魔術士見習い習曲

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 生まれて初めて見た魔族は、そう言えば小動物の形態をしていた。
 まだ、ディリーナが《探求の館》で学んでいた時の事だ。
 野外実習中に森へ入った時に、それは現れた。
 ふさふさと柔らかそうな毛並みに、大きな目。
 一見、愛玩動物のような外見をしていたので、うっかり手を伸ばした知り合いが危うく腕を食い千切られそうになった。
 獣鬼、という種族の一種だと後に知ったが、あの時の衝撃は一生忘れないだろうと思う。
 その時に体感として覚えた魔族特有の気配。
 魔力よりも著しく負の力を帯びたそれを《魔気》と言う。

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 ディリーナはかたかたと小刻みに震え始めた己の手をぎゅっと握り締め、すぐさま逃げ出したくなる衝動をじっと耐えた。
 恐怖とは違う。それはむしろ生理的な反応だった。
 ぞわぞわと纏わりつく悪寒。胸の辺りがむかついて、少し吐き気がする。
「…大丈夫?」
 すぐ横からの声は多少緊張していたが、落ち着いたものでディリーナは少しだけ安堵を覚える。
 もし、これで同行者が下手に騒ぎ立てるような人物だったら、相手にもよるが身の安全は保証できない。
「…あんたこそ、平気なの?」
 ディリーナは自分の声が震えていない事に感謝しつつ、隣の少年に尋ねかける。
「今まで気付かなかったなんて信じられないくらい、強烈だわよ? こいつの魔気」
 魔気は人間には毒と一緒だ。
 人によっては小鬼と呼ばれるものや、幻魔と呼ばれるものといった邪精に毛の生えた、せいぜい人を惑わす程度の魔族であっても簡単に発狂し、場合によっては死亡する事もあると言う。
 上級魔族になればなる程、魔気は強くなると言われ、それ故に人と魔族の共存は不可能だと言われるのだ。
 …もっとも、人間の中にも生まれつき魔気に干渉されない体質の者もいて、そういう者は『デビルバスター』という特殊な職業を許され、ギルドのみならず各国の王宮でも重用される。
 ひょっとしてユケもその類なのだろうか、とディリーナはふと思ったが、すぐさま否定した。
 もしそうなら、こんな所にいるとは思えない。《フォルク》は規模こそ中の上程度だが、魔族討伐関係はあまり扱っていないからだ。
 もちろん、ユケが《フォルク》以外のギルドに加盟しているというなら話は別だが──。
「これでも結構、この業界に長くいるんだ。ただの慣れだよ」
「へえ?」
 落ち着いた声音に、ディリーナは少しずつ自分を取り戻す。
 闇の奥にいる魔族はこちらを伺うかのように微動だにしない。
 どういう形態をしているのか、大きさ、属性それ等も全てわからない状況だったが、別の事を考えるだけの余裕は戻ってきた。
「…じゃあ、この状況を打破する策とかもあったりするのかしら?」
 期待を込めて尋ねると、ユケはぽん、とディリーナの肩を叩いた。
「?」
 何だろうと思って振り向くと、ユケがにっこりと笑って言ってくれた。
「頑張って、リーナ。僕は逃げ道を探すから、奴を引きつけておいてくれる?」
「──…は?」
 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
「あの、悪いんだけど…もう一度言って貰える?」
 嫌な予感がしたが、聞き返さずにはいられなかった。
 ユケはまったく態度を変えずににこやかに繰り返した。
「だから。奴を引きつけておいて欲しいんだよ。その間に僕が逃げ道探すからさ」
「…── ちょおっと待ちなさいよっ!? 何、それえっ!?」
 言われた事を消化した瞬間、ディリーナは当然ながら上擦った声で絶叫していた。
 こういう時、普通なら逆じゃないだろうか?
 いや、それ以前に何故ここまで当たり前のようにそんな恐ろしい事が言えるのだ?
 人でなしがここにいる、とディリーナは思った。
「リーナ、声が大きいよ。やつを下手に刺激する」
 言われて慌てて口を押さえたが、だからと言ってここで引き下がる訳にはいかない。
「…って、どういう事なのよ? なんであたしが囮(おとり)にならなきゃいけないわけ? それだったらユケ、あんたが囮になればいいじゃない…!」
「何言ってるのさ」
 ユケは困惑したように眉を持ち上げた。
「僕はあいにくと非戦闘要員なんだ。こういう時、囮に攻撃手段があるのとないとじゃ、生存率に決定的な差があるだろう?」
「何ですってえ?」
 今更のようにそんな事言われても、である。
「そういう事は最初に言っておいてよねっ」
「そんな事言われても、聞かれてもないのに話す訳がないじゃないか…っ、リーナ、やつが動く……!」
 反射的に目を向ければ、闇の向こうで身動き一つしなかった何かが確かに動き始めていた。
 ゆっくりと闇の一部が動き、濁った黄色に光る眼らしきものが、ぎょろりと二人の方に向けられる。
「…あれは……」
 ユケが分析するようにそれを凝視する。
 掲(かか)げたランプの乏しい光でも、暗闇に慣れた目にはそれの輪郭を微かに捉える事が出来た。
「…ねえ。あれ、何?」
 引きつった顔で、それをやはり凝視しながら、ディリーナはユケに尋ねかける。とてもではないが、目を反らす事など出来そうになかった。
 苔むした岩石が動き出したかと思える姿を、それはしていた。完全に周囲に擬態している。
「…多分、妖鬼の類だと思うけど……」
「妖鬼…こいつが」
 実際に口に出して噛み締めるように発音する。その呼び名はディリーナもよく知っていた。
 ── かつて彼女の両親を襲い、命を奪ったのも妖鬼の仕業だったのだ。
 魔族にも様々な種族が確認されているが、基本的に『鬼』と名につくものは攻撃的で知能が低く、かつ血肉を好むとされている。
 昔、遭遇した獣鬼が愛らしい外見にそぐわず凶暴であったように。
「…ひょっとして、かなりやばい?」
 口元に引きつった笑みを浮かべつつ、ディリーナが言えば、ユケは困ったように止めの一言を言い放った。
「最悪かもね」
「…あっさり認めないでよ」
 こういう時は普通、気休めでも『そんな事ないさ』位言ってもいいだろうに。
 いくら本当の事でも、その一言があるのとないのでは、受ける精神的ダメージは違ってくる。
「仕方がないだろ? …それでも、僕は諦めるつもりは毛頭ないし。それはリーナもだと思うけど?」
 苦笑混じりのその言葉には、やはり何処となく余裕があって憎らしい。
「あんた、本当に生意気だわ」
 どう見ても向こうの方が年下なのに、何だってこんなに振り回されなければならないのか。
 むくれるディリーナに、ユケは心底不思議そうに反論した。
「生意気ってどういう事さ? 言っておくけど、キャリアだけなら僕の方がきっと上だよ。これでも十年近く働いてるんだから」
「十年!?」
 予想を越えた言葉にぎょっとして、思わずディリーナは叫んだ。それがきっかけだったように、不意に妖鬼が唸り声を上げる。

 ウオオオオォォォォ……!!

 それは獣の鳴き声にしては人の声に近かった。まるで人が苦悶の声を上げているかのようで、薄気味悪い。
 ただでさえひたひたと押し寄せてくる魔気で気分が悪いのに、さらに気分が悪くなりそうな声だ。
「ディリーナ……」
 ユケが呆れたような目を向けて来る。今度ばかりは流石にディリーナも引き下がった。
「…ご、ごめん」
 どうやら魔族は彼等を敵と見なしたようだった。黄色だった瞳が微かに赤味がかる。
「仕方がない。取り合えずディリーナ、攻撃してくれる?」
「あ、あんたは逃げ道を探すわけ?」
 抗議をこめて尋ねると、いや、とユケは頭を振った。
「いや、別の方法を考えてみる。多分、ここに淀んだ魔力自体、やつが作り出した罠だったんだ。そうじゃないかと睨んでいたけど……」
 答えながら、ユケは視線を周囲に走らせる。
 何かを探すようなその視線を怪訝に思いながら、ディリーナはじりじりと近付いてくる魔族を見た。
 全体的な感じは蠍に似ていた。
 甲羅に覆われたような外皮は頑丈そうで、普通の物理攻撃では歯が立ちそうになさそうだ。
 蠍で言う鋏の代わりに、ハンマー状のものが見受けられる。
 あれを振り回されたら、こんな広いとは言いがたい場所ではかなり危険だろう。何しろ、そいつはゆうにディリーナの二倍近い大きさがあるのだ。
「攻撃って、言われても……」
 視線を落とした先、手首に下がるいくつもの石が微かに硬質な音を立てる。
「…リーナはストーンマスターだと思ってたんだけど。…違う?」
 まるで考えを見透かしたかのようにユケが尋ねる。
 ストーンマスター── 岩石の持つ魔法力を取り出せる能力者である。
 もっとも、天然の岩石が持つ魔法力は基本的に全て地属性を持つ為、ランクの低い者だと最低ランクの魔術師よりも使えない場合も多い。
「…そうなんだけど。わたしのランクは低いんだってば」
 ランクで言えばDで、さらに実戦経験が皆無である。
 能力を使いこなす以前の問題だったりするし、だから元から強い魔法力を有する水晶や貴石等を使うのだ。
 ランクが高ければ、その辺に転がっている石でも立派に攻撃・防御手段に出来るのだから。
 しかし、そういう事を言っている場合でない事は確かだった。

 ウオオォォ…!!

 再び唸るような声を上げて、ついに魔族はこちらへと動いた。
 その外見にそぐわない素早さでハンマー状の前足が振り上げられる!
「リーナ!!」
「あ〜っ、もうわかったわよっ!!」
 半ば自棄になってディリーナは指にはめていた指輪を外した。
 皮ひもと石だけで作られた粗末なもの。装飾性は一切ないそれは、ディリーナの左手の中で一瞬にして砕け散り、代わりに握りこぶし大の光球と化す。
「本当に、どうなったって知らないからねえっ!!」
 青白い光。遠目で見るとまるで炎のようにそれは揺らめいていた。
「こいつを、喰らえーっ!!」
 ディリーナが吠える。
 それと同時にその光球はディリーナの手を離れ、今にも彼等に襲いかかろうとしている魔族に向かって勢いよく飛んでいった。

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