《天域》に着いてから幾度となく心の内で繰り返していた言葉を紡ぎながら、巡は意を決して顔を上げた。
目前に複数の人間がいた。その内二人はやや奥まった位置に立っている所を見ると、側近か何かだろう。
そしてその二人に挟まれるようにして、一人の青年が椅子に腰掛けている。その人物こそが──。
「「!?」」
目が合った瞬間。彼等の思考は凍りついた。
(こ、この人、俺…知ってる……)
まず最初に巡が思ったのはそんな事だった。しかし、すぐに自分の為すべき事を思い出し、慌てて言葉を紡ぐ。
「…私が、下条家次期、下条巡です」
半ば心あらずで名乗る。その反面、心の中は昨夜の白夜祭に飛んだ。
「…初めまして、巡殿。私が尾上家当主を務める尾上祥です。《地域》より、遠路はるばるよくいらっしゃいました」
そう労ってくれる声は、耳に覚えのあるものと同じだった。
当主の座に腰掛け、見事なまでのポーカーフェイスで微笑んでるのは、正に昨夜巡を助けてくれた青年その人である。
(な、何であの人がこんな所に…じゃなくて! 何で、あんな所にこの人がいたんだよ……!?)
仮にも、《天域》を預かる当主が、である。
他人の空似か、と《天域》当主の顔をじっと見つめてみるが、やはりどう見ても同一人物にしか思えない。
混乱する巡に気付いているのか、いないのか。彼は当たり前のように人払いを命じた。
「沙石、二人きりで話させてくれ。…内密の話だ」
「わかりました」
沙石と呼ばれた男──例の側近頭は、彼の主の言葉に頷くと、その場にいた他の側近と、巡に従っていた蘭珠を伴って退室していく。
去り際に、蘭珠が心配そうな顔を巡に向けたが、当の巡はそれ所ではない。
そうこうしている間に、部屋の中には巡と青年── 祥だけが残された。
「…さて、人もいなくなった所で、本題に入って貰えるかい?」
関係者だけになったからか、それとも血縁者だからか、先程よりもくだけた口調で祥は尋ねた。
「…本題」
どきり、と巡の心臓は跳ねた。
(あんた、昨日助けてくれた人だよな?)
…そんな問いかけが口元にまで昇った。しかし、それを口にする前に祥が口を開く。
「そう…一体、《地域》で何が起こったんだ?」
その、瞬間。極限状態まで張り詰めていた巡の緊張は一気に弛んだ。
(そ、そーか、そーだった……)
よく思い返せば、すぐわかる事だった。
(俺、あの時、女だったもんな……)
そして、それが巡本人である事を、祥は知らないはずだ。
特に隠す必要もない事実だが、巡本人が嫌がっている為に、一般にはまったく知られていないのだ。
しかも…祥に助けて貰ったのは夜。街灯りの下での遭遇だった。
普通なら、まさか巡と祭の最中に偶然助けた少女が、同一人物だとは考えないだろう。
「巡?」
怪訝そうに名を呼ばれて、巡は我に返った。
つい自分の世界に入ってしまったが、自分には何よりも大切な役割があったのだ。下条家当主の名代という、役割が。
「あ、あの…尾上様、実は……」
いざ用件を口にしようとした時、祥が視線で言葉を遮った。そして当たり前のように言う。
「祥、でいいよ。僕達は従兄弟同士なんだしね。堅苦しいのはナシにしよう」
「…じゃあ、祥。実は、俺が今日ここに来たのは──」
結局、巡は栞が失踪した事を包み隠さずに正直に話した。
初めは栞には悪いが、病気か何かにしておくつもりだったのだが、何故だろう、嘘をつくべきではないと思ってしまった。
栞が失踪したという事実だけでも、何故彼女が失踪したのかという理由が察せられてしまうというのに。
祥は巡の話を黙って最後まで聞いていた。話し終わった後でも、沈黙したまま何が考え込んでいる。
(…この人が、《天域》の当主)
その顔を何とはなしに眺めながら、巡は昨夜蘭珠から聞いた話を思い返していた。
弱冠十五歳で乱れていた《天域》を正したという人物── その本人が、今目の前にして、しかも自分と血が繋がっているのだ。
どう見ても、ごく普通の青年に見える事が不思議にすら思えた。
《天域》の再生── その偉業を、しかも彼はたった一人で成したのだと言うのに。
『白希様── 前・当主様は、当時世界各地で猛威を振るった悪性の流行り病で亡くなりました。夫人であり…下条様の妹君であった操様も後を追うように亡くなられ、御子だけが取り残されたのだそうです。
『その時、すでに《天域》は分家すらも絶え、尾上の血を引くのは現当主、そしてその姉君の御雪様だけ──。
『しかし、御雪様もそれからしばらくして白沢家── 《北域》守護役の元へ嫁がれた為、当主は一人この地に残されました』
── 守ってくれるはずの、家族がいない状況を想像するだけでも、巡には大変な事だと思われた。
例えば、今いつも一緒にいた双子の姉・栞がいないけれど、それでもまだ何処かに生きていると思っているからこうして平気でいられる。
本当にいなくなってしまったら── 多分、自分は立ち直れないくらいに落ち込むような気さえするのだ。
そんな状況で、今の自分と同じ年だった少年は、あまりに大きな世界を背負い、そして奇跡のような事を成し遂げた。
そして、それは今も続いている。《天域》の繁栄という事実をもって。
(── 俺には、出来ないな)
素直にそう思えた。
同じ状況に自分が置かれたとしたら、きっと絶望で一歩も動けなくなるような気がする。場合によっては、自分に負けて死を選ぶかもしれない。
一体── 彼の中の何の力が、それを可能にしたのだろう?
「── 昨日」
不意に祥が言葉を漏らす。それは巡を我に返すばかりか、動揺させるのに十分だった。
見ると、祥もじっと巡の顔を見つめている。それは、まるで観察するような視線で── 故に、巡は最悪の想像をしてしまった。
(ま、まさか…バレた!?)