の丘

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 きっと── 誰も誰かを不幸にするつもりはなかったのだろう、と思う。…いや、思ってきた。
 キュラの事、そして幼い時に自分を残して死んでしまった父親と、記憶すら残っていない母親の事を想う時、結局そんな結論に達した。
『たとえあなたに憎まれようとも、私はあなたを絶対に死なせる訳にはいかなかった』
 『その時』、キュラはそう言って泣きそうな顔で微笑んだのだ。
 彼女は自らの姿を偽らず、有りのままの姿だった。
 その理由は今でもわからない。ひょっとしたら、その理由すらも自分は知っていたのかも知れないけれど。
 ── 己の感情とそれより以前の記憶を失った日。
 その時から、キサはキュラの娘になった。そう── 正しい意味で人間ではなくなってしまったのだ。
 今も時々思い返す。もし、自分がその時死んでいたら…キュラはずっと独りきりだったのだろうか、と。

+ + +

『イザ達はそんなに離れた場所にはいないようだな』
 フェラックが考え込むように言いながら、その翼を羽ばたかせた。
「…その根拠は」
 風精の力を使って地上に降りつつ、キサが問う。すると、鳥精は少し考えた後に答えを返した。
『先刻、顕精珠が発動したのを感じた。イザがアラパスの奴を出したんだろう。伝わってきた感じからして遠くはなかった。…ここからちょっと東よりだな』
 どうやら狼の風の力で、キサ達だけが西に流されたらしい。
「…風精に探らせるか?」
『いや、そいつは危険だ。向こうには邪風精がいる。…今のキサじゃ無理だ。支配力に差があり過ぎる』
 きっぱりとした言い様に、キサは少し驚いた。
 実際に戦ってみて、確かに狼の強さは身にしみてわかったが、それをフェラックが推測だけでなく事実として認識しているのは意外だった。
「…随分はっきり言うんだな。…もしかして…フェラックは奴を知っているのか」
 ふと思いついてのその言葉は、キサの予測を超えて正鵠を射ていたらしい。
 フェラックは口を噤(つぐ)み── やがてキサが答えを待っているのに気付くと、重い口調で認めた。
『一応、な。正確に言わせて貰えば、昔の奴を知っていると言うべきだろうが』
「…でも、向こうはフェラックの事を知らないようだった」
『…知らないんじゃない。忘れているのさ』
 丁度そこでキサが地上に辿り着く。
 そこでフェラックはまるで当然のように人型に姿を転じ、その整った顔に微苦笑を浮かべた。
「何しろ今の奴は……」
 言いながら、指で自分のこめかみを示す。
「『ここ』がイカレているからな」
 その一言を口にする時だけ、その瞳から笑みが消えた。
 そしてその口調もまるで吐いて捨てんばかりだった。そのまま、思わずと言った調子でフェラックは言葉を漏らす。
「…オレも、他人の事は言えないけどな……」
「…フェラック……?」
 どういう意味かと、視線で問う。あまりにもその様子は意外だった。
 しかし、フェラックはそれ以上は言及せずに、まじまじとキサの顔を見たかと思うと、にやりと口元に普段通りの笑みを浮かべる。そして何だか妙に楽しげに言い放った。
「なるほどな。流石はイザだ」
「?」
 唐突な話の飛びについていけない。いくら表情に出ないからと言っても、困惑くらいする。
 そんなキサに構わず、フェラックは腕組みをしてうんうん、と勝手に自己満足して頷いている。
「うまい事を言うよなあ。『感情の出し方がわからないだけ』、か」
 そう言われて、ようやく自分の事を言われているのだと気付き、キサは呆気に取られた。
 あの時のファイザードとの会話を、彼は何処かで聞いていたのだろうか。
「…何が言いたい」
 やはり無表情の上に無感情な声だったが、対するフェラックは笑顔のまま、ぴっとキサを指で指す。
「キサの感情は確かに生きてる。多分、キサは自分が思っている以上に感情豊かだよ」
「…そうだろうか」
 とてもではないが、信じ難い。
 だが、フェラックは自信満々の様子だ。
「そうだよ。今、顔を半分隠しているから余計にわかりにくいけどな」
 そう言われて、キサはほんの僅かに目を見開いた。
 思わず無意識の内に、風精を召喚した時に覆い隠した右目に手を伸ばす。
「隠さない方がいいぞ?」
 気軽な調子でフェラックは言ってくれる。
「何故…そんな事を……」
「先刻も言っただろ?」
 にやりと笑って、フェラックが片眉をおどけるように持ち上げた。
「それじゃ、本来の力も半減するって。折角ランクAなのにもったいない……」
「何も知らないから、そんな事を言う」
 凍てついた言葉で、キサはフェラックの言葉を遮った。
「わたしの事を、知らないのに……」
 今まで、どんなにこの右目を疎んじてきたか、知らないから。
「そうだな」
 思いのほかあっさりと、フェラックは頷いた。
「確かにキサとは昨日知り合ったばかりだ。何も知らない。…でもな」
 意味ありげにそこで言葉を切り、フェラックはキサを笑いかける。
「でも?」
 気になって反芻すると、フェラックは我が意を得たりとばかりに口を開く。
「オレはキサの母親についてはそれなりに知っているからな。…何があったのか、それなりに想像は出来るぞ?」
「母親…キュラの事か」
 キサの確認に、フェラックはおや、という表情になる。それに構わず、キサは告げる。
「わたしとキュラは…本当の親子じゃない。血の繋がりはないんだ」
 だから関係がない、そう言外に告げる。
 しかし、フェラックは何故か考え込むような表情で中空を睨み── やがて、なるほどね、と呟くと小さく肩を竦めた。
「親の心、子知らずって、こういう事かあ……」
「……?」
 どういう意味かと尋ねようとして、それより先にフェラックが口を開いた。
「オレはキサの母親…キュラと約束したんだ」
「…どういう事だ」
「奴が本性を出したり、もしくは直接イザに手を下そうとしない代わりに、キサを守るってな」
「わたしを、守る?」
 何故そんな約束を── そう尋ねる前に、また先に答えが返ってくる。
「…オレはこうなる事を予測していた。あのイカレ野郎がイザを跳ばす事で満足するとは、とてもじゃないが思えなかったからな。…キサが巻き込まれるのは、ほとんど確定的だった」
「それでキュラと……」
「ああ。オレ達だけの力じゃ、西に戻るのに一体どれだけ時間がかかるかわからないからな。キサの助力はぜひとも必要だった。…イザはお人よしだから、キサから言い出さなきゃ自力でどうにかしようとしたんだろうけどな。だから交換条件を出した」
「…そんな事しなくても、言えば力は貸したぞ。…ひょっとして、南の聖遺跡を選ばなかったのも、何か事情があったのか」
 巡礼ならば、どの聖遺跡から始めても良かったはず。
 だが、ファイザードが選んだのは東から正反対の地、西の聖遺跡・オートフリート。距離的に言えば南の聖遺跡・トレモスの方が近い。
 疑問に思ったが、取り立てて聞く事はないと思って尋ねなかったのだ。
「…ああ、南だったら自力でも行ける距離だしな。ご明察だよ。南は…最終目的地なんだ。イザにとって」
 何かを思い出したのか、フェラックの笑みが自嘲めいたものを漂わせる。
「だからって北の聖遺跡はもっと遠いからな。だから西って言ったんだよ」
「そうだったのか。…だが、どうしてわたしの助力の代償が…キュラが本性を出さない事やイザに手を下さない事になるんだ。…キュラはそんな事……」
「しない、と言うのか?」
 否定するような言葉なのに、何故かフェラックの声は優しかった。
「……」
「確かに、キサはキュラを信用できるだろう。でも、オレにはキュラは昔のイメージしかなかったんだ。気が気じゃなかったさ。何しろ…もし、何かの気紛れで本性を出されたら…場合によってはイザは簡単に死んじまうんだ」
「…そんな……」
 思わず反論しかけてしまう。
 しかし、キサは知っている。キュラの本性と言うものを。脳裏に焼きついたあの姿。怖いくらいに── 綺麗で。
「嘘じゃないさ。…イザは訳あってランクを下げているけどな。本来は高位僧で、霊格が常人よりも高い。霊格って奴は厄介で、上げる事は出来ても下げる事は出来ないときてる。…霊格ってわかるか?」
「…周囲の魔法力に対する感応度の事じゃないのか」
 昔、当のキュラに教わった事を思い返しながら答える。
「なるほど? 確かにそれは間違っちゃいないが……」
 意味ありげにフェラックが苦笑する。
「霊格が高いと、魔法力以外にも強く影響を受けるんだよ」
「…はっきり言えばいい」
 フェラックの言わんとする事に気付き、キサはフェラックを睨み据えた。
「キュラの持つ『魔気』が、イザを冒すとはっきり言えばいい。言っただろう。わたしとキュラには何の関わりも……」
「関係なら、あるだろう?」
 何故か諭すように、フェラックがキサの言葉を遮る。
(…わたしは……)
 自分の言葉で、キサは愕然となる。
(どうして…わたしはキュラの事でこんなにむきになっているんだ……?)
「キサの右眼──」
 フェラックの言葉で、キサは我に返った。
「《妖魔の眼》は、キュラが施したものじゃないのか?」

『ワタシハ、アナタヲシナセルワケニハ──』

 不意にその時の淋しげなキュラの笑顔が甦った。黙り込むキサに、フェラックはさらに言葉を重ねる。
「人間に魔族の力を与える高度な呪術だと聞いている。余程の魔力がないと不可能だともな」
(…キュラは、わたしの命を救う為に魔族の力をわたしに与えた)
「オレにはどうしてキュラがそんな事をしたのか理解し難い。…オレが知っている限りじゃ、絶対にそこまではしなかったと思うからな」
(わたしには、わかる)
 何故キュラが、自分の力を削ってまでして、自分を救おうとしたのか。その理由を知っている。
「…多分、それだけキサの事を想っているんだよ」
 だから、隠すべきではないとフェラックは言いたいのだろう。
 確かに右目を隠す為に小精霊への支配力が偏っているのは事実だ。
 風精を常に側に置けば、それだけ対属性の地精の召喚は難しくなる。他の水精や炎精、それぞれに属する従精にも影響は出てしまう。
 もし、キュラが本当に自分の事を想ってやったのなら。これほどに頑なに隠そうとは思わなかったと思う。たとえそれが── 人外の証となろうとも。
(でも…違う。キュラは……)

『私は…あなたのお父さんが好きだったの』

 遠い目で、キュラは告白した。あの恐ろしくも美しい姿で。
(キュラは…わたしが大切だから救おうとした訳じゃない。父様の事が好きだったから…父様に頼まれたから、わたしを助けただけなんだ)
 そして自分の娘として育ててくれた。感謝はいくらしても足りないと思う。
 だから…きっとそれ以上を求めてしまうのは、贅沢なのだ。
「キサはキュラの事が嫌いなのか?」
 耳を打つ声は優しい。
「オレには嫌いじゃないから…それを認めたくないから、わざと隠しているように見えるが?」
 フェラックの言葉は図星だった。思わず、キサはまじまじと彼の顔を見つめてしまう。
「図星か」
 ふふん、とフェラックは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「ま、すぐに素直になれとは言わないさ。でもな、たとえキュラのように尋常じゃない力の持ち主でも、いつまで生きているのかわからないんだ。手遅れになる前に、言いたい事は言っておけよ」
 説教じみた事を言い放つ。その人ならぬ目は、妙に何か深いものを感じさせる。
(フェラック……?)
 キサが奇妙に思って問い質そうとするのをかわすように、フェラックはさて、と軽い口調で話題を変えた。
「じゃ、そろそろイザを助けに行くか。きっと今頃、アラパスの奴泣いているだろうしなー」
 結局キサは、その事について尋ねる事は出来なかった。

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