の丘

- 4 -

(…僕のせいだ)
 ファイザードは絶望的な思いで唇を噛み締めた。
 込み上げてくるのはどうしようもない程の焦燥感、そして悔しさ。
 見上げた上空に見える二つの姿と一つの氷柱。
 もちろん氷柱は狼の姿を持つ獣精が閉じ込められたもの。残る二つの姿は片方は彼の守護精・フェラック。そしてもう一つは──。
「キサ……」
 ぎゅっと拳を握り締める。
(巻き込んでしまった…何も関係がないキサを)
 無力な自分が情けなかった。
 出来る事は、せいぜいフェラックを顕現させる事だけ。
(…やはり僕は『外』へ出るべきじゃなかったんだ……)
 巡礼に出る事を決意したのは一月ほど前の事。
 よもやこのような事態が待ち受けるなど、夢にも思ってなかったし── その時はそれが最良の道のように思えたのだ。
 脳裏に甦るのは、その決意を告げた時に『彼等』の少し悲しげだった眼。
(…エスメルーダ達は、知ってたんだ……)
 こうなる事を。だから…あんなにも悲しい目をしたのだ。
 よくよく考えずとも、それは当然の事ではあった。彼等は『全てを知っている』のだから。
 それでも彼等が自分を止めなかったのは、もちろんそうする事を彼等自身が禁じている事もあるが、それが避ける事の出来ないものだと知っていたからなのだろう。

『自分の力だけで全てを乗り越えなければなりません』

 初めて『外』に旅立った時に言われた言葉は、今でも存続しているだろう。
 それも今思えば、自分が出会う困難を暗示していたのだ。
(…エスメルーダ、ジェイラーン、メリエラ、クレイナグ)
 一人一人の顔が思い浮かぶ。彼等は励ますような目をファイザードに向けているようであった。
 誰よりも── 実の親よりも、自分を慈しんでくれた養い親達。彼等に恥じるような事はしたくない。
「自分の、力で……」
 その時、彼の体を微かな燐光が包んだ事に気付いた者は、本人を含め、誰もいなかった……。

+ + +

 ピシリ、と不意に氷柱に亀裂が走った。
 しゅうっ、とその隙間から白い水蒸気が立ち上り── やがて、それは氷柱全体からのものへと変化する。
「破られる……!」
 キサの感情が抜け落ちたような声が、微かに緊張を孕(はら)む。
 もっとも、余程注意深く聞いていなければわからない程度のものだ。けれど本人にとってはそれでも重大な事ではあった。
『キサは感情がないんじゃなくて、感情の出し方がわからなくなっているだけだよ』
 ふと、キサの耳に昨日のファイザードの言葉が甦った。
 慌ててそれを振り切るように頭を軽く振る。それは、今思い出すべき事ではない。
『来るぞっ!!』
 フェラックの声がしたかと思うと、同時に氷柱は呆気なく粉々に砕け散り、その破片が陽の光を反射して煌く。
 そして氷柱があった場所には、赤い光を帯びた狼が無傷で彼等に目を向け、まるで地面に立っているかのように悠然と浮かんでいた。
『…さあ、次はどうする?』
 挑発するような言葉。自分の優位を信じて疑っていない口調。
『今度はこちらから行くぞ!!』
 吼えたと同時に、狼はかっと口を開いた。
 そこから恐ろしい速さで火球が飛び出す。
『あいにくと、火は全然平気なんだな』
 不敵な言葉を発し、フェラックはその大きな翼を最大限に広げた。
 さながら壁のようになった翼に、火球は次々にぶつかり── 瞬時に吸収されてしまう。
『…何だと?』
 初めて狼に狼狽が見えた。
『まさか、お前は──』
『その通りさ』
 狼の言葉を遮るように、フェラックが笑う。
『お前が思っている通り、オレは火喰い鳥だ』
『何……!!』
 狼は絶句し、フェラックと眼下にいるファイザードを見比べる。再び紡がれた声には険しいものがこもっていた。
『よもや、奴の守護精ふぜいに成り下がったと言うのか?』
 否、という言葉を暗に期待する言葉だった。
 その言葉に含まれる毒は、傍で聞いていたキサの耳にもわかるものだ。
 そう言えば、この狼が何故ファイザードを襲ったのか知らないままだ。尋ねる暇がなかった事もあるが、狼の只ならぬ殺意は異常に思える。
『その通りさ』
 キサがそんな事を考えていると、フェラックが例ののんびりした口調で答えた。
『オレはイザの── ファイザードの守護精だ』
 のんびりした中にも、誇りが見える。それは聞いていて清々しいものがあった。
 もっとも、狼にはそう思えなかったのは明らかだったが──。
『…見損なったぞ。貴様達はあんな無力な者に自らを委ねる程に落ちぶれたか!? 誇り高き火喰い鳥の所業とはとても思えんな!』
 吐き捨てんばかりの言葉には憎悪すらこもっていた。それを耳にした途端、フェラックの口調が一変する。
『…その、無力な者に倒されたのは、何処の誰だったかな』
 今までののんびりと人を食ったようなものではない、火の属性を持つとは思えない程の冷たい言葉。
『オレ達妖精は、妖精使いの守護精になる事で本来以上の力を得る事が出来る……。イザの真の力を読み取れないお前ごときには、そんな事もわからないんだろうがな』
 言葉の後半には哀れむような感じさえ漂っていた。
 狼がいきり立つ。
『冗談ではない! 人に仕えるなど愚かしい…我等は対等であるべきだ!!』
 怒りのままに言葉を吐き出した狼は、そこでふと鋭い眼光をファイザードに向ける。一瞬、そちらに攻撃をしかけるのかとキサは身構えたが、それは違った。
 狼は歯軋りするように言葉を漏らす。
『その点、あの女はよくその事をわかっていた。我等に干渉せぬばかりか、新たな力すらも与えてくれた。…それを』
 内側から込み上げる怒りの内圧が高まったのか、言葉が微妙に震えている。
 光る目はファイザードだけを捉えている。それが憎悪の対象なのだと雄弁に物語っているようだった。
『それをあの小僧が全てぶち壊しやがった……!!』
 怒りを露わに叫んだかと思うと、狼は同時に自らの力を解放していた。
「…っ、邪風精の力……!」
 それは小精霊を召喚・使役するキサには不可解な現象だった。狼はそれ等を『呼ぶ』訳ではない。使役している訳でもない。
 そう── まるで自分の分身のように『支配』している。
(そんな事、可能なのか……?)
 到底信じられなかった。狼の言葉を信じるならば、狼には邪風精と炎の属性を持つ別の何かが混在している事になる。
 力を付加する、とは武器等の道具でない以上、そういう意味だろう。
 それ以前に本来複数の属性を持つ事事態、稀なのだが……。
(魂の、複合体(キメラ)……?)
 ばかな、と思う。
 そんな事が可能ならば、どんな魔法の生き物だって作り出せてしまうではないか。いや、今までの常識が根本から覆ってしまう。
 そんな事を考えている瞬間にも、圧倒的な風の力がその場にいる全ての者に襲い掛かる。
「キサ!!」
 ファイザードの声。
 口調からわかる。彼は自分を巻き込んだ事を悔やんでいる。きっと、この場から逃げる事を望んでいる。
 でも、そんな事出来るはずがない。彼を無事に西の地へ送り届けるのだと自分で決めたのだから。
 しかし──。
 キサの目には見えた。
 自分達を必死に守り、支えようとする風精が、次々に邪風精によって相殺されて消滅していくのが。
 風精と邪風精は根本的に違う。邪風精はそれ自体で『悪意』という意志を持つ。
 自ら意志を持つだけに、召喚士の命令を受けて初めて力として働く風精よりも強力なのだ。
 その悪意のこもる風が、次々に彼等を絡め取る。
(駄目だ……!)
 そう思った刹那。
 彼等は乱暴な風によって、空中からもぎ取られていた──。

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