の丘

- 5 -

『どうしたらいいの。彼は行ってしまうわ』
 明るい陽だまりのような髪を緩やかに結わえた女が、今にも泣きそうな顔で呟く。
 その何時もなら澄んだ空を映した瞳も、今は絶望で暗いものに変わっている。
『…仕方がない。我々にはどうする事も出来ない事だろう。いや…してないけないんだ』
『でも……!!』
 冷静な言葉。女はそれを言った黒尽くめの男に言い募る。
『このまま彼が行ってしまえば、とんでもない事が起こってしまうのよ? そう…たった、一日。たった一日ここに足止め出来れば、運命は変わる……』
『だがそうすれば、我々は「彼」に会えなくなる』
 男の言葉に、女は目を大きく見開いた。
 途方に暮れた顔。それを見つめて、男は言葉を重ねる。
『…そう言ったのは、君だ。エスメルーダ』
 素っ気無い言葉。だが、彼の表情はそれとは裏腹に限りなく優しかった。
『…未来は不確かなもの。彼がここから旅立ったとしても、必ずしも悲劇が起こる訳ではない』
 二人の会話を傍で静かに聞いていた男が、重々しく言葉を紡ぐ。
 真っ直ぐな長い黒髪を無造作に背で結わえたその男は、同意を求めるように視線を隣の少女めいた外見を持つ、もう一人の女に向けた。
 腰よりも長く伸ばした白髪を揺らして、女は静かに頷く。翡翠の瞳が彼女を真っ直ぐに捉える。
『こうなる事はわかっていた事でしょう? 「彼女」がこれから引き起こす事が「彼」の誕生に深く関わっている以上…そして私達が「彼」との邂逅(かいこう)を望む以上、彼を止める事など出来はしないのよ。…私達に出来る事はただ傍観する事、そして── 祈る事だけだわ』
『…でも……』
『気持ちはよくわかる。…私達はあまりにも長く生きてきた。人よりも長く。そして…これからも。そんな私達にとって、「彼」は救いになるだろう。…いや、そうでなくても私は詰まる所「彼」に会いたい。── たとえ、それが間違った望みでも』
 長髪の男が諭しつけるように言葉を紡ぐ。
 その表情はどちらかと言えば無表情と言えるものだったが、その瞳だけはひたむきな輝きを帯びていた。
 その言葉を受けて、嘆いていた女が俯(うつむ)く。その肩を黒尽くめの男が優しく抱いた。
『未来を視る君ほど、私達は苦しめない。だが、君が私達の中で誰よりも「彼」と会う事を願っている事はわかる』
 だから何があっても、責める事はしない、と男は言った。
『…彼は、死ぬわ』
 彼女の口から漏れたのは、あまりにも不吉な言葉。
『そうなるとは決まっていない』
『ええ…そうよ。未来の指向性は、実際直前になってみなければわからない。でもこれはほとんど確定的な未来。彼は死に、彼女は…狂い、「彼」は──!』
『エスメルーダ!』
 感情の昂ぶりを押さえきれない様子で絶叫する彼女を、白髪の女が鋭い声で諌めた。
『…自分を責めては駄目。責められるべきは、未来を読んでしまうあなたじゃない。こんな運命を作り出してしまった、目に見えない流れに責任があるのよ。…あなたは悪くない』
 淡々とした言葉。その何時もと変わらない口調が、彼女に冷静さを取り戻させる。
『…メリエラ』
『私も、ジェイラーンもクレイナグも。そしてエスメルーダ、あなたも。私達は望んで生まれてきたわけじゃない。出来る事なら、こんな力も長すぎる命も持たずに生まれてきたかった』
 翡翠の瞳が順に彼等を辿っていく。
『…けれど、一度生まれついてしまった以上、もうやり直す事なんて出来ないでしょう? それに、私は少なくともその事を不幸だと思っていない』
 乏しかった表情が、はっとする程鮮やかな笑みを浮かべる。
『何故なら── こういう風に生まれてきたからこそ、あなた達という仲間が得られたんだもの。…ねえ、エスメルーダ。確かに彼は他の人から見れば不幸なのかもしれない。でも、それは所詮、他人の尺度でしかないわ。その人が本当に幸福かどうかは── 結局、その人自身が決める事。そう、思わない?』

+ + +

 重苦しい気分でキサは目覚めた。
 胸の中に蟠る、重圧感。一瞬、夢と現実の区別がつかなくなる。
(ここは……)
 視界に飛び込んできたのは重なり合った緑。
 薄い葉が強い日差しを透かし、幾分柔らかくなった光をキサの元へと落としている。
 ぐるりと周囲を見回して、キサは自分の置かれた状況を確認した。
 どうやら木の上らしい。重なり合った枝がキサの細い身体を支えてくれている。
(これは…一体……)
 胸の奥にある焦燥にも似た重圧感と同様の頭痛を感じ、キサは眉を微かに顰める。
 頭の中はひどく混乱していた。先程まで見ていた夢のせいだろうか、と首を傾げ── やがてキサははっと我に返った。
(違う。あれは夢なんかじゃない)
 見覚えのない四人の男女── あれはきっと過去か、そうでなければ未来の事。右目が呼び起こす、現実の断片。
 生々しい現実感が残るそれは、決してキサ絡みの出来事だけではない。
 キサに関わった人々の、もしくはこれから関わる人々の過去や未来すら見せるのだ。
 ── キサが望もうと望むまいと。
(あれは、一体……)
 無意識の癖で手を右目に伸ばしかけて、キサははっと身を強張らせた。
(いけない)
 決して人目につかないように、風精に守らせていた右目が露わになっていたのだ。
 そして思い出す。今の状況に繋がる事になった様々な事を。
 最後に揮(ふる)われた狼の邪風精の力は、キサの予想を大幅に上回る強烈なものだったという事だ。
 キサ達を支えていた風精のみならず、キサのごく身辺に存在していた風精さえも無効化してしまう程に。
 急いで風精を召喚し、再び右目を髪で覆い隠そうとする。
 …しかし。
『どうして隠すんだ?』
 不意に投げかけられた言葉で、キサは風精に呼びかける言葉を途中で飲み込んだ。
『それじゃあ、本来の能力も半減するんじゃないのか?』
 呑気な声はごく身近からのものだった。
「…フェラック?」
 おそらくその調子だと見られてしまったのだろう。だが、その事に対してよりもその言葉の意味する事にキサは驚いた。
「何処にいる」
 周囲を見回し、声の主を捜すが見当たらない。
『ここだよ。キサの真上』
 言われて見上げれば、確かにすぐ真上の枝に、朱金の光を帯びた美しい鳥がとまっている。
『なあ。そんなにそいつを隠したいのか?』
 何の害意も感じさせない、例ののんびりした声で尋ねてくる。
「何故、そんな事を聞く」
 フェラックの意図する事が掴めず、キサは逆に問い返した。
「それよりイザは何処に?」
『さあな。わからない』
 返された言葉はあまりに緊迫感のないものの上、あんまりと思えるものだった。
「…フェラックは、イザの守護精だったのではなかったか?」
 半ば呆れてキサが言うと、フェラックは動じる気配もなく、肩を竦めるように羽を動かした。
『そりゃあ、オレはイザの守護精だけどな。でも離れてしまったらイザの状況なんかわかんねえって』
「じゃあ…イザが無事かもわからないのか」
『いや』
 キサの言葉を一言の元に否定し、フェラックは気軽な調子で言う。
『イザの安否ならわかる。少なくとも生きてる。…イザが死んだら、キサに話しかける事なんて不可能だしな』
「…そうなのか?」
 思いがけない事にキサは首を傾げた。
 今まで《妖精》などという存在を目にした事がなかっただけに、《妖精》には元々会話能力があるものだと思っていたのだ。
 フェラックはそれを見透かしたのか、苦笑混じりに答える。
『オレ達妖精は、元々大した力はないんだよ。イザみたいな妖精使いが、自身を媒介にしてオレ達に存在するだけの力を与えてくれないと、自身の持つ力も満足に表に出せないんだ。力だけじゃない。思念もだ。妖精の格ってのは詰まる所、妖精使いの格で決まるものなのさ…本当はな』
 最後の混じった苦いものは、おそらく狼の事を示唆しているのだろう。
 あの狼は単体で行動しているようだった。いや──むしろ何かの下で動く事は耐えがたいような素振りがあった。
「…じゃあ、イザが無事な内に捜し出さなければ。あの狼は…危険すぎる」
 少なくとも、彼一人では歯が立たないだろう。
 そう言ってしまうと居ても立ってもいられず、キサはそのまま木を降りようとする。そこにフェラックが制止の声をかけた。
『そう慌てるなよ。今慌てて行っても、下手すれば先刻の二の舞だぞ?』
「だからと言って、放っておく訳には……」
『大丈夫だって。オレも相手が誰であろうと、もう二度とイザを傷付けさせるつもりはないし…イザは一人じゃない。アラパスの奴がいる』
 自信満々の言い様に、キサは微かに違和感を感じた。
 今までとは何処か違ったように思えたのだ。思わずまじまじとフェラックを見つめると、フェラックはからかうように口を開く。
『何だ? オレがアラパスの事を言うのがそんなに意外か?』
 そういう訳ではなかったのだが、実際言われて見れば、昨日のやり取りからしてとても信頼しあっているようには見えなかった。
 フェラックは困惑して沈黙したキサを見下ろし、小さく笑い声を上げる。
「…どうして笑う」
『いや、そんなにオレ達って仲悪そうに見えたのかなってな。…言って置くが、オレはあいつの事嫌っちゃいないぞ。向こうがどう思っているのかは知らないが』
「そんな事よりも、大丈夫なのか? アラパスは…多分、水の属性を持っているんだろう」
『ああ』
「あいつには水は効き難い。風が炎を強めている」
『そうだな』
 実にあっさりとキサの言葉を肯定する。だが、すぐに面白がるような口調で言葉を重ねた。
『だが、確かにあいつは防御力じゃ奴に敵わないと思うが、攻撃力ならいい勝負だと思うぞ?』
 基本的に水の属性と言うと攻撃性よりも防御性を持つはずである。
 キサは予想を超えた言葉に思わず反芻する。
「…攻撃?」
『そうだ』
 心なしか楽しげにフェラックは言う。
『何しろアラパスの奴、「攻撃は最大の防御」が信条だからなあ』

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