漠に降る雪

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 オマエガ・イナケレバ・ヨカッタンダ。
 オマエガ・シヌベキ・ダッタノダ。

 底知れぬ憎悪と狂気を宿す瞳が、そう告げた。

+ + +

 光が溢れ、周囲は一瞬にして白く染め上がった。
 その最中、ファイザードは自分の身に何が起こったのかを思い出していた。
 どうして、自分が全く正反対の場所へ移動してしまったのか。その理由も。
 けれど、それは次の瞬間には再び打ち砕かれてしまう。

『みぃずぅぅぅ〜〜〜っ!!!』

 これこそ、魂の叫びだというような声(先程のサアラの怒鳴り声の比ではない)がしたかと思うと、珠から『何か』がものすごい勢いで飛び出してきたのだ。
 それこそ、ポンッという擬音付きで現れたのは、人の形をした『何か』だ。しかし、それはほんの一瞬の事で、次の瞬間には光諸共、幻のように消え失せていた。

「何、だ…今のは……?」
 呆然とサアラが呟く。ファイザードもまた言葉を失っていた。だが、サアラのそれとは理由が多少異なる。
 『何か』の正体をファイザードはよくわかっていた。それこそ、その名前ばかりか、それが『人』でない事まで。
(…何処に消えたんだ? あいつ……)
 『外』に出てきたのは確かだ。なのに、姿を消してしまった── それがそう出来た事の理由がわからない。内心、首を捻っていると。
「まああ! 珍しい!!」
 と、キュラが感嘆の声をあげた。すわ何事か、とファイザードはその視線を辿り──。
「…げっ!!」
 文字通り凍りついた。
 彼等の視線の先、先刻ファイザードの喉を潤した水差しの中を、先程までは確かに存在していなかったものが、優雅に泳いでいたのだ。
 それは一匹の魚であった。
 その全体の色彩は淡い青。背びれや尾びれは半透明で、まるでドレスのようなひらひらと揺らいでいた。
 大きさに見合った細かな鱗は、光を受けて硬質な輝きを放つ。それはまさしく── 《生きた宝石》。
「水晶魚(クリスタルフィッシュ)…こんな所で見られるなんて」
 生きた宝石って本当ねえ。そう言ってキュラは嬉しそうに微笑む。
 しかし、ファイザードはそれどころではなかった。キュラの言葉など耳を素通りして、ひたすらその《生きた宝石》を凝視する。
 やがて、その肩がふるふると震えたかと思うと、彼はその場の状況など忘れて叫んでいた。
「〜〜〜っ、アラパスっ!! 何をやってるんだ、お前はあっ!? 出て来いっ、失礼だろうっ!!」
 しかし、対する魚は彼の言葉に反応は見せたものの、一瞬その動きを止めただけで、すぐにそ知らぬ様子で気持ち良さ気に泳ぎを再開する。
「アラパスっ!!」
 ブチ切れかけたファイザードの怒鳴り声に反応したかのように、床に転がったままだった珠が再び光を放った。
「…しょーがないんじゃないのか、イザ。そいつ、三日も我慢して耐えていたんだし」
 妙にのんびりした声が唐突に投げ込まれる。声の方に目を向け、ファイザードは怒りを隠せないまま声の主を呼んだ。
「フェラック……」
 そこに立っていたのは、一人の青年だった。
 目を射る炎のような朱金の髪。褐色の肌にそれはよく映えていた。切れ長の目は涼やかに、口元には人を食ったような笑み。
 忽然と現れたその人物は、一見した所は所謂『美形』という表現で片付けられるものだったが、よく見ればそれが異形の持つ美である事がわかる。
 フェラック、と呼ばれた青年は、その瞳孔のない、髪と同じ朱金の瞳を細めて、おどけるように首を傾けた。
「イザ? これでもオレは、今まで必死にそいつを引き留めていたんだぜ? そんな責めるような目で見ないでくれよ」
 内容に反して、そこには自慢げな響きがある。それを感じ取り、当然ながらファイザードは呆れたように小さくため息をついた。
「…御苦労様」
「どういたしまして♪」
 答えて実に嬉しそうに笑う。── やはり、労いの言葉が欲しかったのだ。
(…まったく、こいつ等は……)
 もはや諦めの境地で、ファイザードは自分に同情した。他に誰もしてくれないからだ。
 そんな彼の内面など知った事ではないかのように(実際の所どうなのかわからないが)、フェラックは上機嫌に声をかけてくる。
「なあなあ、それよりイザ」
「…あ?」
「こちらさん、初対面だよな。何か、呆気に取られてるけど、放っておいていいの?」
 そう言われて、ようやくファイザードはこの部屋に自分以外の存在がいる事を思い出した。見ると、確かに二人は目を丸くして彼等を見ている。
「…あ、あの……」
 どうしたものかと思案に暮れつつ、ファイザードは取り敢えず口を開いた。だが、心配する事もなく、最初にキュラが我に返り、やはり例の笑顔で感心したように呟いた。
「今日は…本当に珍しい事ばかり続くわねえ」
 それを聞いたサアラが、がくりとその肩を落とす。
「…キュラ。そういう問題じゃないでしょう……?」
 ようやく紡がれたその声音には、疲労感が漂っていた。
「ね、ファイザードだっけ? あんた、『それ』は何なの?」
 『それ』と言ってサアラが指さしたのは、後から出てきた謎の青年・フェラックだった。
 その物言いに、当の本人(?)の目が面白そうに光る。サアラはその事に気付かずに、さらに疲れた声で言葉を重ねた。
「まさか、《魔族》じゃ……」
「それは違うわ、サアラ」
 サアラの言葉を遮るように、キュラがきっぱりと言い切る。そして同意を求めるようにファイザードに目を向けた。
「わたしもこの目で見たのは初めてだけど……。ファイザード様、あなたは…《妖精使い》(フェアリーマスター)なのですね?」

+ + +

「妖精…使い?」
 虚を突かれたように、サアラはその目を丸くする。
「何ですか、それは……。初めて聞きましたが、職業なんですか?」
「ええ。今では幻の職業とさえ言われているけれど……。つまり、」
 一度言葉を切って、その顔をフェラックに向ける。
「彼は人の形を取ってはいるけれど、人間じゃない。《妖精》なのよ」
「ピンポーン♪ 大正解」
 対するフェラックはにっと笑って肯定する。
「オレは鳥精── 鳥の妖精さ。こいつの、守護精だ」
 そうして何がそんなに楽しいのやら、ファイザードの頭を引き寄せると笑顔でぐりぐりと小突く。
 言葉の内容に反して、本当に守護精かと思える所業に、ファイザードは痛みも手伝ってその顔を顰めた。
「じゃあ…この、魚も?」
 疑わしげに水差しに目を向けたサアラに、フェラックは何の頓着もなしに頷く。
「そういう事。ま、そいつは放っておいていいさ。いても邪魔なだけだし。なあ、イザ?」
『なあんですってえっ!?』
 フェラックの言葉に、そんな怒りのこもった声が確かに聞こえた。
 その源を探す前に、彼等の目前の水差しの中から魚の姿が消え失せ、すぐに人の形をした異形の存在が姿を現わした。
「邪魔なのはそっちでしょおっ!! すーっぐ、イザの保護者ヅラしてっ!イザから離れなさいよっ、嫌がってるでしょ! わたしだってイザの守護精なんだからねっ!! イザの負担は断固として排除するわっ!!」
 立て板に水の勢いで怒鳴りながら仁王立ちしているのは、一見した所ファイザードより幼い少女の姿をしていた。
 淡い青の髪は緩やかに波打ち、透き通るような白い肌を縁取っている。フェラックとは対照的な容貌だったが、しかしその美は同質のものだった。
「負担……?」
 フェラックはふっ、と鼻先で笑った。
「どっちが。…済みませんねえ、こいつ、躾がなってないもので。あ、これは魚精…魚の妖精で、アラパス」
「わたしはあんたに躾て貰った覚えなんかないよっ!!」
「こっちこそ願い下げだ。…あれ? イザ、どうしたんだ。何で固まって…顔色も悪いぞ?」
 本心からなのか、幾分心配そうに覗き込んでくるフェラックを睨み付けて、ファイザードは唸るように言葉を漏らす。
「…いい加減にしろよ、お前達。ったく、何でそんなに仲が悪いんだよ。こんな所に『跳ばされた』のも、元はと言えば……っ!!」
 そこで、ファイザードははた、と我に返った。
「あっ……」

 まるで先程の再現のように── キュラとサアラは呆気に取られた顔で彼等を見ていた……。

+ + +

 コロシテヤル。
 ヤツザキニシテ・キリキザンデ。
 シンデシマエ・オマエナド……!!

+ + +

「つまり……? あなた方は、西の端からこんな東の端まで跳ばされた、と ……?」
「はあ…まあ、そういう事になると思います」
 神妙な顔で頷くと、キュラは考え込むように目を伏せた。そしてその状態のまま問いかけてくる。
「そんな事…可能なの?」
 ぽつり、とそれだけ言った後、慌てて言葉を付け加える。
「あなた方がどういう経緯でここに来てしまったのか…それはわかりました。でも、わたしの知識不足だとは思うけど…あなた方を襲ったという…獣精に、そんな事が出来るのかしら。伝え聞いた限りじゃ、妖精単体ではそれ程力を発揮出来ないそうだし……」
「そいつはごもっともな質問だな」
 会話に割り込むような形で、フェラックが嘴を挟む。
 横で何かを言いかけるファイザードを視線で制して、にこやかな笑顔で先を続けた。
「実際の所、オレ達妖精自体には大した力はないんだ。特に、自分の属性以外の作用なんて働かせたりは出来ない」
「属性……」
「そう。たとえば、このアラパスなんかは水の属性を持っているし、オレなんかの鳥精は風の属性を持っている。そして獣精は──」
「地の属性、ね」
「御名答。つまり、そんな奴に『跳ばす』力は実際の所、ある方がおかしい。でも、それが可能だったって事は、全く別の力が関与したって訳だな」
 そんな風に説明をしながら、フェラックは意味有り気にファイザードを見やる。
 それを沈黙で受けとめ、ファイザードは視線を反らした。その眼は何処か諦めたような翳りがある。フェラックは小さく肩を竦めて、言葉を重ねた。
「奴には本来持ち得ない力が付加されていた。本来なら対属性であるはずの《風》の力をな」
「風……」
「そう。しかも手の込んだ事に《邪風精》の力を、だ」
「邪風精?」
 口の中で繰り返して、キュラは顔を顰めた。
「穏やかじゃないわね。ずいぶんと悪質だわ」
 その言葉に頷いて、フェラックは話を続けた。
「まあ、ヤバい相手だってのは確かだよ。それにしたって、オレ達が早く気づいていればこういう事態は避けられていたとは思うんだけどな。あいにくと間が悪くて、気付くのが遅れちまったんだ」
 言外にしれっと自分の方が格上だと告げて、フェラックは片眉を持ち上げる。その後ろでアラパスが呆れ果てた顔をしていたが、先程とは異なり反論はなかった。
「本来なら持ち得ない…しかも対属性の力を付加するなんて……。そんな事出来るのかしら……」
 誰に問う訳でもなく、不思議そうにキュラがそんな言葉を呟く。
 その様子に何故かフェラックは意外そうな目を向け── しかし、すぐにその表情を例の人を食ったような笑みに改めた。
「不可能じゃないわ。…邪精ならね」
 キュラの疑問に答えたのは、それまで黙っていたアラパスだった。
 意味深な言葉を彼等の中に落とし、その後は再び黙り込んでしまう。不安げな目を向けた先には、ファイザードの硬い顔があった。
 その顔はまるで苦痛に耐えるようで、きつく唇を噛み締めている。
 キュラはそんな彼等から何かを汲み取ったのか、それ以上その事に関しては言及しなかった。
「事情はよくわかりました。もう休んで下さい。サアラ、行きましょう」
 背後に控えていたサアラにそんな声をかけて退出しようとする。
「え? あ、あの……!」
 予想外の出来事にファイザードは困惑した。
 キュラがそれ以上追求してこなかったのはありがたかったが、しかしその理由が思いつけずに思わずその背に声をかけてしまう。
 キュラはその声に立ち止まると、振り返って彼に噛んで含めるような口調でそっと諭した。
「ファイザード様。あなたは三日も意識不明でしたのよ? …身体はまだ本調子ではないはず。少なくとも今日一日は安静になさらなくては」
 それはまさに正論で、ファイザードは自分を恥じた。しかし、その一方で別の疑問が首を擡(もた)げる。
「あの…どうして僕の事を『様』付けするんですか? 呼び捨てで構いません。助けていただいたのに……」
 その言葉に彼の守護精も頷き、
「何ならイザって呼べばいい」
と、とても守護精らしくない一言を言い放つ。だが、守護精の片割れがすかさずその言葉に噛みついた。
「絶っっ対に駄目っ!! イザって呼んでいいのは、わたし達だけなんだからあっ!!」
「…二人とも、黙っててくれ……」
 ファイザードがぐったりと漏らすに至り、キュラはくすりと小さく笑いを漏らした。
 なるほど、何時もこんな感じなら獣精も襲いやすかっただろう…と思ったかは定かではないが。
「わたしがあなたを『様』付けするのは、それなりに理由あっての事ですわ」
 笑いを噛み殺して、キュラは言った。ファイザードは慌てて表情を改める。
「わたしがそう呼ぶのは……」
 そこで一旦言葉を切り、キュラはファイザードが思わず赤面するような鮮やかな笑みを浮かべた。ただ、琥珀の瞳だけが涼やかに光る。
 張りつめた緊張を破るように、キュラはゆっくりと根拠を告げた。
「ファイザード様。あなたが── 高い霊格を持つ、僧侶様だからです」
 ぎょっと目を剥いたのは、ファイザードだけではなかった。
 キュラの横にいたサアラも、ファイザードにまとわりついていたアラパスも、その目を丸くして言葉の主を凝視した。
 唯一、フェラックだけが平然とその様子を見守っている。
「…どうして」
 暫しの絶句の後、ファイザードは呆然と問うた。
「何故、そんな事……」
 一人の人間が複数の職業を兼ねている事は珍しくない。だが、それを教えられもせずに言い当てるなど、普通ではまず有り得ない。しかも霊格に至っては、『読む』事が出来るなど初耳だ。
「あら、間違っていましたか?」
 対するキュラは、そんな周囲の人々の様子など気にした様子もなく、平然と微笑む。
「わたしが思うに── ランクAレベルの《高位僧》(ハイプリースト)でしょう? …ああ、封呪をなさっているからランク自体は下がっているのかもしれませんが……」
 確信に満ちたその言葉に、誤りはなかった。
「キュラさん、あなたは一体 ?」
 驚きを隠せないファイザードの言葉に、キュラは至極当然のような顔で答えた。
「わたしは砂の街・マキュリアン唯一のギルド──魔術士ギルド《ホリッド》のしがない主催者(ギルドマスター)に過ぎませんわ」

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