誰か、たった一人を深く愛しすぎること。
それは諸刃の剣。それは限りなく光に近い、闇のもの──。
「…あ、あなたは、…人、なの……?」
「そういう君こそ…本当に人間なのか?」
緑深き樹海の中、彼等は出会った。
数多くの妖精が息づく、魔族すらも立ち入る事のないと言われる《禁足の森》と呼ばれる場所で。
人の器には過ぎた力を持ってしまった青年と少女は、まるでそうなる事が決まっていたかのように惹かれ合い──
そして、運命の歯車は一つの結末に向かって動き始める。
それは『彼』の死。
それは『彼女』の絶望。
取替えの効かない相手を喪い、想いは行き場を失い迷走する。
…全てを巻き込んで。
+ + +
密生した繁みを掻き分けながら黙々と進む青年を発見し、彼女は口元に微笑を浮べた。
胸に沸き起こるのは、深い安堵感と幸福感。それはついこの間まで知らなかったものだ。彼と出会って、初めて得たもの。
そう── もう自分は、孤独を孤独だと知らなかった自分ではないのだ。
青年は彼女に気付かず、さらに奥へと進もうとする。
南方に広がる大樹海。
緑濃きその場は、普通の人間ならば進む事すら躊躇(ちゅうちょ)する場所。けれども彼の歩みには全く迷いは見られなかった。
彼女の目には、青年の纏う光のようなものが見えた。それは彼の持つ力の大きさを示してもいたし、また彼が彼女と『同類』である事も示していた。
もっとも、彼と彼女の持つ力は根本からして違うもの。方向性が全く異なる。
彼女が持つ力は他者に及ぼす類のもの。彼女の知識ではそこまでは知らなかったが、広義で言う魔術師に属するものだ。
彼の力は世界そのものに働きかけるようなもの。広義で言う僧侶に属するものだった。
しかし、力の属性自体は正反対でも、彼等が同類なのは確かな事。彼女は純粋にその事を嬉しく思っていた。
青年に声をかけようとして、彼女はふと思いつく。しばらくして彼女はくすっと笑いを漏らすと、早速思いついた事を実行に移した。
「お帰りなさい! あ・な・た♪」
声をかけると同時に、背後から抱きついてやる。
青年はぎょっとしたように立ち竦み──
やがてゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。
そのいかにも面食らった顔で、彼女は自分の目論見が成功した事を知り、とびきりの笑顔を彼に見せる。
「ふふっ。驚いた?」
身を離して尋ねると、彼は呆れたような苦笑混じりの顔で口を開いた。
「…一体、そんな事何処で覚えたんだ?」
落ち着いたよく通る声は全く変わっていなかった。ほんの二日ほどだったと言うのに、何年も離れていたような錯覚をする。
「本で読んだの。樹精達が村で買ってきてくれるのよ」
ふわふわと優しい気持ちになりながら、彼女は青年を見上げる。
彼は彼女よりもずっと長身で、目を合わせようと思うと、自然に見上げる形になってしまうのだ。
彼は彼女の目を真っ直ぐに受け止めて、穏やかな微笑を浮かべてくれる。それだけで、彼女の胸は高鳴ってしまう。
初めて出会った時から、彼女は彼の笑顔が好きだった。
優しい顔立ちを元々しているとはいえ、彼が微笑むとほっとする。周囲の空気すら和むようにも思えるくらいに。
柔らかい薄茶の髪と、若草色の瞳。均整の取れた肢体は程よく鍛えられ、頼りがいを感じさせる。
手を伸ばして触れる事が出来るのが、単純に嬉しい。
(…もしも)
ふと、一つの仮定が過(よ)ぎる。
(もし、この人がいなくなってしまったら、わたしはどうなってしまうだろう)
あまりにも突拍子もないその考えに、彼女は思わず苦笑を浮かべた。そんな彼女を、彼は怪訝そうに見ている。
「どうした?」
「…ううん。何でもない。…ウッド」
「?」
「ずっと…わたしの側にいてね」
唐突な言葉。彼は驚いたように目を丸くする。
けれどそれは本当に心からの、願い。彼女のたった一つの願いだった。
それが伝わったのか、彼はすぐに例の優しい微笑を浮かべて静かに告げた。
「約束する、シリイ」
そしてその腕が、彼女をそっと抱き寄せる。包み込まれて、彼女もまたその広い背に腕を回して抱き返す。
今までずっと知らなかった、いくつもの感情。
今感じている泣きたい程に切ない気持ちもその一つだった。
幸せだけど── 幸せなのに。どうして、こんなに怖いと思うのだろう──?
「…この命が果てるその時まで、側にいるよ。──
結婚しよう」
「けっこん……?」
耳慣れない言葉。でも、その言葉自体は知識としては知っていた。…それが何を意味するのかを理解するのに、少しだけ時間がかかったけれど。
つまり、それは── 自分が彼の『特別』になれるという事。
彼女の目が大きく見開かれる。
「…ウッド……」
目を上げると、限りない優しさを秘めた瞳が、普段よりも幾分真剣さを増して自分を映している。
「シリイ…嫌か?」
彼が名前を呼ぶ。
その名前も…彼がつけてくれたもの。ただ呼ばれただけなのにこんなに嬉しいのは、きっと自分にとって彼が『特別』だから。
名前を呼んでくれた、それだけだと言うのに、何故か涙が溢れた。その、瞬間に知る。
涙は…決して痛い時や悲しい時でなくても出るものなのだ。幸福であっても涙が出る。その事が何故か嬉しかった。
「カリオウッド……」
ぎゅっと抱きしめる腕に力をこめながら、彼の名を呼ぶ。不思議な事に、こういう時に何を言えばいいのか彼女は知っていた。
「わたし…あなたの事が好きよ。誰よりも、何よりも……。愛しているわ」
そして、彼女はその時世界中で誰よりも綺麗に微笑んだ……。
+ + +
── 彼女は一人、闇の中に立ち尽くしていた。
(…?)
首を傾げる。何故、自分がこんな所にいるのかわからなかったのだ。
しとしとと降り注ぐ冷たい雨が、静かに彼女の体を濡らす。
どの位の時間そうしていたのか、彼女は全身ずぶ濡れと言って過言ではない有様だった。
指先は熱を奪われて白くなり、感覚すらも鈍くなりつつある。顔に張り付く髪が不快だった。
(…寒い)
彼女はそっと、自分の身体を抱き締めた。けれど、少しも寒さは和らがない。
(ああ…そうか)
唐突に気付く。この凍えるような寒さは、雨の為だけではない。自分の心の中からのものなのだと。
冷たく凍りついた心が、寒さを訴える。寒さ──
いや、寒さに似た痛みを。
けれど、彼女にはわからない。何故そんなに胸が痛むのか。
(…あの人は、何処?)
視線を周囲に漂わせる。
今や彼女には『あの人』が誰であったのかもわからなくなっている。それでも、『あの人』だけがその痛みを癒せるのだという事だけは無意識の内に理解していた。
(何処に、いるの?)
狂おしい気持ち。今まで押しとどめられていたように、感情が迸る。
会いたい。
会いたい・会いたい・会いたい──!!!
その、瞬間。何かの弾みのように、脳裏に一つの映像が駆け抜けた。
── 視界一面に広がる真紅。そして……。
(…何?)
彼女は眉を顰めた。全く覚えのない場面だった。
どうして自分の中にそんなものがあるのかわからない──。
(どうして?)
しばらく考え込んでみる。そうして──
やがて彼女の顔に奇妙な笑みが浮んだ。
底知れない虚無を内包した、微苦笑。
くすり、と彼女の血の気を失った唇から笑みが零れ落ちる。そして、そんな訳がないわ、と小さく呟く。
「…ばかばかしい。きっと、夢でも見たんだわ。そうに、決まってる」
自分に言い聞かせるように、彼女は言葉を紡ぐ。
「あの人が死んだなんて…嘘よ。だって、わたし、捜しているんだもの」
くすくすと笑いながら、彼女はうっとりと目を細めた。
「そうだわ。わたし、あの人を捜していたんだった。捜さなきゃ、ならないのよ。…でも、その前に邪魔者を消さなきゃ」
その瞳に宿ったのは、狂気の輝き。
「もう二度と── あの人を何からにも奪われないようにね……」
自ら紡ぐ言葉の矛盾に気付かず、彼女は幸せそうに笑う。
「待ってて、あなた……。すぐだから」
ゆっくりとした足取りで、彼女は歩き始める。その背後で、次々に異形の存在が形を成しその後に従う。
その日から。
世界は未だ嘗てなかった混乱に襲われる事となる。たった一人の──
女の手によって……。