神の

転 〜思わぬ再会(後篇)〜

 そんな事は万が一にもない、そうは思いながらも、巡は内心の動揺を隠すのに精一杯だった。
 そんな巡に気付いているのか、いないのか── 祥はゆっくりと口を開く。

「昨日、白夜祭で…巡によく似た少女に会ったんだけど……」
「違う!!」

 条件反射的に思い切り否定してしまった後、巡ははた、と我に返る。

 ── 今…自分は、もしかするととんでもない、墓穴を掘ってしまったのではないだろうか……?
 
「…あ、あの…その……」
「── 僕はまだ質問していないんだけど?」

 余りにも予想外の事だったのか、虚を突かれた顔で祥が言う。
 それはただでさえ自分のしでかした失敗に焦っていた巡を、さらに追い詰めるものだった。

「あの、だから…だから、その…っ」

 しどろもどろになりながら、何とかその場を取り繕おうとするのだが、如何せん、巡はそうした事が非常に下手だった。
 誤魔化そうとして、益々泥沼に嵌りかねない。巡は完全にパニックに陥った。
 …そこに、まるで助け船を出すかのように、祥が問う。

「栞嬢は巡とは似ていないのかな?」
「え、いや…そんな事はないけど。蘭珠、あ、俺の守り役なんだけど…、その蘭珠が言うには瓜二つって言うくらいに似てるらしいし……」

 ただし、そこには『女性化した巡』と栞が瓜二つだと言っているのであって、普段の巡と栞ではやはり男女で雰囲気の差が出るのか、間違う事はまずないという事実をも含まれていたのだが。

「では、先程『違う』と言った根拠は?」

 そう言って、祥はにっこり笑う。まさにそれは不意打ちにも等しかった。巡は先程取り戻した心の平安を、またしても失う事になってしまう。
 とても真っ直ぐ目を見て話す事など出来なくて、巡は考え込む振りをして視線を外した。

「……。栞は、そこまでばかじゃないから」

 答えた言葉は、我ながら根拠に薄く、説得力のないものだった。身内贔屓だとしたって、この返答はあんまりに違いなかった。
 しかし、昨夜会ったのが自分だと言いたくない以上、何とか切り抜けねばならない。苦手な嘘で嘘を塗り固めなければならないのだとしても。
 ── たとえ相手が、自分の何枚も上手な『大人』であろうとも。
 対する祥は巡の心情を知ってか知らずか、余裕の表情で軽く首を傾げる。

「なるほど? …けれど、『灯台下暗し』という言葉もあるよ」
「でも、見つからないって保証はないし…ここに《地域》の人間が来る事くらいは予想してるはずだ。そんな危険を冒してまで…それにわざわざ『門』まで使ったんだ、絶対に見つかりそうにない所にいると思う」

 顔を上げ、真っ直ぐに祥の目を見る。穏やかな瞳の奥の本心は全く読み取れない。
 その説明で納得してくれたのかもわからないが、ここで目を背けたら恐らく終わりだと巡は本能的に感じていた。
 祥は結局、それ以上その事には触れなかった。

「わかった、じゃあ《天域》側でも栞嬢を捜してみよう。いくら《地域》でもこちら側まで探索するのは難しいだろう? 今後の事は取り合えず彼女が見つかり次第、という事で── 当主殿にも伝えてくれるかい?」

 何処までも穏やかで柔らかな口調。
 内心ほっとしながら、ふと思って巡は尋ねた。

「祥は…栞と結婚する事に異議はないのか?」

 自分だって…恐らく顔も知らない相手と強制的に結婚させられるなら、逃亡くらい考えるような気がする。だから気持ち的には栞の行動は理解出来るのだ。
 けれど…明らかに自分との結婚を嫌って(本人を嫌った訳ではないのだが)相手が失踪までしてしまったというのに、特別衝撃を受けた様子もない祥の様子に何だか違和感を感じたのだ。
 巡の質問に、祥はおや、という顔になる。そんな事を聞かれるとは思ってもいなかったのだろうか。そして小さく笑った。

「…僕が嫌だと言って、ない事になるのならそれでもいい。だが、これはそういう問題じゃないだろう?」
「天地の理、だから?」

 祥は微笑むばかりで、答えない。それを肯定を受け取り、巡は祥を睨んだ。
 それを理由にするのは何か違うように思えた。

「…そうだから、栞の気持ちも…自分の気持ちも無視できるとでも?」

 何故か怒りが頭を擡(もた)げた。それを堪える為に、自然と声は押し殺したようなものになる。
 対する祥は、表情を全く変えずにあっさりと答えた。

「それが《柱》として生を受けた、僕の義務だからね」

+ + +

 『義務』という言葉を口にした瞬間、明らかに目前の少年は腹を立てたようだった。
 手に取るように感情の動きがわかる。大きな瞳が、その心を明確に表すからだ。

(…子供、だな)

 思ったよりも、ずっと。
 それが祥の、巡に対する印象だった。
 別にそれが悪いという訳ではない。ただ、自分が思い描いていたものと随分違っていただけで──。

(十五歳、か……)

 強い瞳で睨んでくる。真っ直ぐなその視線は、言葉以上に雄弁に物語る。…それは、かつて同じ年だった事のある彼とは全く違うもの。
 ── 『羨ましい』。
 そんな事を思う。自分を正直に表に出せる、そんな巡が羨ましい。今まで『義務』だけで生きてきた自分とは大違いだ。
 …その事が嬉しかった。

「義務感で結婚なんて出来るのか?」

 鋭い目つきのまま、巡が尋ねる。
 怒りを素直に表に出して── どうやら本気で怒っているらしい。

「それじゃ、栞が可哀想だ」
「可哀想?」

 祥は思わず笑いを漏らした。その反応に、巡の目にある怒りが益々燃え上がったが、本気で愉快だと思ったのだ。
 …今までそんな事を言った人間は他にもいたというのに、何故巡の言葉だけが自分の感情を動かすのかわからないまま。
 しがらみも思惑も、嫌という感情一つで否定できる『子供』の強さ。けれど──。

「…では、巡? 君は栞嬢が《天域》に昇嫁する事は不幸だと思うんだね?」

 巡は頷く。それは引いては祥が栞に相応しくないと言っているようなものだったが、恐らく自覚はないのだろう。

「ならば…その『義務』で嫁いだ僕の母も、不幸だったと言うのかな?」
「それは……」

 祥の言葉で、巡の目に微かな動揺が掠める。
 そう…子供の真っ直ぐな強さには、大きな弱点がある。前には進めても、後ろや周囲の状況を見る事が出来ないのだ。
 だから、別の側面を見せればそれは弱まる。

「確かに父は身体も弱く、人の手を借りなければ歩く事だって満足には出来ない人だった」

 幼かった頃の記憶が微かに甦る。
 死んだ父親の記憶は、寝台に横になり何処か悲しげに微笑む姿ばかりだ。

「…おそらく、そんな人間に『義務』とは言え、嫁いだ母は不幸に見えただろうね。でも…あの人は幸せそうだったよ」

 幸せそう、どころではない。あの人は横で見ていてでさえ、幸せなのだとわかる様子だった。
 ほとんどつきっきりで父親の世話をし、他愛のない話をしてはよく笑っていた。
 『義務』感だけでは、きっとあんな顔はしなかっただろうと祥は思う。
 ただそう思いはしても、何故そんなに母親が幸せそうにしていられたのかまでは理解出来なかったけれど。

「……」

 巡の目から怒りが消える。代わって迷いに似た感情が顔に浮んだ。
 おそらく、その辺りの事は巡もいくらか耳にしていたのかもしれない。やがて巡は振り絞るような声で問うた。

「確かに…『昇嫁』=不幸だと考えたのは安直だったかもしれないけど…でも、だからってあんたが栞を幸せに出来るなんてわからないじゃないか」

 昇嫁を義務の一言で済ませられる人間に。
 …言葉にしない部分までも、彼の態度は雄弁に物語っていた。
 不思議に思う。どうして巡は当事者でもないのに、ここまで心を砕くんだろうか?

「…そんなにも、栞嬢が大切なのかい?」

 それ以外に答えが見つからなくて尋ねると、巡は何故そんな事を尋ねるのかわからない様子で当然じゃないか、と答える。

「だって、大事な家族だ」

 何の躊躇もそこになかった。おそらく、本心から栞を…それ以外の家族をも、巡はかけがえのない大切なものだと認識しているのだろう。

「── そうか」

 答える前に、僅かに間が開いた。ほんの些細なそれと、それが意味する事を、きっと巡は気付かなかっただろう。
 自分でも、何故その言葉に衝撃を受けたのかよくわからなかったのだから。

(…『大切』な、か)

 そんな存在など、自分にはいない。今までもいなかったし、欲しいとも思った事がない。

『可哀想な祥。…あなたは何も、わかっていないのね』

 そう言って、唯一の肉親であった姉が去っても、淋しさすら感じなかったというのに。たった一人この《天域》残されても、怒りだって感じなかった。
 父母の死の際にだって、自分は悲しみなどわからなかった。
 ── それが、『自分』だった。

「…栞嬢とは会った事も話した事もないからね。今の段階で『幸せにする』なんて、台詞は口が裂けても言えないよ」

 そう答えながら、祥はふと昨夜出会った少女の事を思い出す。
 巡を見た瞬間、鮮やかに甦ったその姿はやはり他人の空似とは思えない程、巡にそっくりだったように思う。
 …もし、あの少女が『栞』なのだとしたら。
 巡は有り得ない、とやけに強く否定したが可能性はない訳ではない。

(あの少女なら、違うかもしれない)

 見かけた時から、何故だか目が離せなかったのだ。
 危なっかしいと思ったのも確かだったけれど、よくわからないままに見ていて、よろけた時には思わず動いていた。
 あの時見上げた、あの真っ直ぐ視線の大きな目。巡によく似たあの目を持つ彼女なら── 今までとは違う何かを、感じる事が出来るだろうか。
 そんな事を考えて、祥は口元に微苦笑を浮かべる。巡が驚いたような顔で、怪訝そうに彼を見たが気にもならなかった。

(ばかばかしい。…今更、何が変わるというのか。今まで変わらなかったものが)

 自分は変わりたい、と思ったのだろうか。十九年、ただの一度もこの『自分』というものに不満など感じた事はないのに?
 …それでも、心の何処かが動き始める。何かが確かに変わろうとしていた。

「祥?」

 突然黙り込んでしまった祥に、巡が困ったような声をかけてくる。その顔を見た瞬間、ふと祥の心に悪戯心が芽生えた。
 ちょっと困らせてやりたいと思ったのだ。理由はわからない。気がつくと、祥は口走っていた。

「僕は別に、相手が巡だって構わないけどね」

 それは祥にとってはあくまでも冗談だった。
 特に深い考えのあった事ではなくて。その場で巡が笑い飛ばすか、怒るか、呆れるかそのいずれかで終わるはずだった。
 しかし。
 巡の顔色が祥の目の前でどんどん青ざめていったかと思うと── 予想外の反応に内心首を傾げた祥に、巡は震える声で尋ねたのだった。

「── 何時、気付いたんだ?」

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