Bless You All The Time

邂逅 〜水の呼び声(2)〜

(ばかな……)
 目を疑う。凍てついた泉ならばともかく、今はまだそんな季節ではない。
 その人物はこちらに背を向けている為、顔はわからなかったが、背格好で若い女のようだ。
 青みを帯びた白銀の髪は腰の辺りまであり、頭上から降り注ぐ木漏れ日が、くせ一つないそれを輝かせ、さながら滝のようだった。
 服装は動きやすさを重視した飾り気のないもの。武器らしきものは見当たらないが、靴や肩を覆う外套には使い込んだ感すらある。
 そういう意味ではそこだけ妙に現実感があったものの、あまりにも非現実は状況はそんな些細な事柄を霞ませていた。
 気圧されたように、何者だと問いかける事も出来ず、サフルはただその異常な光景に、目を奪われるままだ。
 だが、それは確かに美しい絵画のような光景ではあったものの、彼が見ていたのはそんな理由からではなかった。
 何故なら──。
(…コイツだ)
 閃くように悟る。
 ここ二日、彼を苛立たせてきた捉えどころのない感覚の持ち主が、目の前の女である事に。
 その事を理解し、さらにサフルは驚きを覚える。
 離れていた時ならともかく、こんなに近くにいながら、あんなに微弱な思念しか持たないなど、通常なら考えられない事だった。
 ── これではまるで、死にかけている人間のものと変わらない。
 と、その時、女が突然こちらを振り返った。
「…!」
 氷色の瞳が、サフルを真っ直ぐに射る。
 感情一つない無機質のそれに、ぞくりと悪寒に似た何かが身体を駆け抜けた。
 それが畏怖であった事に気付いたのはかなり後の事で、その時はただ信じがたい思いで女を見つめ返す事しか出来なかった。
(何だ、こいつは…!?)
 伝わってくる思念は、とても生きた人間が持つようなものではない。
 けれど見る限り── そして感知する限りは、女は人間以外の何者でもない。魔族でもなければ、自分と『同類』でもない。
(人、だよな…?)
 自問するが、答えが出るはずもなく。
 沈黙したまま見つめ合う。目を反らせば何かが崩れてしまいそうで、身動き出来なかった。
「…ようやく、来てくれた」
 やがてぽつりと、女の口から言葉が零れる。
「…?」
 気がつくと女は完全に身体をこちらに向けていた。その端正な顔に、不思議な微笑が浮かぶのを、サフルはただ奇妙な思いで見守った。
「少々、待ちくたびれました」
 そう言いつつ、女は水面をまるで地面の上のように歩き、サフルの方へと歩み寄って来る。
「けれど…やって来てくれたのだから、良しとしましょう」
「…お前、何だ…?」
 どこか倣岸さすら感じさせる物言いに、サフルがようやく誰何する。
 名ではなく、本質を問いかける問いに対し、女は目を細めて笑った。どきりとする程美しく── けれど何処までも人間味を感じさせない笑み。
「『何』、ときましたか。流石は私の声を受け止めた人……」
 女の歩みはサフルの前で止まった。腕を伸ばせば届きそうな、距離。
「けれど、私に己を語る事は出来ません。私が『私』であるのは…今のこの時だけなのだから」
「この時…?」
 怪訝さを隠さないサフルに笑いかけ、女は頷いた。
「我が愛し児を守る為だけに、今ここに在る──」
「!?」
 まるで糸が断ち切られたかのように、不意にぐらりと女の身体が崩れ落ちる。反射的にそれを支え、サフルは周囲に目を走らせた。
 消え失せそうな思念が、確かにその瞬間、女の身体から拡散したのを感知したからだ。
(…どうか、頼みます……)
 消えうせる間際に聞こえたそんな言葉に、サフルは慌てふためいた。
「ちょ、ちょっと待て!?」
 腕の中には意識を失った女がぐったりと身体を預けている。そこにあるのは、確かな生きている熱と深い眠りにある『思念』。
 まるで、先程対峙した希薄な思念が乗り移っていたとしか思えない状況に、呆然と立ち尽くす。
 はっきり言って、事態は彼の許容範囲を超えている。
「頼むって言われても…。── コレをどうしろと?」
 問いかけても、もはや答える声はなく。
 とんでもない置き土産を抱え、サフルは途方に暮れた。

+ + +

 視界に『敵』の姿を発見した瞬間、理性の糸が音を立てて切れるのを感じた。
 一瞬、感情のままに動いては駄目だ、と自分の内で止める声がしたものの、一気に高まった感情を止める事は出来なくて。
「…我は命ず、大地の腕にて眠る熱き血潮よ」
 無意識に口から紡がれた詠唱を耳にした副官── クルムが、ぎょっとしたようにこちらを見た。
 属性こそ違うものの、今までの付き合いで自分が何をしようとしているのか── 何を行使しようとしているのか気付いたのだろう。
「だ、駄目です、ルイ殿っ!! それだけはっ!!」
 悲鳴じみた声で慌てて止めようとする。
 それもそうだ。『これ』を使えば、まとめて相手を倒す事が可能だが── その分、後処理も大変なのだから。
 いつもならそこで一瞬思いとどまるものの、今日は歯止めにすらならなかった。
 その左右異なる色の瞳に怒りだけを宿し、瞬時に術式を組み立てる。
「しばし目覚め、我の声に応えよ…全てを燃やし、焼き尽くせ!!」
「いけません!! 今はベルゼーラ殿もいないでしょう…っ」
 切り札とばかりに出された名前に、ようやく状況を思い出したものの、すでに術は完成していた。
 前方にいる敵を睨みつけ、ルイトルードは最後の言葉を紡ぐ。
「『灰燼焦土』!!」
 刹那の静寂の後、広範囲に渡って大地が裂け、そこから恐ろしい量の炎が噴出す!
 焼けた大気は熱風となり、行き場を求めて荒れ狂い、噴出した炎を周囲に撒き散らしてゆく。
「ああ゛── っ!!!」
 反射的に防御魔法を展開しつつ、クルムが少々壊れた絶望の叫びを上げた。
「…あああ……やってしまった……」
 そのままがくりと肩を落として頭を抱えてしまう。
 そんな様子を横目で見ながら、乱れた精神状態のまま大きな術を行使した反動により肩で息をつきつつ、ルイトルードはぎゅっと手を握り締める。

『ねえ、ルイ。君はどうして闘うの?』

 …本当はわかっている。こんな事をしたって、失ったものが戻ってくる訳ではない事くらい。
 耳に残る声の主が、帰ってくる訳ではない事くらい……。


 ── その日、南方にて王宮三つ分の大地が一瞬にして焦土と化した。

+ + +

「…ルイ。気持ちはわかるんだけど…── この後、どうするつもり?」
「……」
 その日の戦いは、結局ルイトルードによる大技により終局を迎えた形になったものの、本営に戻った彼女を待っていたものは、渋い表情をした新たな同僚だった。
「味方が展開地点にいなかったのは不幸中の幸いだけど…今はまだ、術士もこの間の戦いで半分近くが本来の力を取り戻していないんでしょう」
 その言葉は正論で、まったくもって反論する余地はなかった。
 あの瞬間、あの場にこちらの兵がいる可能性すら忘れていた。
 前回の『虚無』の一件で、ルイトルードを含め、術士の過半数が倒れた。今もまだ、その時の後遺症を引きずっている者もいる。
 その現実を忘れたのは、明らかに指揮官として許されない事だ。
「── どうしても、許せなかったの」
 言い訳じみている事は承知でぽつりと呟くと、同僚── 昨日付けで南方指揮官となったシェイがおや、と軽く目を見開いた。
 今まで王宮でルイトルードの所業(破壊神っぷり)を聞いていただけに、ここまで素直に非を認めるとは思っていなかったのだ。
 来て早々これかと思ったが、指揮官としての自覚がない訳ではないらしいと認識を改める。
 そして今の一言で、ルイトルードが何故暴走したのかを察し、シェイは軽くため息をついた。
「…ナルは生きているわ」
「でも…っ!!」
 何の根拠もないシェイの言葉に、弾かれたように俯(うつむ)いていた顔を上げる。
「あいつらのせいなんだよ!? ナルが…いなくなったのは!! あんな卑怯な手を使って…っ!!」
「卑怯?」
 シェイの顔から表情が消える。何処か冷ややかな言葉に、ルイトルードはびくりと身を竦めた── 無意識の内に。
「そうね。彼等が使った手は、確かに卑怯と呼べるかもしれない。でも── これは、戦いよ。『試合』じゃない。禁じ手なんて存在しないわ。…最も弱い部分を突く、これは戦略として当たり前の事でしょう」
 淡々と語られる言葉は正論で── 同時にルイトルードにもわかってしまう。
 自分がそうであるように、そうとでも思わなければシェイも受け入れられないのだと。
「…わかってるよ。あの時、一番『術』に抵抗力がないのは、ナルの所だった。でも…」
 あの『虚無』は何処に向けられても、大いなる脅威となり得た。
 しかも── 後に話を聞く限りでは、味方諸共に巻き込もうとしていたという。
 味方を捨て駒にして、壊滅を狙う── それをよりによって、ナルが指揮する場所にぶつけた事が許せなかった。
 『家族』を何より大事にしていたナルには、到底許せる事ではなかったはずだ。
「…でも、そうとでも思わなければ、やってられないよ」
 その言葉に、シェイは表情を取り戻す。
 似たような言葉を、ナルも言っていた── いつだったか、二人で話した時に。
 まだ、死んだとは決まっていない。
 絶望的だと言われても、死体も見つかっていないし、何より信じたい。きっと、何処かで生きていてくれているのだと。
 シェイは苦笑し、頭を切り替える。
 失った痛みは確かにそこにあるけれど、その痛みを感じているのは自分だけではない。
 今は南の地を離れたベルゼーラも、目の前にいるルイトルードも、そしてナルが命をかけて守った『家族』も、皆同じ痛みを感じている。
 ── 自分だけが苦しい訳ではない。
「…ともかく、済んでしまった事をとやかく言っていても仕方ないわ。問題はこれからどうするか、よ」
 シェイが気持ちを切り替えた事を察し、少しほっとしたような顔になったルイトルードだったが、その言葉に再び沈黙した。
「ルイ、『大地再生』は出来るの?」
「…── あまり、得意じゃない」
 ぎこちない口調での婉曲な表現に、シェイは思わず苦笑した。
 この件に関しては本当に反省しているようだが、はっきり『出来ない』と言わない辺りがルイトルードらしい。
「今までも同じような術を使っていたんでしょう? その時はどうしてたの」
「今までは…ベルゼがいたから。南方は土の術士が少ないから、いつもやってもらってたの。あいつは属性なんて関係ないし。…終わった後、ちょっと倒れてたみたいだけど」
「…そう」
 最後にぼそりと付け加えられた言葉に不吉さを感じつつ、シェイは考え込んだ。
 だとすると少々厄介だ。今、ベルゼーラは諸事情でここにはいない。
「── 援軍を頼むしかないかしら」
 やがてため息と共に出た結論に、ルイトルードも頷く。
「それが一番早いと思う。火の要素の除去と休眠だけならあたしに出来るけれど、灰になった土を再生させるのは無理だし。今いる土の術士だけじゃ、何日かかるかわからないよ」
「……」
 そういう大変な事を、感情一つでやれてしまうのはやはり才能なのだろう。
「仕方ないわね。すぐにクナル様に要請を出しましょう。…西方に行ったベルゼーラ殿を呼び戻す訳には行かないのだしね」
 長いこと不在だった《火の支配者》の座がようやく埋まったのは、二年ほど前の事だ。
 長くても二、三十年で代替わりをする術士の中で、《火》に関しては特異的なほどにその属性の祝福を受ける者は少ない。
 しかも、『女』である事は非常に稀だ。
 そうした点を含めても、性格的にまだ未熟な部分も多々あるが、ルイトルードが最高位の術士の一人である事は名実ともに確かな事だとシェイは思う。
 そして── その破壊っぷりにより政務官泣かせとして伝説を残す、前《火の支配者》のようにならない事を、心の内でひっそりと祈った。

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