の丘

- 3 -

 ぐるり、と不意に視界が変化した。
 次いでばさっ、と乾いた羽音らしき音が耳を打つ。
『ぼんやりするな! また、次が来るぞ!!』
 狼とは異なるその声なき声で、キサは我に返った。
 見れば、何時の間にか自分の肩を猛禽類を想わせる足が掴んでいる。それは炎のような朱金の光を帯びていた。
「……?」
 狼の一撃からキサを救ったのは、見た事もない美しい鳥だった。
 しかし、その美しさは決して目を和ませるようなものではない。
 そう── それはまさに炎の化身。近付き過ぎればこちらが傷付く、研ぎ澄まされた刃のような美だ。
『来るぞ!!』
 その鳥の声に、キサは咄嗟に小精霊を呼んだ。
 呼びかけたその瞬間には、再び襲い掛かってきた狼を、無数の小さな白い花びらが包み込む。
『ふん…氷精か』
 雪花に包まれながらも、狼は不敵に呟く。
 白い花びらのような雪は狼の周りでだけその密度を増し── 瞬く間にその姿を覆い隠す程になる。そして。

 キン…ッ!!

 鋭い音が走ったかと思うと、雪は瞬時に本来の姿を現した。
 現れたのは狼を内に閉じ込めた巨大な氷柱。その様子はまるで琥珀に封じ込められた昆虫のようだった。
 本来なら重力に従い落下するはずのものだったが、狼自身の風の力か、氷柱は空中に留まっている。
『いい腕だ。流石、と言うべきかな』
 そんな感心したような言葉がキサの頭上から振ってくる。
「…まだ、終わってない」
 迷いのない返答に、頭上の鳥はまったくその通りだと同意する。
「フェラック、キサ……! 大丈夫か!?」
 焦りのこもるファイザードの言葉で、キサは今更のように理解した。
 この鳥は目前の狼と同じ、妖精と呼ばれるもの。昨日顔を合わせた時は人型を取っていた為に、まるで別物のように捕らえていた。
「…フェラックは、鳥の妖精だったのか」
 確認するようなキサの言葉に、頭上の鳥はおや、ととぼけたような声を漏らす。
『そう言えば言ってなかったっけ?』
 そう言うと、鳥── フェラックは自信満々な口調で自らを明かした。
『そう、オレは鳥精── 鳥精で唯一火の属性を持つ、火喰い鳥さ!』
「火の属性……」
『それはさておき、キサ。あんたには悪いが、どうやら完全に巻き込んだようだ。…イザには、精霊を支配するあんたみたいな能力がないから身動き出来ない。アラパスの奴も魚精だからな。空中戦じゃ役立たずだ。…手伝ってくれないか?』
 ばさり、と大きく羽音がしたかと思うと、炎を想わせる光を纏った鳥が目の高さに降りてきた。
『奴は…奴だけは、ここで倒さないといけない』
 見つめてくる瞳は人型の時よりもずっと真摯なもの。でもその本質は変わらない。
 ── 全ては、大事な人(ファイザード)の為に。
「…わかった」
 言われるまでもなく、最早ここで彼等を置き去りにするつもりなどない。
 小さく頷くと、フェラックは嬉しそうにその翼を動かした。

+ + +

「…ねえ、エスメルーダ」
 優しい午後の日差しが差し込む部屋で、柔らかな茶の髪と若草色の瞳を持つ幼い少年が、ふと真顔になって傍らの女に尋ねかけた。
「…何?」
 女── エスメルーダと呼ばれた人物は、少年にいつも通りの慈しむような優しい空色の瞳を向ける。
 少年はその目を真っ直ぐに見つめ、やがて決意したように口を開いた。
「ぼくのお母さんは…ぼくの事、嫌いなのかな」
 やがて零れ落ちた言葉は、そんな淋しげなものだった。彼女は目を微かに瞠(みは)り、そっと問い質す。
「…どうして、そう思うの?」
「だって…ぼくの事、見てない」
 それは幼いながらも、いやそれ故に真実を突いた言葉。
 彼女ははっとした表情を見せ、次いで辛そうにその目を伏せた。だが、少年はそんな彼女の様子には気付かず、更に続ける。
「それに、ぼくを置いていっちゃったもの……」
 自分で言っている間にその時の事を思い出したのか、言葉尻が弱まる。
 そこに第三者の声が滑り込んだ。
「── どうした? 何、エスメルーダを苛めている」
 声は彼等の死角── 背後からのものだった。
「…ジェイラーン」
 彼等の前に現れたのは、一見影と見紛う、黒尽くめの格好をした男だ。
 漆黒の髪、紫を帯びた濃い灰色の瞳をした長身のその男は、明るい室内だというのに、不思議にしっくりとそこに馴染んでいた。
 その涼やかな目が彼等を穏やかに見つめる。
「いじめてなんかいないよ」
 少年が頬を膨らませて抗議する。
 その様子を目に留め、男は口元に微かな笑みを浮かべると彼等の側に歩み寄って来た。
「その人がどうしても話せない事を話させようとするのは…苛めているようなものだろう?」
 少年の頭にぽん、とその大きな掌を乗せ、男が噛んで含めるような口調で諭す。
「話せない…そうなの? エスメルーダ」
 驚いたように少年が確認すると、彼女は自嘲するような笑みを浮かべて頷いた。
「そうね…今はまだ、話せないわ。もう少しあなたが大きくなってからでないと」
「どうして?」
 弱冠四歳の少年が不満そうに言う。
 本人は十分に大きいつもりなのだ。実際少年は、同年齢の他の子供よりも利発ではあったが、それでも彼女や彼の目には十分に子供だった。
「それはな、」
 彼女に代わって男が答える。
「お前の父親に関わる事だからなんだ」
「…お、とう…さん?」
 思いがけない言葉だったのだろう、少年の瞳が大きく見開かれる。
「そうだ。お前の父親も…かつてここにいた事がある」
 淡々とした言葉だが、そこには彼女と同じ慈しむような響きがある。
 その言葉を引き取って、彼女は遠くを見つめるような瞳を少年に向けてそっと言った。
「今はまだ話せない…でも、これだけは言えるわ。あなたのお母様は、本当にあなたのお父様を愛していたの。…そう、本当に世界の何よりも」
 そして彼女は悲しげに微笑んだ。

+ + +

「…気をつけなさい」
 見事な白髪を背に流した、十代中頃の姿をした少女が厳(おごそ)かに告げる。
 その瞳は深き緑。翡翠の硬質さそのままに、何処か超越して冷たい輝き。
「ここを出てしまったら、もう私達にはあなたを助ける事は出来ないわ。自分の力だけで全てを乗り越えていかなくてはなりません。…その事をよく覚えておきなさい。壁にぶつかった時、その解決策はあなたの中にあるのだという事を」
「はい、メリエラ」
 応えたのは少年。少女よりは多少年下らしいが、けれどもその言葉にはそれだけの理由でないような従順な響きがある。
「忘れるな」
 少女の傍らの男も口を開く。
 真っ直ぐな黒髪は少女よりは短いが長く、それを簡単に結わえている。厳しさを帯びる瞳は見る者の記憶に焼きつくような黄金。
「お前の力は不安定なものだ。守護精と封呪、そしてその顕精珠── そのどれが欠けても、お前に大きな影響を及ぼしてしまう。…いいか? 何があっても、それらを手放すな」
 突き放すような言葉だったが、そこには少年を案じる気持ちが含まれている。それがわかっているから、少年は力強く頷いた。
「── では行きなさい」
 少女が鮮やかに微笑む。男も励ますような目を少年に送った。
「我等の愛し児に、祝福を!」

BACK← →NEXT