の丘

- 11 -

(…こいつ、強い……)
 霞み始めた目を凝らしつつ、アラパスはそんな事を思った。
 思うが絶対に口にはしない。弱音を吐いたその瞬間が、完全な敗北を意味すると思えたからだ。
 どうしても負ける訳にはいかない理由がある。だから、言わない。
(…イザを…守らなくちゃ。あのアホ鳥に…ばかにされるし……)
 肉体的、精神的な疲労の為に思考も何処となくぼんやりとしたものになりつつあった。
 限界はもうすぐそこにまで見えている。けれどアラパスは、必死にそれから目を背けた。
 まだ── やれる。そう、自分に言い聞かせて。
 縋るように、傍らに座り込む少年に目を向けると、ファイザードは未だ自失状態から抜け出す気配もない。
 狼が発した言葉は、まだ癒えきっていなかった彼の心理的外傷を深く抉(えぐ)っていた。
 空虚な表情。何も見ていない瞳。…見ているだけで胸が痛む。
 もう二度と彼のこんな姿は見たくはなかったのに。
 こんな時に思い知らされてしまう。彼が抱え込んだ傷の深さを。そして自分の、無力さを……。
(イザ……)
 やっと…やっと笑顔が戻ってくれたと思っていたのに。
 やっと、ふざけ合ったり、喧嘩しながらも笑って日々を過ごせるのだと思ったのに。
(どうして…どうして、イザを追い詰めるの?)
 何故、と考え出しても切りがない。何が悪いのだと、明確な答えがある訳でもないのだ。
 けれど、そうだとわかっていても、考えずにはいられない。
 その全ての原因がファイザードにある訳ではないと思うから。だから、別の原因を探さずにはいられない。
(イザは…悪くない)
 もし、彼に原因があるのだとしたら…彼がこの世に生まれてきた意味がなくなってしまう。そうなったら、自分達が出会った意味が、根底から否定されてしまう。
 ── それだけは許せない。
 必要だよ、とはにかむような笑顔と一緒に差し伸べられた手。それはほんの少し昔の出来事。
 確かにその時、自分は救われたのだから。
 …ずっと、独り、心を閉ざしていた。
 一度自分を否定されただけで、周囲へ関与する事に臆病になっていた自分。もう、決して誰かを―─ 人間を好きになるものかと思っていた。
 でも―─ ファイザードはそんな自分を必要としてくれ、守護精にしてくれた。自分に妖精としての誇りを与えてくれたのだ。
(イザは…不必要な人間じゃない! 死ぬ為に生まれてきたんじゃない……!!)
 きっ、と上空にいる狼を睨み据える。
 もはやアラパスの張った守護結界はぼろぼろになりつつあった。けれど…負ける訳にはいかない。
 彼の── ファイザードの手を取った時、自分は己に誓ったのだから。
(この命に代えても…イザを守ってみせる)
 もう一度、誰かを好きになる為に。誰かに好きになって貰えるように。誰かの為になれるように。
 自分は再び外の世界へと出たのだ。
「…わたしは、この世で最高の妖精使い、ファイザードの守護精だもの」
 それが誇り。彼を守る事こそ、存在意義。
 狼が再び攻撃に転じる。
 襲い掛かる風の刃。結界が軋みを上げ、その形を失い始める。
「…あんたになんか、負けられないのよっ!!」
 アラパスは吼え、同時に結界を解除する。そのままファイザードを庇うように抱きしめながら、その腕を狼に向ける。
 遮(さえぎ)る壁がなくなり、風がその白い腕を容赦なく切り裂き、鮮血が散る。その痛みに耐え、アラパスは命じた。
「…来いっ!!」
『―─ っ!?』
 その刹那。なぎ払われたかのように、風が霧散した。
『…くっ……』
 凪いだ上空から、狼が漏らす苦痛の息が零(こぼ)れ落ちる。
 それを耳で確かめ、アラパスはその蒼白の顔に薄く笑みを浮かべた。
「…雨、よ。あんたの上にだけ降らせるなんて、簡単なんだから……」
 水は空気中にいくらでも存在する。水を操るアラパスにはどんな水も武器になるのだ。
 滴る水滴が何時か岩盤すらも貫くように、水にも攻撃性はある。勢いさえあれば、全てを洗い流し、切り裂き、命さえも簡単に奪い去れる。
 炎と比較されて、まるで穏やかなイメージばかりが強いが、実際には炎と同様、あるいはそれ以上の攻撃性を有するのだ。
 今、アラパスが狼に降らせた雨は非常に局地的でかつ、通常の何倍もの質量を凝集したもの。
 さながら無数の針に刺されたようなものだ。
 血塗れの腕を下ろして、アラパスはもう片腕でファイザードをぎゅっと抱き締める。
『…ふん……よく、言うものだ……』
 やがて降ってきた掠れた声に、先程までの勢いはない。
『だが、今のでお前は力を使い果たしただろう……? 残念だが…致命傷には至っておらん。儂の次の攻撃を、お前はどうやって防ぐ……』
「…どうにか、するわ」
 言い返しはしたものの、実際の所、狼の言葉は図星だった。
 今までの戦いと先程の攻撃で、アラパスの力は底を尽きかけている。
 逃げなければ、と思う。せめて── 腕の中にいるファイザードだけでも、安全な場所へ移動させたかった。
 狼の狙いはあくまでも彼だ。ファイザードを殺す為ならば、狼は自分の命など二の次にするだろう。
 そんな捨て身の攻撃に対抗するには、やはり捨て身の攻撃しかない。
 だが── どうしても考えてしまう。
 もし、自分が死んでしまったら…また、この心優しい主人は、心を痛めるのだろうか、と……。
 今のように、自分を責めて── いつかのように、どんな声にも応えてくれなくなってしまうのだろうか。
 三年、かかったのに。三年も── 彼は笑顔を忘れていたのに。
(そんなの、許せる訳がないわ!!)
 瞳に力をこめて、狼を睨む。
 だから自分は、敗北する訳にはいかない。こんな所で終わる訳にはいかないのだ。
『何処までも庇い続けるつもりか……。まあ、いい。ならば一緒に葬り去ってやるまでだ……!!』
 ごうっ、と沈黙していた風が再び集い、赤光が狼の身体を包み込む。
 そして狼がカッと赤光を放った瞬間、反射的にぎゅっと目を閉じ、アラパスは叫んでいた。
「…フェラック、あのアホ鳥っ!! 死んだら、末代まで祟るから〜っ!!!」
「── そいつは勘弁して貰いたいな」
 背後からそんな鬱陶しそうな声がしたかと思うと、彼らの寸前で赤光は不可視の力によって霧散する。
「何が悲しくて、ボケ魚なんぞに祟られなきゃならないんだ」
 何が起こったのか訳がわからぬままに、アラパスはその言葉を聞いた。呆然とするその目に、光の粒になった消えていく赤光の残骸が映る。
 やがてその全てが消え失せてから、ようやくアラパスは背後に顔を向け、そこにたった今名を呼んだ存在を見つけた。
「…フェラック?」
「おお、随分と痛めつけられたなあ」
「…っ!?」
 その余りにも呑気な口調にかっと頭に血が上った。
「な、何言ってんのよっ!! 少しは悪いとか思わないの!? こんなに遅くにのこのこ現れて…っ!!」
「はいはい。そう怒鳴るなよ。あまり興奮すると貧血で倒れるぞ? …まあ、ちゃんとイザを守り抜いた事は褒めてやるよ。攻撃しか能がないくせによくやった」
 まったく悪びれない様子でそんな事を言い放つ。
 怒りのあまり言葉が出ずに口をぱくぱくさせるアラパスを尻目に、フェラックはその腕の中のファイザードに目を向けた。
「イザ……」
 そっと声をかけるが、まったく反応しない。
 狼が彼の心の傷を抉ったのは目に見えて明らかで、フェラックの目に微かに怒りが宿る。
「…駄目よ。こうなったら…もう……」
 アラパスが悔しそうな顔で漏らし、抱き締める腕に力を込める。
 その顔をちらりと一瞥し、フェラックは表情を引き締めると、身を離して彼が現れた方へ声をかけた。
「…キサ。少しの間、奴を頼んでいいか?」
 その言葉に、え、といった様子でアラパスが顔を上げる。彼らの背後の木立ちから、静かにキサが姿を現した。
「…わかった」
 答えるキサを見て、アラパスが目を丸くする。
「右目……」
 キサの隠されていた右目は、今は露わになっていた。
 それは明らかに人のものとは言い難い。本来白い部分は血のように赤く、瞳の部分は金色に光っていた。
 針のように細く裂けた瞳孔が、異様さを際立たせている。
『…《妖魔の眼》、か……』
 狼もそれを認めてぼそりと呟く。
 アラパスの最後の一撃は致命傷には至らずともかなりの深手を与えたのだろう。その口調はすっかり勢いというものがなくなっている。
 だが、その纏う力はまだまだ弱まってはいなかった。
「先刻のようにはいかない」
 完璧に凍りついた顔が、真っ直ぐに上空に位置する狼に向けられる。
『口では…何とでも言える』
 狼を中心に、風が渦を巻く。瞬く間に、それは強大な竜巻に姿を変えた。
『全員まとめて、あの世に行くがいい!!』
 狼の咆哮を受けて、風の竜が唸りを上げる。
 刺すような殺気を発散させ、その風を作り出す邪風精が歓喜の声を上げるのを、キサの耳は捉えた。
 狼と混在しながらも、その力はまったく失われていない。
(確かに、強力な風……)
 まともに巻き込まれたら、おそらくただでは済まないだろう。
 四肢を引き裂かれるか、それとも首をもがれるか。しかし、対するキサに恐怖はない。
(でも、だからこそ…弱点はある……!)
 静かに片手を持ち上げる。その掌を誘うように竜巻に向けた。それで、十分。
「この場を任された以上、全力で行く」
『ほう……?』
 狼が好戦的な笑みを零した。赤い舌が舌なめずりする。
『では手合わせと行くか? …喰らえっ!!』
 竜巻が一気に肥大し、彼らに牙を剥く。── だが。
『…!?』
「おいで」
 キサが一言呟くと、それと同時に竜巻は辺りにその牙を突きたてながら拡散した。
『な、何を!?』
 初めて狼が動揺した声を上げた。
 それを静かに見つめて、キサはさらに何かを絡め取るように指を動かす。
『……!!』
「…どうした。これで終わりなのか」
『小娘っ!!』
 挑発的なキサの言葉に、狼は歯軋りをする。今や、狼は自分の支配下にあったはずの風に自由を奪われていた。
「…お前の邪風精の力は確かに強い。だが、邪気が増すたびにそれは本来の風としての力を失う。所詮、お前は邪風精そのものではないのだから。無理矢理従っていた風精を解放すれば── それはただの風に戻るだけ」
 そして自由となった風は、その場でもっとも支配力を有する人物の元へと集った。召喚士── 四大元素の小精霊を召喚・使役する者の元へ。
 全ての制約から自らを解き放ったランクAの召喚士、言わば炎・風・水・大地全ての祝福を一身に集めたと言っても過言ではないキサの呼びかけに、小精霊は自ら進んで従ったのだ。
「もう私に、風の力は通用しない」
 きっぱりと言い放ったキサの、左右異なる瞳がきらりと光る。
 《妖魔の眼》を身に受けてからというもの、今までキサは自らの能力を最大限にまで使った事はなかった。
 ずっと風に右目を隠させる事で属性が偏り、ランク自体が下がっても、そうせずにはいられなかったから。
 …でも、今。
 キサは、自分の内から今までない解放感に似た感覚が湧き起こるのを感じていた。
 身体のすみずみに気力が満ちたような、まるで自分が世界そのものと一体になったような、奇妙な安心感。
 本来ならば、生まれてからずっと体感してきたはずのそれは、今のキサにはそら恐ろしくも感じられた。
 …もちろん、その感情が確かな形でキサの中に形作られる事はなかったが。
『おのれ……っ』
 狼が低く呻き、今度は炎の力を集め、解放しようと試みる。だが、それもまた風の力の二の舞に終わった。
『な、…そんな、ばかなっ!? …儂の力が……!?』
「炎は使えない」
 狼に諭しつけるように、キサが告げる。
「この辺り一体の炎精とその従精は、すでに私と、フェラックの支配下にある。…諦めろ」
 それは宣告。
 もはや、狼の持つ攻撃力は全て封じられたに等しかった。
 先程には逆だった圧倒的な力の差が、実に鮮やかに反転している。勝敗は決したかに見えた。
 ── だが。
『…儂は、こんな所で負ける訳にはいかんのだ……』
 重く、息苦しさすらも感じさせる声が、狼の口から零れ落ちる。
 さながら呪詛のようなその言葉は、次第にはっきりとした強いものへと変わっていった。
『そこの小僧を殺して、あの女を呼び戻すのだ……! 儂は負けぬ…まだ、終わってはおらんぞ!!』
 狼が、吼えた。
その声が空気を打った瞬間、不意にそれに答えるようにぐらり、と大きく大地が揺れる。
「!?」
 一瞬、その出来事に気を取られた。
 そうだ、この狼は元々、大地の属性を持つものだったのだ── 誰もが忘れ去っていたその事を思い出した、その刹那。
 弛(ゆる)んだ風への支配の隙を突き、狼が宙を駆ける。気がついた時には、その牙は至近距離にまで迫っていた。
『貴様は、邪魔だ!!』
 再び、今度は先程よりも大きく大地が揺れた。彼等の背後で、アラパスらしい悲鳴が上がる。
「…キサ!!」

 ガッ!!

(──!)
 まずは衝撃、それから痛みが一気に走りぬけた。
 狼の牙が、キサの左肩に深く食い込み、肉を裂く。鮮血が溢れ、それと同時にキサは衝撃に耐え切らずに地面に倒れる。
 大地に倒れた衝撃をものともせず、狼はキサの肩にさらに牙を食い込ませた。
 痛みに視界が霞む。振り払う事も考えつけない。
 小精霊に狼を再び無力化させようと思った矢先、キサの眼は間近で輝く狼の瞳を捉えた。
 狂気に揺れるそこにあるのは、殺意と── そしてどんな感情かも掴めない、混沌だけだった……。

BACK← →NEXT