漠に降る雪

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 昔── 天女に会った。

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(…おかあ、さん……)
 広い部屋の隅で、幼い子供が泣いていた。まだ、三、四歳といった所か。
 着ている服はそれなりに上質なものだったが、その子供には大き過ぎて子供をさらに弱々しく、頼りないものに見せていた。
(おかあさん…どうしたの?)
 ぽろぽろと頬を零れ落ちてゆく涙。それを受ける袖はすでに少し湿っている。
「どこに、いちゃったの……?」
 震えるその声に答える声はない。子供は膝を抱え、ぶかぶかの袖で顔を覆った。涙は止まる気配もない。
 そんな時だった。
 部屋の中で異変が生じた。そのほぼ中央の空間がぐにゃりと歪み、そこに小さな光球が生まれたのだ。
 それは時を置かず、すぐにぐんっと膨れ上がり、やがて一つの形を成しその光を消した。
 そこに現れたのは、一人の女。床に届かんばかりの白銀の輝きを有する髪が、さらりと涼やかな音をたてて揺れる。
 子供はその異変の間も、ただ蹲(うずくま)ったままだった。当然、異変にも気付いていない。
 その密やかな泣き声に、女の方が子供の存在に気付いた。その目が驚いたように見開かれ、次いで優しいものがそこに満ちる。
「…坊や。どうしたの? 何故こんな所で泣いているの……?」
 鈴を振るような声音がその口から紡ぎ出され、子供の耳朶(じだ)を打つ。
 よもや自分以外の人間がそこで現れるなど予想もしていなかった子供は、驚いて顔を上げ── その涙に濡れた目を大きく見開いた。
 女は子供が今までに出会ったどんな人間よりも美しかった。子供は反射的に自分の養い親達の顔を思い浮かべたが、それとは質が異なる美しさだった。
 それほどに、目前の女の美しさには圧倒的なものがあり、比べるべくもない程だったのだ。
 養い親達もそれぞれ、子供の目で見ても常人離れした美貌の持ち主達であったが、それはあくまでも『人』の領域に留まるもの。
 目前の女のように、言葉で表現出来ないようなそれではない。
(きれいな、おんなのひと)
 もし、子供があと数年でも齢(よわい)を重ねていたら、きっとその美しさが人外ののであるが故なのだと気付いただろう。
 しかし、まだ幼く物心ついて間もない子供は、ただその姿に見惚れるだけだった。
 女は、そんな子供にゆっくりとした足取りで近付くと、その目線に合わせるかのように少し屈んだ。
 その顔にあるのは、深い慈愛に溢れた微笑み。
「…どうしたの?」
 女が重ねて尋ねる。それが切っ掛けとなって、子供は我に返った。
 何時の間にかその涙は止まっていたものの、その事には気付かない。ただ、自分の発見した事に素直に驚く。
「どうして一人で泣いていたの?」
 その時には、子供は女の特異な容貌から彼女が何者であるか、その答えを導き出していた。
 白い肌、白銀の髪── そして極めつけに、くるくると色彩を変える虹色の瞳……!
 それはまさしく、何時の日にか耳にした御伽話そのままの。

(──《天精》!?)

+ + +

(…あれ?)
 目覚めた瞬間、彼は混乱に襲われた。
(…夢?)
 それにしては随分と鮮明だった。あの、不思議な磁力を秘めた虹の輝きが脳裏に刻み込まれたように残っている。
 …いや、その表現は正しくない。まるで、夢物語のような内容だが、あの女(今にして思えば、そう表わすにはその容貌はまるで少女のようなものだったが)との邂逅は、細部はさておき紛れもない過去の事実なのだ。
 もう、かれこれ十年以上昔の事。
 だから── 正しく表わすならば、それ程昔の事をそんなに鮮明に思い出せた事に驚いたと言うべきなのだろう。
(…久しく見てなかったのに)
 当時の事はほとんど覚えていない。
 幼かったのだから当然と言えば当然の事なのだが、しかし、この不思議な体験だけは時を経た今でも、夢という形で鮮やかに再現される。
 彼はぼんやりとその余韻に浸り── やがて、視界に入った天井が全く見覚えのないものである事にようやく気付いた。
「!?」
 同時に様々な事が脳裏を駆け抜け、そして消える。
(…ここは、何処なんだ?)
 曖昧になった記憶は、これぞという答えを導いてはくれない。
(何が、どうなったんだ? …取り敢えず、五体満足みたいだけど……)
 困惑しながらも、ベッドの中で身動きして異常がないか確かめる。ほんの少しだけ左腕が痛んだが、その他は全く無事のようだった。
「…気がついたみたいね」
 思いがけないその声に彼は驚き、慌てて声が飛んできたであろう方向に目を向けた。
(……?)
 果たしてそこにいたのは、全く面識のない、見た所二十歳前後の背の高い女だった。
 日に焼けた肌。僅かにくすんだ赤毛を短く切り、男物の服を無造作に身に着けているが、それが嫌みなくしっくり似合っている。じっと、何か言いたげに彼を見下ろす瞳は、鮮やかな赤紫だ。
 気のせいだろうか── 何だか、怒っているような気がするのは。
「あ、の……?」
 一体誰だろうと思い、口を開いたその、矢先。
 女は小さくため息をついたかと思うと、徐(おもむろ)に怒鳴った。
「こっの、命知らずっ!!」
「へっ!?」
 余りの事に目を白黒させる彼に構わず、女はさらに怒鳴りつける。
「一体何を考えてるんだ!! 今時、何の装備も無しに砂漠を渡ろうなんて愚の骨頂、ばかもいいとこだよっ!?」
 …気のせいだと思いたかったが、明らかに『ばか』の所を強調した言葉であった。
 が、そんな事よりも、彼は女の声量に度肝を抜かれて絶句してしまう。
 放心状態の彼を、怒りに満ちた瞳でぎんっと睨み付けて、女は止めとばかりに吼えた。
「もう二度とこんな事するんじゃないっ!!」
 それだけ言ってしまうと、女はふいっと顔を背け、今度は黙り込んでしまう。
 気まずい沈黙が訪れる。それを救ってくれたのは彼等の死角から投げ込まれた一言だった。
「…何を騒いでいるの?」
 それはその場にあった張りつめた雰囲気を台無しにする程に、おっとりと穏やかな声で、彼もそして女も毒気を抜かれたような表情になってしまう。
 その声の主は、そんな彼等の様子など知った事ではないかのように、のほほんと言葉を紡いだ。
「一体、どうしたって言うの? サアラ…あら」
 最後の『あら』だけが微妙に色が違っていた。
 彼は上手く言う事を聞かない体を叱咤し、声の主がいるであろう方向に首を巡らせる。
 だが、彼が完全にそちらに顔を向ける前に、その人の方から彼の方へと歩み寄ってきた。
 ほとんど覗き込まれるような形で、彼等は対面し、その人はにっこりと人懐っこい笑顔を見せた。
 それは妖しい程の美貌を持った女性だった。
 灰色の髪を左肩の辺りで緩く一つにまとめ、白い布で結わえている。背は高めではあったが、先刻の女よりは低い。
 その瞳は全てを見通すような琥珀色で、見方によっては冷たい印象を与える。けれども、彼女の持つ、独特の雰囲気がそれを上手く払拭していた。
 年齢は二十代後半といった所だが、その落ち着いた物腰の為にはっきりとは断言できない。
「お目覚めになったようですね、お客人。体の具合はいかが?」
 尋ねてくる声は柔らかなアルトだ。
 問われて、彼は自分が我知らず彼女に目を奪われていた事に気付き、かあっと赤面した。何か言わねばと思うのだが、全く思いつかない。
「わたしはキュラと言います。ここの主人です。それから…こちらがサアラ。あなたは?」
 彼の狼狽を気にした様子もなく、さらりと話を流してくる。おかげで彼は多少は落ち着きを取り戻す事が出来た。
「あ…、僕は、ファイザードと…いいます……」
 答えて、彼は顔を顰(しか)めた。上手く声が出せないのだ。
 紡ぎ出された声はひどく掠れていて、まるで自分のものではないようだった。
 キュラと名乗った女主人は、直ぐ様傍らにあった水差しから水を器に注ぎ、彼に差し出した。そして無理もないわ、と微笑む。
「あなたは丸三日は寝込んでいたんですもの」
 そんなに、と驚きつつ、一口水を口に含む。
 甘やかな味が広がって、彼──ファイザードは、自分の体がどんなにそれを欲していたのかに気付いた。そのまま残りを一気に飲み干してしまう。
 その様子をキュラは微笑ましげに目を細めて眺める。
「良かった。思ったよりも元気のようですね」
 そう言われて、ファイザードは再び赤面した。
 どうやら助けてもらったようなのに、礼すら言っていない事を思い出したのだ。
「あ、あのっ、助けて頂いたみたいで…ありがとうございました。済みません、もっと早く言うべきなのに……」
 跳ね起きるように身を起こして(実際それは重労働だったが、先程よりは体が言う事を聞いてくれた)、頭を下げた。
「気になさらないで」
 穏やかに言い、キュラはその背後に控えるサアラに視線を投げかける。サアラはその意味有りげな視線に、照れたような顔で俯いた。
 どうやら先程の遣り取りをほのめかしているらしい。ファイザードもそれを思い返して苦笑する。
「…それはさておき。ファイザード様はどうしてこのような所へ?」
 また絶妙な間合いでキュラが話題を転じた。
「見た所、巡礼者のようですけど……」
「何故、それを……」
 言った覚えがなかっただけに、純粋にファイザードは驚いた。と、そこにそれまで黙っていたサアラが呆れた口調で口を挟む。
「何でって…あんたのその坊主頭を見れば一目瞭然じゃないか」
 当然の事のように言われて、ファイザードはなるほど、と納得した。
 確かに巡礼者は、基本的にその証として剃髪する。その事を考え、彼はまたここが少なくともそうした知識が伝わる程度には田舎ではないのだ、と推測した。
 世界は広く、その大地は未だその全てを明らかにしていない。それ故に、各国、あるいは地方によってその知的レベルは異なるばかりか、同じ国内であっても、中央部とその辺境で天と地程の情報量の格差がある事も珍しくないのだ。
 そこまで考えて、彼はおや、と首を傾げた。
「…あの…、ここは一体、何処なんでしょう?」
 ごく自然に思った事を口にする。が、何故か二人とも虚を突かれたかのような顔になった。
(あ、あれ? …何か、変な事言ったのかな?)
 二人の反応に困惑しつつ、ファイザードは自分の中の記憶を振り返ってみた。
 やはりはっきりとしないが、これだけは言える。少なくとも、自分は周辺に村など一つもない、丘陵地帯にいたはずなのだ。
 ── 故に。
 こうして立派な寝台の上にいる方がおかしい、という結果になる。
「…あの、僕、何か変な事聞きましたか?」
 なおも無言の彼女達に不安になり、恐る恐る尋ねてみる。先に我に返ったのは、サアラの方だった。
「変な事って……。あんた、この先の《砂海》の真ん中で行き倒れていたんだろう? まさか、知らないであんな所に行った訳じゃないでしょうに」
「砂…海!?」
 余りに予想外の結果に、ファイザードはそれ以上の言葉を失った。
 よくよく思い返してみれば、目覚めた時に命知らずとかいう言葉と一緒にそういう言葉も聞いた気がする。
 しかし、ファイザードにしてみれば、砂漠は砂漠でももっと規模の小さいものだと思っていたのだ。
 何しろ、彼が旅をしていた丘陵地帯の北の外れには、名ばかりとはいえ、確かに砂漠が存在していたのだし、それに何より──。
「やはり、何かあったのですね。おかしいとは思っていましたが……」
 動揺を消化しきれていない様子で、キュラが口を開く。
「砂海近辺を含めて、この辺りに《聖遺跡》など存在しませんもの」
 その言葉は正鵠を射ていた。
 一般に、巡礼者は世界に三カ所存在する《聖遺跡》と呼ばれる場所を巡り、救済を請うものとされている。
「…一体、何が……?」
 それはこっちが聞きたかった。
 《砂海》── それは世界でその名を知らない者の方が珍しい、この大陸最大の、その名の示すように海のように広大な砂漠だ。位置的には東の大国・ダイナスト南部に広がっている。
 さらに『東』と言えば、東西南北の四方位中、唯一聖遺跡を有しない場所でもある。
 そんな所に、巡礼者の彼が、それも砂漠のど真ん中で行き倒れるなど、冗談にしてもありえない事だ。
 第一。
 いささかあやふやになっている記憶だが、自分がここより『遥か西方』にいたという事は絶対の自信をもって言い切れる。
「ファイザード様? 何か、訳でもあるのでしたら…無理にお話し下さらなくても……」
 ファイザードの沈黙を誤解してか、キュラが気遣わしげな様子でそんな事を言い添える。
「あ、いえ…そうじゃなくて……」
 慌てて口を開いたその時。
 体の向きを変えた弾みで、手が枕元にあった何かに触れた。
「…あっ!!」
 それ── 片手で持てる程の布袋は、彼等の前で床に落下する。
 カツン、と硬質の音をたてて、袋から転がり出たのは。
「…これは?」
 不思議そうにキュラが手を伸ばす。ファイザードはその目を大きく見開いた。
(ク、ル)
 それが閃いたのは一瞬の事。ほとんど反射的にファイザードは叫んでいた。
「…っ、キュラさん、それから離れてっ!!」
「えっ……?」
 ファイザードの鋭い叫びでキュラがその手を止めた、その刹那。
 床に転がったそれ── 乳白色の珠は唐突に目映い光を発した。

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