その時、彼は泣いていた。
涙を流す事もなく、ただただ静かにその若草色の瞳を絶望の色に染めて。
彼等はその時、人は涙を流さずとも泣く事が出来るのだと知った。
泣いているのは、彼の心。
砕け散り、深く傷付き血を流した心。
余りにも純粋で優しかった魂は、それ故に全てを受け入れ──
そして放り出す事も出来ずに、自ら壊れる事しか出来なかったのだ。
彼等はただそんな彼を、黙って見守る事しか出来なかった。
近寄り、抱きしめたいと心から思っても、そう出来る状況ではなかった為だ。
やがて彼自身が自分の力で立ち直り、再び彼等の存在を思い出してくれるまで。
再び、彼等の名を呼んでくれる時まで……。
+ + +
「ええ〜いっ! これでも、喰らえっ!!」
たおやかな白い腕が無造作に振り上げられるのと同時に、そこから勢いよく何かが飛び出していく。
『…小癪(こしゃく)な!』
対する狼からカッと赤光が放たれ、それ──
人の頭ほどはある氷の塊を迎撃する。
だが、炎の属性を帯びていたらしいその光によって砕かれたその塊は、その事によって逆に鋭い破片となって狼を襲った。
太陽の光に反射して、それは煌く雨となる。
ザシュッ、と空を裂く音が響き渡った。
「イザを苛めたからには、それなりの覚悟は当然してるわよねえ?」
異形の整った顔がにたりと笑む。それはなまじ外見が整っているだけに凄みがあった。
「あの世で後悔しなっ! この逆恨み野郎っ!!」
口汚く言い放ち、次々に氷の礫を放つ。狼は防戦一方のようにひたすら避けているばかりだ。
時折、鋭い氷の欠片がその身体を掠めるが、流石というべきか深手には至っていないようだった。
そんな妖精達の戦いを横で見ながら、ファイザードは内心頭を抱えていた。
(あああ…ひょっとして僕は早まってしまったんじゃ……)
確かにあれから地上に放り出され、キサとフェラックと引き離されてしまった以上、ファイザードに残された道はこれしかなかったのだが……。
「ほらほらっ! 次行くよっ!!」
次に繰り出されたのは鞭状の水。それはアラパスの手から恐るべき速さで伸びると、狼の右前足を絡め取った。
『…チッ!』
鋭い舌打ちと同時に、狼は風の力でその鞭を切断し、さらに炎の力で応酬する。
しかし、水が蒸発してしまう前に、新たな水の鞭が今度は狼の首を捕らえていた。
『ぐ…っ』
「ほら、どうしたの? これで終わりじゃないわよねえ?」
アラパスはくすくすと笑いを漏らす。
そんな彼女の鬼神もかくやという戦いにぶりに、ファイザードは自分の想像が正しかった事を確信していた。
早まった。
アラパスは自分が絡むと、普段以上に過激で攻撃的になってしまうのだ。
確かに戦い自体は有利になっていると言えるだろう。だが、その分リスクはある。
「わたしのイザに手を出すなんて、百年早いわっ!!」
怒りのこもった言葉。それが終わらない内にもう片方の手が動く。
また鞭かと思いきや、今度はそれは狼の寸前でぱっと広がり網状になる。
『クソ…ッ!』
慌てて狼が身を捩ってそれを回避しようとするが、首を捕らえた鞭が自由を許さない。そのまま網に絡め取られてしまった。
「ふふふっ。つーかまーえたー♪」
歌うように呟き、アラパスはにいっと唇を持ち上げる。その様は、まるでこっちが悪役のようだった。
── ここまで行ってしまうと、もう誰もアラパスを止められない。ファイザードですら声をかけるのを躊躇する有様だ。
以前、まだファイザードが今の旅を始める前に、ファイザードを見下した人物をほとんど半殺しにした事すらあった。
ファイザードにしてみれば、些細で当たり前の扱いだったのだが、アラパスには許せなかったらしい。
── もっとも、それが結果としてファイザードの立場を、より悪くするものだと理解してからはおとなしいものだったのだが……。
時々、不思議に思う。
どうして彼等は、そんなに自分を守ろうとするのだろう、と。
どうして自分を好きだなんて言ってくれるのだろう、と。
…自分は彼等に、何も返せはしないのに……。
「簡単には殺してやらないからね。人が黙っていれば、いい気になって勝手な事ばかり言って!!」
その瞬間、水の鞭は消え、代わりに槍が現れる。
透き通った外見。そこにはまるで鋭さのようなものはない。だが、水も圧力が加われば、岩石すらも切断可能なのだ。
水を操るアラパスにはその槍の強度も自在に変えられる。
『…水の小娘。貴様は妖精でありながら人の下につくのか』
網の下、苦々しげに狼が唸る。
『何故だ? 何故、そんな無力で愚かな者に……』
「うっるさいわねっ! イザをばかにしないでよ!! …何も知らないくせに」
半眼になり、アラパスは噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「イザの本当の力も、…苦しみも、悲しみも…何も知らないあんたには、そんな事言う権利はないわ」
『お前こそ、その小僧が何をしたのか知ってるのか…!?』
狼も負けずと声を張り上げる。
その言葉を聞いた瞬間。ファイザードの脳裏に記憶の断片が甦る。
伸ばされた、手。
── 闇の向こうで微笑む、白い面……。
(嫌、だ)
一気に血の気が引いた。狼もアラパスでさえも、その存在が遠くなる。
思い出してはいけない。『それ』は思い出してはならない事。少なくとも、今は──。
心の何処かがそんな事を訴える。そんなファイザードの変化に気付く事無く、狼は言い募る。
『そいつは、あの女を……!!』
「黙れっ!!」
狼の言葉を封じるようにアラパスが語気荒く叫び、手にした槍を放った。
ザンッ!!
先程の氷の破片とは比べ物にならない鈍い音と共に、それは狼の肩辺りに突き刺さる。
その音でファイザードは我に返り、思わず制止の声をかけていた。
「…アラパス……!!」
切羽詰ったその声に、アラパスが驚いたように彼の方を見る。そこにファイザードは訴えかけた。
「殺す必要はない。それ以上は……!」
「どうして、イザ!?」
信じられないといった顔で、アラパスが反論する。
「こいつはイザを殺そうとしたのよ!?」
アラパスにして見れば、それだけで許しがたい行為なのだ。だが、だからと言って見過ごす訳にはいかない。何故なら──。
「必要ない。…それだって、そいつのせいじゃないだろう?」
思い出してはならない。
心が警告を発している。でも、忘れる事なんて出来るはずがなかった。
苦しげな言葉に、アラパスが大きく目を見開く。ファイザードが何を言っているのかわかった為だ。
「イザ……」
「そいつも、被害者だ……」
苦い苦い言葉。言葉にするだけで胸の奥が痛む。
苦しげなファイザードの目に、アラパスは直視出来ずに顔を背ける。
「…イザは悪くないのに……」
微かに漏らされた言葉はファイザードには届かなかった。二人の間にぎこちない間が生じる。
…だが、その沈黙は唐突に破られた。
『何だ、仲間割れか?』
狼が心底愉快そうに笑う。その肩にはまだ槍が刺さったままだと言うのに、平然としたものだった。
『よもや、小僧が儂を庇うとはな。しかし……』
笑いを収め、狼は不意に先程以上の赤光を放った。それは瞬時にアラパスの水の網と槍を蒸発させてしまう。
「!?」
予想外の事態に、アラパスが身構える。だが、驚きを隠す事は出来なかった。
狼はそんなアラパスと、何処か心ここにあらずといった様子のファイザードに向かって告げる。
『儂は忘れんぞ。お前がした事を。お前の罪を』
狼の全身を、炎に似た赤い光が包み込む。さながらその怒りが形として顕れたかのように。
その、口が重々しく言葉を紡ぐ。決定的な一言を。
『小僧。お前はあの時、あの女を…自分の母親を殺した。その罪を…その身で贖え!!』