の丘

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「なんでキサに頼むの!?」
 時間は少し遡り、キサが彼等の代わりに狼と相対した時、アラパスは語気荒くフェラックに詰め寄っていた。
「右目だって、ずっと隠していたのに! どうしてそこまでさせるの、あいつは…イザの、私達だけの問題のはずじゃない!!!」
「わかってるよ」
「嘘! じゃあ、何で……っ」
「黙れ、アラパス」
「!」
 常にない、フェラックの感情を押し殺したような冷えた言葉に、アラパスは思わず言葉を飲み込んだ。
 そんなアラパスを無表情に見つめて、フェラックは淡々と言葉を重ねる。
「確かに、お前の言う通り、奴の事は俺達の問題だ。…だがな、もう完全にキサは巻き込んでるんだよ。キサがイザを助けた時点でな。こうなったら、下手にキサを放り出す方が危険なんだよ」
「…どうして?」
 よく飲み込めずにアラパスが問う。そこに、先程までの勢いはない。
 犬猿の仲、という言葉の見本のような彼等だが、有事の時に主導権を握るのは基本的にフェラックだった。
 それは、アラパスよりも長くイザと共にあり、それなりの死線を一人で越えてきたという実績からなのか、ただの性格の違いからかはわからない。
 だが、一つ確かな事は、フェラックもアラパスも口や態度で言うよりはずっと、お互いを信頼しあっているという事だった。
「奴は顔を合わせた時点で、キサをイザの味方だと認識したはずだ。イザを苦しめる事だけを生き甲斐にしている奴が、キサを見逃すはずがない。実際、もしキサに何かあったら、イザは平静じゃいられないだろうしな」
「…そうね」
 ファイザードはそういう人間だ。そこが彼の愛すべき点であると同時に、致命的な点でもあるけれど。
 大切なものが多すぎる人間は、得てして身動きが取れなくなる。でも、彼はその事がわかってはいても、どれ一つ捨てる事など出来ないのだ。
 だからこそ自分達が彼を守るのだ、と彼等は思う。
 彼には大切なものがたくさんある。でも自分達にとって大切なものは、結局の所、ファイザードだけなのだから──。
「もう、いい加減に決着を着けるべきなんだよ。イザがまた『外』に出る事を決めた時点で、いつかはこういう日が来るはずだったんだからな…遅かれ、早かれ」
 言いながら、フェラックの目が未だ自己を手放したファイザードに向けられる。
「奴を倒さなければ、イザもこの先、一歩も進めない」
「…イザは悪くないのに?」
 ぽつりと零れ落ちたアラパスの言葉に、フェラックは微苦笑を浮かべる。
「確かにな。…イザは被害者だ。でも仕方がない。誰かがこうなってしまった責任を取らなければならないとしたら、引き受けるのはイザしかいないんだから。だから…イザが自分でそうする事を決めたのなら、その事で傷付いてもやり遂げなければならないのさ」
 そこまで言うと、フェラックはアラパスの腕の中からファイザードを取り上げる。両肩を掴み、自分の方へと身体を向けた。
 何をするのかと怪訝そうなアラパスの目前で、フェラックは一度ため息をつくと、徐(おもむろ)にファイザードを殴りつけた。
「!?」
 驚きのあまり言葉を失ったアラパスを尻目に、フェラックはそのままファイザードの胸倉を掴み、感情を押し殺したような声で呼びかける。
「目ェ、覚ませ! 逃げてんじゃねえよ、イザ!! 戻って来い!!!」
「ちょ、ちょっとフェラック!?」
「イザ! …お前のせいで、キサが巻き込まれてるんだ。わかってるのか!?」
 その刹那、不意に彼等の立つ地面がぐらり、と揺れた。アラパスが小さく悲鳴を上げる。
 しかし、フェラックはそれを気にした様子もなく、なおも呼びかける。
「お前が…お前が決めた事だろ!? あの女の犯した罪を贖うって、お前が言ったんだ!! …逃げるなよ。お前は本当は誰よりも強いんだ…お前にしか、奴を倒せないんだぞ!!」
 祈るようにフェラックは言葉を紡いだ。
 そう、この場を収める事が出来るのは、結局の所ファイザードしかいないのだ。
 力であの狼を抑えたとしても── 殺したとしても、意味はないのだ。それでは、何も変わらない。
 ただ罪に、罪を重ねるだけで──。

『…──私と、いらっしゃい』

 狂気の瞳を思い出す。誰よりも美しくて、力ある存在だと思った女。

『…フェラック、もう泣かないでいいんだよ』

 救い上げてくれた声を思い出す。今の自分の、ただ一人の主の。
(頼む、イザ。奴を……)
「…っ! キサ!!」
 アラパスが鋭い声を上げ、フェラックは我に返った。反射的にアラパスの視線の先に目を向け、息を飲む。
 視界に入ったのは、狼に肩を噛まれ地に押し倒されるキサの姿──。
「……!!」
 思わず、フェラックはぎゅっとファイザードを抱き締めていた。そして縋るような声で叫ぶ。
 遠い昔、初めてファイザードに出会った時と同じような気持ちで。
「頼む、イザ!! 奴を…あいつを救ってやってくれ……!!」

+ + +

 …── イザ……。

 誰かが、呼ぶ声がした。
 そんな気がして周囲を見回すけれど、人影はない。
 もっともそれ以前に、彼の名を呼ぶ者など、養い親の他には数人しかいないのだけど。
 今のは、そのいずれでもなかった。いや、声ですらもなかったような気もする。
(…今のは、気のせい?)
 そうだろうか、それにしてはとても── 必死なような感じがした。
 泣きたくても泣けない、そんな感じ。泣けないから…助けを求めているような。
 心に引っかかって、ファイザードは耳を、心を澄ます。
 聞こえてくるのは、晩秋の冷たい木枯らしが吹き付けてくる音。もう、すでに日は暮れていて、それ以外に音と呼べるものは聞こえてこない。
 けれど──。

 ── ファイザード……。

 今度ははっきりと『声』がして、ファイザードは目を見開く。
 やはり気のせいではなかったのだ。当然、木枯らしの立てる音を勘違いした訳でもない。
(誰……?)
 何だかとても懐かしいような、不思議な気持ちになるのは何故だろう?
 声なき声は、当たり前のように彼を呼ぶ── 彼だけを。
 変だと思う。それははっきりと音として彼の名を呼ぶ訳ではないのに、どうしてそれが自分の事だと思えるのだろう。
 ただ伝わってくるのは強い想い。誘われるように、ファイザードの足は動く。声がすると思われる方へ── 外へと繋がる扉へ。
(誰が呼ぶの?)
 そして、一体何の為に?

 …ファイザード……!

(…ああ、そうか)
 三度目の声で、唐突に理解した。声の主が何を求めているのかを。
(救けてって…言ってる。ぼくに、救けて欲しいって)
 けれど、そこでファイザードは立ち止まった。急に不安になったからだ。
 《悟りの塔》に捨てられるように置き去りにされて、数年。まだ年端もゆかない彼だったけれど、わかる事がある。

 ──『救ける』だけの力が自分にあるのだろうか?

 養い親達は、彼を愛情をもって育ててくれていたけれども、能力者としての教育はまだ何もしていなかった。
 行った事と言えば、名を持たない彼に最初から『僧侶』としての戒名を与えた事だけ。
 ランクこそ判定されていないが、ファイザードは確かにすでに僧侶ではあった。でも、それだけなのだ。
(どうしたらいいんだろう……)
 声の主は自分を呼んでいる。けれど、自分に救ける事が出来るとは思えなかった。
 しばらく悩み── けれど、最終的にファイザードは声のする方へと足を向けた。
 何も出来ないかもしれない。けれど、そのまま何も聞かなかった事にはとても出来なかったから……。
 やがて見えてきた木戸の前で立ち止まる。一瞬の躊躇の後、彼はその扉に手を伸ばした。
 …本当に危険なものがその先にいるのなら、彼の養い親がとっくに追い払っているはずだ。
 そうしないのは、この声の主がファイザードにとっても、他の《悟りの塔》の住民にとっても、害のないものだと認めているからに違いなかった。
 もしくは──『害』であっても、それがファイザードにとって、必要なものだということ。それを信じて、ファイザードは扉に手をかける。
 取っ手を握った瞬間、感じたのは強烈な既視感。
(前にも── こんな事があった……?)
 しかし今のファイザードにとって、『昔』と呼べる程の記憶などない。
 なのに、それはとても昔の事だったようにも思えるし、ごく最近のようにも思えた。何故そんな風に思うのかと突き詰めて考えても── よくわからないのだけれど。
(イザ……!)
 すぐ近くまで来たからだろうか? 声は今度はちゃんと言葉のように聞こえた。
 そう── 声、だ。
 初めて聞くはずなのに、ずっと傍にあったように思う。否、ずっと傍にあった声だ。
 確信すると同時に、変化が起こる。
 子供の手だった自分の手が、いつの間にか大きくなり、視線の高さが切り替わる。
(…僕は)
 ファイザードの中で、いろんなものが目を覚ました。
 子供の頃から今までの記憶。
 養い親達との二度の別れ。アラパスとの出会い。キサとその家族との出会い。そして── 今まで思い出す事すらも封じてきた事実。
 彼はそのまま扉をゆっくりと開き始める。
 そう…昔、こんな風に呼びかける声に誘われて扉を開いた時、向こうには見た事もない程美しい、炎をまとった大きな鳥がいた。
 そして、今度は。
 開いた向こうに立っていたのは、長い腰までも覆う白い髪を無造作に流した女。
 そしてその足元には、緑を帯びた毛皮の狼。まるで従者のようだとファイザードは思う。
 そうだ── この狼は、今現在、彼の命を狙っているあの狼の過去の姿だ。
 狂気に囚われ、本来以上の力を与えられた結果、その本質は随分と変質してしまったけれども…──。
 昔の『彼』は、むしろ気性は穏やかで、保護者のような雰囲気をもって彼女に付き従っていた。
 女の髪の隙間から覗く白い顔には、まるで少女のように無垢であどけない微笑が浮かんでいる。
 けれど、その瞳は何処か危うい輝きがあった。その目を見つめ、彼は無意識に呟いていた。


「── 母さん」

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