漠に降る雪

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 風通しの良い小部屋だ。
 そこで二人の人物が向かい合い、今は互いに沈黙を守っていた。一人はキュラ、そしてもう一人はサアラである。
 趣味の良い調度品の並ぶその部屋は、キュラのわたし室だった。籐製の椅子に腰掛け、サアラは物言いたげに、目前でやはり腰掛けているキュラを見つめる。
「…何か言いたそうね」
 そっと目を細めて、キュラは穏やかに口を開いた。
 それを待っていたかのように、サアラは重い口を開く。
「…どうして、あんな事を?」
 何処となく、その言葉はぎこちなかった。それを受けて、しかしキュラは柔らかな口調のまま問い返す。
「何の事かしら?」
「…何故、わざわざあんな事を言ったんです? そんな必要などなかったでしょうに……」
 心なしか責めるような響きを宿したサアラの答えと視線に、キュラは困ったように肩を竦めた。
「わたしがギルド主催者だと言った事? …あれは別に他意があって言った事ではないわ」
「違います。それはどうでもいい。…問題は、問題なのは──」
「…彼の職業を言い当てた事、ね」
「はい」
 真摯な眼差しでサアラは頷く。
「キュラ。わたしはあなたを信頼しているし、あなたが余程でなければ無茶をしない事も知っています。でも」
「先刻のあれは、無茶だった、とそう言うのね?」
「…はい」
 神妙な口調で答えるサアラをじっと見つめて、キュラは不意にくすりと笑いを零した。
「キュラ……!?」
 あまりの反応に、かっと怒りで顔を朱に染めたサアラを、キュラは笑いを押し殺した目で押し止めた。そして、まるで噛んで含めるかのごとく説き伏せる。
「心配してくれてありがとう。ごめんなさい、笑ったりして。でもね、きっとそんな心配はいらないわ。多分、彼は何故、わたしが霊格を読めるのかなんてわからないでしょうから」
「しかし、だからこそ危険です!」
「そう、ね。こんな好奇心をくすぐるような事、危険この上ない事なのでしょうね。でも、彼は今それ所ではないわ。だから大丈夫」
「まさか── 彼を引き込む気ですか」
 挑むような眼を平然と受けとめ、キュラはまさか、とサアラの言葉を否定した。
「確かに…彼の能力には目を見張るものがあるわ。しかも妖精使いという希少価値もある。けれどね、サアラ。あなたの時にも言ったように。わたしは本人の意志を無視するつもりは全くないの。それに……」
 考え込むようにそこで言葉を切り、キュラはその目を窓の外に向ける。昔を回想しているかのような遠い眼に、自嘲的な色が浮かぶ。
「わたしは…初めから商売をする為にギルドを作った訳ではないのだもの」
 ぽつりと漏らされた言葉は、何処か淋しげなものを帯びていた。

+ + +

 次の日には、ファイザードの体調はほぼ元通りになった。
 軽い脱水症状程度で済んだのは、ひとえに彼の運が良かった為としか言いようがない。
「あと半日発見が遅かったら、きっと骨も見つからなかったよ」
 そんなぞっとするような事をさらりと言って、サアラはぎこちなく微笑む。
 どうやらファイザードの遭難が単なる事故の結果であると判明したおかげで、彼女の怒りは解けたらしい。
 その事に心底ほっとしながら、ファイザードはふと疑問に思った事を口にする。
「《砂海》って、そんなにすごい所なんですか?」
 そんな素朴な疑問に、サアラは初対面の時には想像もつかないような笑顔で気安く答えてくれる。
「《砂海》は普通の人間じゃ、まず越えられないよ。絶えず砂嵐が起こっているし、流砂もある。それに…魔族だっているから」
 最後の一言はついでに付け加えた割りには、何処か重いものが含まれていた。
 その事を敏感に感じ取り、ファイザードはさりげなく話題を変える。
「ここって、魔術士ギルドなんですよね」
「…そうだけど?」
 思いがけない事だったのか、サアラのそれ程大きくはない目が丸くなる。
「じゃあ、サアラさんも魔術師なんですか?」
 そう尋ねた途端、サアラはいきなり吹き出した。
「ぷっ…はははは!」
「え? え?」
 困惑するファイザードを無視して、サアラはひとしきり笑うと、やがて笑いを噛み殺した顔でファイザードを見た。
「…あの?」
「あんた、…いいね」
「へっ?」
「…あたし、そんな事言われたの初めてだよ。何か、あんたの…守護精だっけ? それがあんな風なのがわかったような気がする」
 それだけ言うと、またくくっと肩を揺らして笑い出す。
「…サアラさん……」
 流石に言葉に険が混じる。
 いくらなんでも笑い過ぎと言うものだ。せめてその理由くらい教えてくれてもいいだろうに。
 それを察したのか、サアラが口元に笑いを残しながら、ごめん、と謝った。そしてようやく彼の疑問に答えてくれる。
「あのね、あたしは魔術師じゃないよ」
「え? でも」
「あんた、一体どういう所で育ったのかわからないけど、ギルドの事全然知らないんだろう? 魔術士ギルドってね、魔術師が集まっているから魔術士ギルドって言うんじゃないんだよ。魔力── いや、魔法力と言うべきかな。それに関わる全ての職業が『魔術士』という言葉には含まれているんだよ」
「魔法力に関わる、全ての職業……」
 確かにそれは、ファイザードが初めて耳にする情報だった。
「そう。第一、《魔術師》は魔術士の中の職業の一つでしかないし、例えばあんたで言う《妖精使い》だってそうだろうし── 僧侶も含まれるんだよ」
 目から鱗が落ちるとはこの事だ。ファイザードは思わず瞬きを繰り返した。
「それで、結局サアラさんは何なんですか?」
「わたし? わたしは《魔法戦士》(マジックファイター)。ランクはBだよ。ちょっと実践不足でね」
 軽く肩を竦めて照れたように笑う。
 先程よりも打ち解けた笑顔だ。どうやらファイザードのぼけた(本人はそんなつもりはなかったのだが)質問のお陰らしい。
 その事に安堵しつつ、ファイザードはさらに問うた。
「他にはいるんですか?」
 まさか二人だけではあるまい、そう思っても質問だったのだが、それはまたしてもサアラの笑いのツボにはまったらしい。
 再び大爆笑した後、当たり前だろ、と目に涙を滲ませつつ答えた。
「いくら何でも、主催者と魔法戦士だけでギルドになる訳ないじゃないか。…まあ、実際少ないけどね。あと二人いるんだ。どっちも今仕事で出ていていないんだけど」
 それでも、ギルドにしては最少単位だろう。大きいものでは千人を越えるギルドも存在すると聞いているだけに、ファイザードには少し不思議に思えた。
 こんな辺境で少人数のギルドを開く事に、一体どんな意味があるのだろうと。
「…その残りの二人はどんな人なんですか?」
 疑問を感じながらも、ファイザードはあえてその事を突っ込まなかった。
 彼はあくまでも助けてもらった身であるし、部外者でしかない。
 ひょっとしたら大した理由などないのかもしれないが、そこに首を突っ込むだけの理由を彼は持たなかったからだ。
「一人はわたしの兄なんだけど、ランクAの《解呪士》(ディスペラー)でうちの一番の働き頭なんだ。今も仕事で首都まで行ってる。それから、もう一人は……」
 そこでふと何かを思いついたのか、サアラは言葉を切ると怪訝そうな顔のファイザードをまじまじと見つめた。
「あの?」
「あんた、年はいくつ?」
「は? 年、ですか?」
 あまりに唐突な質問に、何でいきなりそんな事を聞くのか疑問に重いながら、ファイザードは素直に答えた。
「今年で十六になりますけど……」
「十六? …見えないね」
「放っといて下さい」
 自分でも童顔なのを自覚しているファイザードは、思わず憮然とした顔になる。
 その顔を可笑しそうに眺めて、サアラは途切れた言葉の続きを口にした。
「ああ、ごめん。うちの兄も結構な童顔なもんだからさ。ちょっと気になって。そうそう、もう一人は今年で十五歳になるキサって子で、キュラの娘なんだ」
「娘……?」
「そう。で、砂海であんたを拾ったのはそのキサなんだよ」
「…えええっ!?」
 今明かされる衝撃の事実。ファイザードは言葉を失い、魚のように口をぱくぱくさせる。
「ど、どうやって……」
 自分は確か、砂海の真ん中に倒れていたのではなかったか。
 いくら標準よりも小柄に属するファイザードでも、それなりに体重はあるはずで──。
「言っておくけど、キサは怪力持ちじゃないからね」
 ファイザードの心理を見透かしたようにサアラが言う。
「え…で、でも」
 それではどうやってここまで運んだと言うのだろう。いや、それ以前に砂海を渡っている事自体、不可能に近い事なのではなかっただろうか。
 さまざまな考えがぐるぐると頭の中を駆け回る。そんな彼を見つめて、サアラは笑いながら答えをくれる。
「キサはね、《召喚士》(サモナー)なんだよ。それも、ランクAのね」
「…じゃあ」
「そう。キサはあんたが砂海に跳ばされたように、ここへあんたを跳ばしてきたんだよ。風精を召喚してね」

+ + +

『どうして…どうしてなの? …あなた』
 耳を打つ言葉は、驚きと悲しみに満ちている。
『あなた、どうして……!!』
 熱のこもったような視線を投げかけてくるその目に、もう彼の姿は映っていない。いや、最初から彼などこの瞳は見ていなかった。
『どうしてよっ……!!』
 血を吐く叫びを上げるのは、悲しき鬼女。修復不可能な程に傷付いた心が、彼女を鬼にした。
「…あなたは……」
 迫り来る鬼に、彼は告げた。
「…あなたは、これ以上生きてはいけないんだ……」
『わたしはこんなにも、あなたを愛しているのに……っ!!』
「愛しているのは、僕じゃない。…僕じゃ…ない」
 鬼女は間近に迫る。
 その振り上げた腕は、すでに人の形を失いつつあった。
「…あなたがせめて人である内に、僕は……」
『愛しているのよっ……!!』
「……っ!」
 鋭く伸びた爪が彼に向かって振り下ろされる。── が、それが彼を傷付ける前に、彼の手は鬼女の額を捉えていた。
「…あなたは、あまりにも殺し過ぎたんだ…、母さん……っ!!」

+ + +

「……!!」
 はっと我に返った。一瞬、自分が何処にいるのかさえ、覚束なくなる。
(また、か……)
 あまりにも生々しい白昼夢だった。ここ二日余り、ずっと脳裏に焼き付いて離れる気配がない。
(引き摺られているのか……)
 夢の残滓を追い払うように頭を振る。肩までの黒髪がさらさらと涼しい音を立てた。
 砂海で『拾い物』をして、三日目。
 少女── キサは柄にもない事をしたと、少しばかり後悔していた。
(でも、何故か放っておけなかった)
 無意識の内に、髪に隠された右目を手で覆う。
(『これ』さえなければ── あんなもの、見ずに済んだんだろうか?)
 彼女の右目── それは常人とは異なるもの。見たくないもの── 時として、他人が知るべきではないようなものまで見せる、そのくせ見たいと望むものは見せない厄介な代物だ。
 先程の光景はおそらくその時拾った『拾い物』── 少年の過去、あるいはその未来だ。
(母親、か……)
 意識のない、血の気が失せた顔を思い出す。
 優しげな顔をしていた。とても、実の母親を殺すような事は出来そうにない感じの。
 右目から手を離し、キサは小さくため息をついた。そして硬い無表情のまま何事か呟く。
 すぐに彼女の足元から、小さな人の形をしたものが現れた。
「…地精。キュラに伝えて欲しい。明日、帰ると」
 人の形をしたもの── 土の小精霊は小さく頷くとその姿を消した。
「戻らなくては……」
 まるで、自分に言い聞かせるように言葉を漏らす。依頼は果たした。もうこの街に用はない。
「…拾った生き物は拾った者が責任もって面倒をみるべきだし…わたしが帰らなければキュラが泣くもの……」
 まるでキサを励ますように、柔らかな風がそっと彼女を包んだ。

+ + +

 キサがマキュリアンに辿り着いたのは、翌日の夕刻だった。
 依頼先で報酬を受け取るなどの事務的な事に、少々時間がかかってしまったのだ。
 今回の仕事の結果に依頼人は非常に満足したらしく、最初に契約を交わした時に約束した以上の報酬をくれたのだが、その分、彼の長話に付き合う羽目になったからだった。
「お帰りなさい、キサ」
 キサを迎え入れて、キュラはほっとしたように微笑んだ。
 しかし、キサはそれに応える事はしなかった。いや── 出来なかったのだ。
「キュラ。…只今、戻りました」
「無事で何よりだわ。…まあ、あなたの手を煩わせる程の仕事ではなかったでしょうけど」
「それは買い被りです」
「いいえ。…あなたの実力を考えたらわかる事。わたしの言葉は信じられないのでしょうけどね」
 ほんの僅かに苦笑が混じった言葉に、キサは無言で応える。それは母娘にしてはよそよそしい。
「…やっぱり、わたしを『母』とは呼んでくれないのね」
 しばらくして、淋しげにキュラがぽつりとそんな事を漏らした。
「キュラ。…わたしは、あなたには感謝している」
 手探りで言葉を探しながら、キサはキュラを真っ直ぐに見つめる。漆黒の瞳は、キュラの琥珀の瞳とはあまりに異なる。
「キサ……」
「血の繋がりのないわたしを、あなたは引き取り、育て── 生きる為の目的も与えてくれた。でも……」
 胸に込み上げてくる思いは、悲しい程に表に現われない。伝えたい気持ちは、決して明確な言葉にはなってくれない。
 その為に、言葉は残酷なまでに冷たい響きを増す。
「わたしは、でも…『こんなもの』を得てまで、生きていたくはなかった」
「……」
 キュラは何も答えない。悲しげにキサを見つめるばかりだ。
(また、失敗した……)
 心の奥で苦々しく思いながら── キサはそのまま黙って部屋を後にした。
 これ以上何かを言っても、言い訳じみたものになってしまう事がわかっていたからだ。
 部屋を出て扉を閉じた途端、彼女達の繋がりである右目が、何かを訴えるようにちくり、と痛んだ。

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