神の

結 〜幸せになる権利〜

「…はああああ〜〜〜〜……」

 実に聞く者をも辛気臭い気分になるような深刻なため息をつき、巡は窓の外を何を見る訳でもなく眺めている。
 外は真の闇。
 《地域》の夜には月や星々がない。日が暮れると全てが闇に沈んでしまうのだ。
 遠く、城下町の方だけがうっすらと明るい。あと数刻もすれば新生月朔日── 新年だ。その祝いの準備でも行われているのだろう。
 《天域》のように大々的な祭りなどは行われないが、数十年前まで深刻な状況下に置かれ、祝い事の全てが禁じられた時代があった為か、民の多くは些細な祝い事でも出来るだけ盛大に行う風潮があるのだった。
 しかし…例年ならそんなお祝いムードに浸る巡も、今は暗く辛気臭い空気が漂うばかり。
 逃げるように(とは同行した蘭珠の談である)《天域》から戻ってというもの、ずっとこの調子だ。

(…自ら墓穴を掘ったばかりか、自ら填まって上から土を盛るよーな事をしてしまった……)

 その時の事を思い出して、巡は再び地の底に沈むようなため息をついた。
 今更時は戻せない。零した水は元には戻らないのだ。だがしかし── 自分のした事を思い返すだけで、巡は落ち込む。
 恐らく他の人間にとっては、自分のやった失敗は単なる笑い話で済ませられる程度の事に違いなかった。転換体質は別に悪い事でもなんでもない。
 ただ、巡にとってはそれが劣等感以外の何物でもないだけで──。
 そんな物思いに耽る巡の背後から、場違いなくらいに明るい声がかけられたのはその時だった。

「やあねー、何をそんなにくっらーいため息ついているのよ?」
「俺の勝手だろ、放っておいてく……!?」

 はたと我に返って振り返る。
 がばっと擬音のつきそうな勢いで見れば、そこには同じ顔を持つ人物がにっこりと笑って立っていた。

「し。しっ、栞!?」
「はあい、巡。た・だ・い・ま♪」

 裏返った声で確認を取れば、相手は笑顔のまま片手を振りつつ応えてくれる。
 その態度といい、口調といい、まさにそれは巡の双子の姉── 先日失踪してくれた栞、その人だった。

「何で…家出したのに…一体何がどうなって???」

 完璧に混乱状態に陥った巡を面白そうに眺めて、栞は飄々と口を開く。

「失礼ね、久々に会ったお姉様に向かって。五日、だっけ? 五日ぶりに顔を合わせたのに、幽霊にでも会ったようなその態度は何よ」
「だって、でも……」

 目を白黒させながら、まじまじと顔を見る。正しく栞だ。それを確信して、ようやく巡の心は落ち着きを取り戻す。
 どうやら本当に『家出』から戻って来たらしい。
 もうひょっとしたら二度と会えないかもしれない、などと密かに思っていただけに、事態を飲み込んだ途端、無性に腹が立ってきた。

「栞〜〜〜っ!? 何で家出なんかしたんだよっ!! そのせいで俺はなあ…っ」
「あら、置き手紙読まなかったの?」
「読んだけどっ、でもなあっ!!」

 なおも噛み付く巡をどうどう、と制して、栞は困惑したように眉根を寄せた。

「確かに家出して下条家には迷惑をかけたとは思うんだけど、何で巡がそんなに怒るのよ」

 言われて巡は我に返った。確かに今のは多分に八つ当たりが入っていた。
 栞が失踪した事で巡は確かに《天域》に行く羽目になってしまったが、墓穴を掘ったのは明らかに自分の過失なのだ。
 栞に当たるのは筋違いに違いなかった。

「…ごめん。でもさ、何だって戻ってきたんだ? 一体何の為に家出したのかわからないだろ」
「そうね」

 釈然としない思いをぶつけると、栞はあっさりとそれを認めた。そしてまた笑う。

「でも、戻る必要があったの。…最初は本当に帰るつもりはこれっぽっちもなかったのよ。それが一番正しいんだって、思い込んでいたから」
「…栞?」
「でもね、巡」

 今まで見せた事のない顔で、栞は言う。

「家出しても、根本的な問題は何一つ変わらないのよ。私はただ、逃げただけ。嫌な事を、『嫌だ』というその理由だけで避けて通ろうとする、小利口な子供のやり方をしていたに過ぎなかったの」

 その表情は何だかとても大人びて見えて、巡は愕然とする。突然、栞が遠くに行ってしまったように思えた。
 そして── 何だか眩しく感じた。

「私はね、もっと大人にならなくちゃならないの。…何処ででも、胸を張って生きられるようにね」
「栞……」

 栞は微笑む。その微笑は、何故だか祥の笑顔を連想させた。あの、優しく穏やかだけども何処か遠い、あの笑顔を。
 だが── それは次の瞬間には、それはあっさりと崩れ去る。

「── な〜んてねっ。というのは建前で、本当はあんまり寒くって耐え切れなかったのよねー。ほら、私ってばお姫様な訳だし?」

 などと言って、けらけら笑うのは普段の栞だ。それにほっとしつつ、心の何処かでそれが嘘である事を巡は確信していた。
 伊達に生まれる前からの付き合いではないのだ。

(…栞は、変わった)

 一体五日間も何処で何をしていたのかは知らないが、そこで彼女を変える決定的な何かがあった事は確かだった。少し淋しくて、心がちくりと痛んだ。

「…それより、何処に今まで行ってたんだよ? 父さんと母さんにはもう会ったのか? 牙珠にも謝ったんだろうな」

 心の痛みを振り切るように矢継ぎ早に問うと、対する栞はまだよ、と答える。

「牙珠には謝ったけど──」
「おいおい……」

 今回一番迷惑を被ったのは、客観的に考えれば彼等の両親に違いなかった。それを後回しにして自分の所に顔を出すとは、と少々呆れる。
 そんな巡を覗き込むようにして、栞は言う。

「最初にね、巡に会いたかったの」
「へ?」
「…今はまだわかんなくてもいいから聞いて。私達には幸せになる権利があるの。家の事とか関係なく。私も── そして巡もよ」

 それだけ言うと、栞は謎めいた微笑を浮かべてくるりと背を向けて歩き出す。

「じゃ、ちょっと怒られてくるわね〜」

 そんな軽口を叩いて、巡に口を開く暇を与えずに去ってしまう。後には更なる困惑に陥った巡が一人で取り残された。

(── 何だったんだ、今のは)

 あまりにも、栞の言葉は抽象的というか、掴み所のないものだったように思う。

(幸せになる権利? ── そんなの、あるに決まってるじゃないか)

 おそらく、自分達以外の全ての人間にそれはあるはずだった。なのに何故、栞はわざわざそんな事を言ったのだろう?
 訳がわからなかった。考えてもわかるはずもなく、巡は肩を竦めてまた窓の外を見やる。
 闇を眺めて、ふと思い出したのは祥の事だった。

『それが《柱》として生を受けた、僕の義務だからね』

 そう答えた時の、一瞬見せた冷め切った瞳を思い出す。
 あの時は怒りばかりが先に立って、その意味を深く考える事など出来なかったが、今なら冷静に考えられる。
 もしかしたら── 彼は今まで、《天域》の守護役であり、尾上家当主である事だけを支えに生きてきたのではないのだろうか、と。
 生きる事自体が『義務』でしかなく、そう思うからこそ結婚といった一生の事だって、義務という視点からでしか語れなかったのではないだろうか。
 もちろん、これが独り善がりの考えである可能性はかなり高かった。
 祥だって、今まで本当の意味で一人で生きてきた訳ではないはずだし、一人きりなら《天域》の復興など出来なかったはずだと思うから。
 けれど…その考えを捨て去る事は巡は何故だか出来なかった。
 もしそうなら、誰もその事を彼に教える事が出来なかったという事だし、そんな人生は何だかとても淋しいと思えた。

(…幸せになる権利があるのだとしたら、幸せに『する』権利もあるのかな……)

 ぼんやり考えて、すぐに冗談ではないと頭を振る。それではまるで、自分が祥を幸せにしたいと考えているようではないか。

(冗談じゃない…俺は一応男だぞ!? 何だって同じ男を幸せにしてやらなきゃならないんだ…!!)

 逆に言うと、巡は一応『女』でもある訳なのだが、だからと言ってそんな事を思う義理はないはずだった。
 彼等の間には『従兄弟』という関係こそあるが、この間までは他人も同様だったのだし、知り合った今でも祥という人間は巡にはよくわからない存在だ。
 義務と権利── 並び立つ二つは、表と裏だ。
 どちらが表でどちらが裏など決まってはいないけれど、どちらか一つだけで立つのは不自然だと思う。…それだけの事だ。
 なのに、心の隅でこんな風に考える自分がいるのもまた事実だった。

 ── もし、自分に幸せにする権利があって、そして祥が幸せになる権利に気付く事が出来るというなら、『義務』以外の何かに気付かせる事が出来るのなら、それを行使してもいい。

 あんな冷たい目は、もう見たくないと思った。
 …今後、また会う可能性なんておそらくないと思うけれど。


 あの祭りの最中、困っていた巡を親切にも助けてくれた彼に、嘘はなかったと思うから──。

+ + +

 我ながら混乱してきたと思い始めた頃、栞が消えた廊下の向こうから今度は蘭珠が姿を現した。その横に雨水の姿を見つけておや、と思う。
 蘭珠と雨水は実の親子なのだし、一緒にいたって何も不思議ではないのだが、問題は二人の表情だ。
 何か困惑を隠せない、すっきりしない顔だった。やがて蘭珠の方が巡に気付き、微かに微笑む。

「巡様」
「蘭珠、それに雨水。どうしたんだ? 何か…暗いけど」

 先程までの自分の事は棚に上げて尋ねると、二人は顔を見合わせ、やがて蘭珠の方が頷くと言い難そうに口を開いた。

「巡様、あの…下条様がお呼びです」
「父さんが? …何だろう」
「…私の口からは言えませんわ」

 やけに歯切れが悪い言葉だ。それに今更自分に父親が何の用だと言うのか。蘭珠が言えない、というのも気にかかる。
 怪訝に思っていると、次いで雨水も口を開く。

「行かれればわかる事かと思われます。ただ…今、下条様はかなり異常な混乱状態でいらっしゃいますので、心して行かれて下さい」
「はあ…一体何事なんだかわからないけど、ともかく行ってみるよ」

 異常な混乱状態と言われてもピンと来ない。
 先程向かった栞が、何かまたやらかしてくれたのだろうか? 蘭珠と雨水の何か含む所のあるような、言葉と視線も気になってしょうがない。
 居心地の悪さも手伝って、早速巡は二人と分かれて斎の私室へと向かう事にした。
 進めば進む程、何だか嫌な予感が高まってゆく。それは先日《天域》行きを告げられた時に感じたものによく似ていた── 悲しい事に。
 だが、巡はその事に気付かない振りをして先を進む。もはや、祥の前で墓穴を掘ってしまった以上に最悪な事態などないと思ったからだ。
 それが思い違いであった事を巡が思い知るのは、斎の私室に辿り着いてからの事だった──。

+ + +

 斎の私室の前は奇妙に静けさが漂っていた。
 もちろん、普段が賑やかだという意味ではなく、さながら通夜か何かのような陰気で湿っぽい雰囲気がそこはかとなく漂っているのだ。

(……)

 巡でなくとも、扉を開くのに躊躇を感じたに違いなかった。しかし、呼ばれている以上中に入らない訳には行かないだろう。
 雨水の話では、斎が今『異常な混乱状態』にあるという事だったが── 今にして思えば、『混乱』に異常も何もない気がするのだが── この今の状態がそれだと言うのだろうか。
 あの滅多な事では動じなさそうな雨水がそこまで言った位だ、てっきり興奮して手のつけられない状態なのではと思っていたのだが……。

「…ま、ともかく行くしかないよな」

 自分に言い聞かせ、意を決して扉を叩く。

「父さん、何の御用でしょうか……」

 雰囲気に圧されて、何となく言葉が丁寧になってしまう巡だった。だが、室内から答える声はない。

(あれ…いないのか?)

 呼んだ以上、何処かへ行ってしまうという事はないはずだ。
 巡は首を傾げ、もう一度、今度は先程よりも大きな声で呼びかけてみた。

「父さん? いないんですか?」
「── 巡、か?」

 ようやく中から返って来たのは、地の底から響いてくるような暗くて低い、さながら呻き声のような言葉だった。思わず巡は言葉を失い、その場に佇んでしまう。
 今までいろんな場面で様々な父親の姿を見てきたが、これほど打ちひしがれた様子の声は始めて聞いた気がする。
 それだけにきゅっと心が引き締まる思いで、巡は静かに扉を開いた。
 部屋の中は燭台からの薄明かりのみで暗く、窓辺に立つ斎の姿がかろうじてわかる程度だった。
 窓の方を向いている為、その表情はよくわからない。

「父さん……?」
「栞が、帰って来た」

 巡の言葉を遮るように、斎は普段とは打って変わった重い口調で口を開いた。

「は、はあ……」
「だが、そんな事はどうでもいい事態になった。…巡」

 振り向いたその顔は、妙に疲労した表情を称えている。ただ事ではないその様子に、巡は思わず身構え、ごくりと喉を鳴らした。

「な、何でしょう」

 明らかに緊張した巡を見て、斎はふっと疲れた笑みを浮かべると、やがてゆっくりと告げた。

「巡…お前に、縁談だ」

 その、瞬間。
 頭の中が真っ白になると同時に、巡の顔からさあっと勢いよく血の気が失せた。

(ま── まさかまさかまさかっ!?)

 一気に押し寄せてきた悪い予感に、巡は為す術もなくただ口をぱくぱくと動かすばかりだ。
 完璧に思考の凍りついた巡を同情するような目で見つめて、斎はさらに言葉を重ねる。

「その相手だが──……」
「── い、いいっ! 言わなくて、いいっ!!」

 聞けばきっと、再起不能になる。
 そんな予感をびしばしと感じて、巡は必死に言い募る。だが、斎は巡を哀れむように微笑むと、とどめの一言を言い放ったのだった。

「相手は、《天域》守護役…尾上祥殿だ」

 ── その言葉を耳にした途端、まさに嫌な予感が的中した為か、巡の目の前は真っ白になる。そして何もわからなくなった……。

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