の丘

- 7 -

 カシャン……!!

 鋭く硬質な音をたてて、それはその形を失った。
「キュラ……?」
 その物音を聞きつけて、怪訝そうにサアラが奥の部屋から顔を出す。その声で我に返り、キュラはようやく何が起こったのかを理解した。
「…あら、嫌だわ。この器、気に入っていたのに……」
 足元に転がる元・器を眺めつつ、キュラはため息をつく。そんなキュラにサアラは呆れたような視線を送った。
「キュラ…何か考え事をしていたでしょう」
「あら、どうしてそう思うの?」
 断定的なサアラの物言いに、キュラは興味深そうに尋ねる。対するサアラは軽く肩を竦めて、キュラの疑問に答えた。
「あなたは昔から…いつもという訳ではないけれど、何か心に引っかかっている時は他の事が疎かになる。まさか自覚がないとは言わせませんよ」
「……」
 サアラの誤魔化しようのない言葉に、キュラは苦笑を浮かべるしかなかった。否定は流石に出来ない。
 そのまま黙って、見事に真っ二つになった器の破片を拾おうと手を伸ばすと、それを見たサアラが再び口を開く。
「キュラ。危ないですから触らないで下さい。私が片付けますから」
「大丈夫よ。子供じゃないんだから」
「…そんな事を言って、この間見事に『ざっくり』と指を切ったのは誰でしたっけ」
 ざっくり、の部分を思い切り強調され、キュラは伸ばしかけた手を引っ込めざるを得なかった。
 それを確認して、サアラが破片を手馴れた様子で拾い始める。やり場のない手を弄ばせながら、キュラは困ったように笑った。
「全く…私はそんなに信用がないのかしら。…サアラといい、『彼』といい…」
 拗ねたように漏らした言葉の後半は、サアラの耳には届かない小さなものだった。
 言葉の前半だけを耳にしたサアラが手を休めて、ちらりとキュラに視線を送り、呆れ果てたように言う。
「普段ならともかく、こと家事に関する事であれだけいろいろやっておいて、それはないでしょう」
 心当たりがありすぎるキュラは、今度こそ沈黙するしかなかった。

+ + +

 サアラが破片を片付けて部屋を出てしまうと、キュラはぽつりと呟きを漏らした。
「いろいろ、ね……」
 サアラは純粋に家事一般の失敗を言ったのだろうが、キュラには別の事を思い出させていた。
 自分がサアラを含む周囲に対して、沈黙を守っている数々の秘密を。
『オレはあんたの事を知ってるよ』
 昨夜言葉を交わした、鳥精の言葉が耳に甦る。
『あんたが何者で…どんな存在であるのか── オレは知ってる』
 キュラは微苦笑を浮かべて、昨夜のやり取りに思いを馳せた。
 『誰』が『彼』に『何をした』のか。
 『彼』── ファイザードを目にした時から感じていた疑問と、実際に言葉を交わして読み取った事から導き出されたのはそんな謎だった。
 一見普通の人間なのに、何かが違う。
 そう── 不自然で不透明な部分がありすぎるのだ。
 それで行くとキュラは人の事を言えない立場だったが、何より自分が命よりも大切に思っているキサに関わる人物の事だ。
 はっきりさせずにはいられなかった。
 その謎をぶつけられた鳥精は、しばらく沈黙し── やがて唐突に話し始めた。
『イザって、見かけによらずすごいだろ?』
 その口調はほんの先程までのものとは雲泥の差だ。穏やかな…くだけたものだった。
『本当に、とんでもなくさ』
 自慢げに── いや、あれは本当に自慢していたのだろう── フェラックはそう言い、その姿を人型に転じた。
 いきなり臨戦体勢を解いた彼に驚きながら、キュラは彼に同意した。
「ええ、本当にね。あなたは気付いているのでしょうけど、私は霊格を読めるの。…まあ、彼の名前を聞いた時点で職業は知れたけれど」
「名前負けしてるからか?」
 口元に愉快そうな笑みを浮かべて、フェラックが茶化すようにそんな事を言う。
「まさか」
 つられたように笑みを漏らして、キュラは言葉を続けた。
「私をばかにしないで頂戴。私はあなたと同じ位…いいえ、多分それ以上生きているのよ? …僧侶の名が特殊な事くらい知っているわ。名前自体が強力な守護になっている事くらいはね」
「そいつは失礼した」
 悪びれた様子もなく、フェラックは肩を竦めた。
「噂を信じるなら、あんたはオレよりずっと年上だな」
「…まあ、許してあげるわ。ご主人思いの妖精さんに免じて、ね。── そんなに彼が大切?」
 キュラがからかうように言うと、しかしフェラックは至極真面目な表情になり、はっきりと頷いた。朱金の瞳が真摯な光を宿す。
「オレにとってイザは命と…心の恩人で── オレの命そのものだ。…だから、あんたにどんな事があっても本性を出されたくない」
「……」
「霊格を読めるあんたにならわかるだろ。今夜、わざわざここへ来たのもその為だ。何しろ…イザの命に関わるからな」
 静かな口調。
 だが、そこには張り詰めたような真剣さがある。
「── その割には憎まれ口を叩くこと。まあ、安心なさい。私は彼に危害を加えるつもりはこれっぽっちもないのよ」
「それを簡単に鵜呑みにしていいのか?」
「…疑り深いわねえ」
 キュラは呆れ果ててため息をついた。
「いいかしら? 私が彼に危害を加えようと思ったら、あなた達の自由が利かず、彼自身意識を失っていた三日間にやっているわ。たとえ目覚めた後だとしても、私が本気を出せば、封呪をしてランクを下げている彼なんて、まったく相手にもならないわ。…それくらい、あなたもわかっているんでしょう?」
「……」
「…誓ってもいいわ。彼には手を出さないし、本性に戻る事もしないわ。…── キサが、初めて興味を持った人間だもの。殺すなんて……」
 言いながら目を伏せたキュラの顔には、自嘲的な微笑が浮んだ。
 それを興味深げに見たフェラックはなるほど、と呟きを漏らした。
「キサって、あの無表情な娘だろう? …あんた達が変わり者ぞろいとは風の噂で聞いちゃいたけど、もしかして……」
「そうよ。あなたの想像通り。キサは私にとって、私の命そのもの」
 そう言ってから、キュラは小さく笑いを漏らした。
「あなたはばかにするかしら。私達が自分以外の存在を、自分以上に愛するなんて」
「…いや」
「そう? …ねえ、知っているかしら。誰かを── 誰か一人だけを深く愛する事って、決して聖なるものじゃないのよ。恐ろしい魔力を秘める、闇のものなの」
 キュラの瞳に昏い光が宿る。琥珀の瞳が、その瞬間、金色に輝いた。
 耳元で甦る、冷たい言葉。

 ── オマエハ、ジブンガシアワセニナレルト、ホンキデオモッテイルノカ?
 ── ケガラワシイミデ、オモイアガリモハナハダシイ!
 ── オマエハ、イタンダ。
 ── アノオトコモ、オマエノホントウノスガタヲシレバ、キットオソレテニゲダスダロウヨ……!

「…だから、かの至高の存在は恋をしない。それは罪だから。天命と異なる相手を愛した時、彼等は自らを否定するか、周囲を否定する事しか出来ないから。…愚かだとは思わない? それで過去に大きな間違いを犯してしまったと言うのに」
 何処か遠くを見つめる目で、キュラはフェラックに尋ねる。
 ずっと、誰かに聞きたくて── でも尋ねる事が出来なかった事を。
「ああ、愚かだと思うよ」
 フェラックも、何処か違うものを見つめる瞳でキュラに答えた。
「でも…それだけ恐ろしいものがあるんだろうさ。オレは知っているからな。自分以上に他人を愛して、化け物になってしまった人間の事を」

 それが、キュラの疑問に対する全ての回答だった──。

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