贖罪の丘
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ほんの少し早く気付いていたら結果が違っていたかもしれない。 そういう事は多々ある。だが、そういう事は常として、そう思った時にはすでに事は始まっているものだ。 キサとファイザードの空の旅は、快適さはともかく順調であった。 正に風に乗って、風に運ばれるその感覚を、言葉に表すのは難しい。 それを快感に感じる者もいるだろうし、慣れない高度での移動に戸惑う者もいるだろう。 ちなみに彼等の場合、前者がキサで後者がファイザードである。 天候はまずまずの晴天、視界を妨げるものもない。そうした場所での襲撃など、普通なら不可能だと言えた。 だが──。 (?) 異変に気付いたのはやはりキサだった。不意に何かの気配を感じ取り、状況が状況なだけに怪訝に思ったのだ。 ファイザードには告げないまま、その気配の元を確かめるべく周囲に目を走らせる。 空中にいる彼等は身を隠す場所がない。いざという時は無防備と言っても過言ではなかった。 (何だ、この感じは……) 初めは空を飛ぶ能力を有した魔族かと思ったのに、感じ取ったものは魔族特有の魔気とは異なっていた。 それよりも、もっと感覚的で純粋な……。 「キサ!!」 不意にファイザードがキサの名を呼ぶ。 「っ、下だ!!」 切羽詰った声。反射的にキサは動いていた。 「── 風精……!」 咄嗟に風の小精霊による防御壁を築く。 濃縮された空気の壁は、通常の物理的な攻撃は元より、魔法による攻撃も緩和・相殺するだけの威力があった。そこに、激しい衝撃が走る。 明確な気配が、透明な壁の向こうに現れていた。 (これは── 殺気……) 気配と思っていたそれが、実際は研ぎ澄まされた殺気であった事に気付く。 刹那、身の裡を駆け抜けた悪寒を、キサは自らの腕を強く握る事で耐えた。 切り裂くように冷たい殺気が吹き付けてくる。 「…お前は……!」 ファイザードがぎょっとしたように声をあげた。 彼の視線の先、その殺気の源をよくよく見たキサは僅かに目を見開く。 「何故……」 壁の向こうに浮かんで立っていたものは、本来ならこんな所にいるはずのない獣の姿をしていたのだ。 その余りの違和感に、キサも呆然となった。 「狼……?」 「…妖精だよ」 思わず漏らした言葉に、ファイザードが答えた。 「妖精?」 まじまじと狼を見つめても、それが妖精であるのかキサにはわからなかった。 微かに緑を帯びた灰色の毛皮。瞳が爛々と金に輝いている。口から覗いた鋭い犬歯と丈夫そうな爪が獰猛さを強調していた。 「あれは妖精…フェラックやアラパスと同じものさ」 硬い声音でファイザードがそう説明する。 その若草色の瞳が常らしくなく重く沈んでいたが、キサのいる場所からは見る事は出来なかった。 『やっと見つけたぞ! 小僧!!』 空気を振るわせたのは、声なき声。 頭の中に直接ぶつけるような攻撃的なそれは、確かに先日、妖精の青年達が用いた声と同質のものらしかった。 『捜したぞ? やはり生きていやがったな。貴様の事だ、そう簡単にはくたばらんと思っていたが』 冷たい殺気はそのままに、その声の主である狼は嬉しそうに語りかけてきた。まるで、獲物を前に舌なめずりするようだとキサは思った。 (一体こいつは……?) 狼にどう対応すればいいのかわからずに困惑していたキサは、不意に閃いた。 「まさか、こいつが……」 確認するようにファイザードを見ると、彼はキサの視線の意味に気付き、やがてゆっくりと頷いた。 そう── この狼こそが、かつて西の地から東の地にまでファイザードを跳ばした張本人なのだ。 『はっはっは! 小僧、貴様恐れをなして味方を連れてきたか?』 狼が勝ち誇ったように笑い声を上げた。 『だが、そんな小娘に何が出来る? 見た所召喚士のようだが、こんな防御壁程度では儂(わし)は止められんぞ!?』 そして空気を震撼させる咆哮が狼から発せられたと思った瞬間、突然築かれていた壁が霧散した。まるで最初から何もなかったかのように。 『ははははは!!』 高笑いと共に狼が恐るべき速度で宙を飛んだ。まるで大地を駆けるように、自由に空を駆ける。 「…水精!」 目前に迫った狼の姿に、慌ててキサは小精霊を召喚した。 その途端、まるで宙に張り付けられたように狼の体がぴたりと停止する。 『…ほう? 少しは骨があるようだな』 狼が楽しげにそんな事を漏らす。完全にキサとファイザードを見下す態度だった。 『風精が効かぬと気付いて水精に足止めさせるとはな。…面白い』 にたり、としか表現のしようのない様子で、狼が口元を歪めた。 「…っ! キサ、逃げろ!!」 狼の意図に一早く気付いたファイザードが叫ぶ。 「早……」 『黙れ、小僧!!』 ファイザードの言葉を遮る一喝を上げ、狼は殺気のこもった目でファイザードを睨み据える。 『貴様は後でゆっくり、嬲り殺しにしてやるさ』 今度は確かに、狼は笑った。 ピシイッ!! 空気を切り裂くような鋭い音が生じ、狼がまるで束縛など初めからなかったかのように恐ろしい速さでキサに迫る! (水精が、効かない) 弾き飛ばされ、拡散していく常人の目には見えない水の小精霊達を、キサは呆然と見るより他はなかった。 力量差は、それほどに圧倒的だったのだ。 ファイザードの身に降りかかった災難については、旅立つ前にサアラから聞いていた。だから、邪風精の力を有する獣精に、風は効かないだろう事は予想出来ていた。 なのに、水精までも効かないなど全く予想外だったのだ。 (駄目だ) 閃いたのは敗北の予感。 (ここじゃ、負ける) 狼の鋭い牙と爪が眼前に迫ってくる。 (ここじゃ、風と水以外は呼べない……!) 『残念だったなあ、小娘』 冷酷に狼は告げた。 『あいにく、儂には風の他に炎の力も付加されているのさ! 儂が望んで得た訳じゃないがな。お前には恨みなどないが、儂の邪魔をしたのが運のツキって奴だ。恨みたかったら、小僧を恨むんだな!!』 嬉々として狼は叫び、その爪をキサに向かって振り下ろした──。 |