孤 独 な 翼
その年、西の地に珍しく雪が降った。
北方の山岳地帯ならば特に珍しくないその現象も、滅多にない場所なら異変に他ならない。
南西部に位置する小国・ルターシュは、一年を通じて比較的温暖であり、雪よりも雨が降る事の方が多い場所だった。
多くの人々は何事かと思い、迷信深い人は不吉だと眉を顰めた。
大地を純白に染め上げた雪に喜んだのは、何も知らない子供ばかり。もちろん、その多くの人は天の気紛れだと思っていたけれども。
しかし── まるでそんな人々の不安を見透かしたように、その「何かが起こるのではないか」という不安は最悪の形で的中する。
白に包まれていたその場所が、次々に真紅に染まっていった。
人も、そして驚くべき事に付近に住む魔族すらも、すべからく命を何者かによって奪われた。
…西方の小さな村々を壊滅させた事を皮切りに、その後十年近くに渡り、大陸の西部を震撼(しんかん)させたのは、人でも魔族でもない異形の存在であったという。
それまで、人々に反旗を翻すなどと考えられた事もなかった存在── 妖精。その仕業であった。
しかし、本来なら群れては存在しないはずのそれが、村や魔族すらも根絶やしに出来る程の集団になるという事例は今までになく、その事実はさらに人々を恐怖させた。
だが、その脅威はある時を境にして、突如姿を消した。
《妖精》と、それを使役する《妖精使い》という職業の消滅と共に──。
大国の精鋭でも敵わなかった、その脅威を動かしていたのは何だったのか。
何の為にそれが全てを滅ぼそうとしていたのか、その全ては謎のまま。
全ては── その当事者であった者の心の内だけに……。+ + +
リンセイの後に続いて向かった先にいたのは、一人の人間の女だった。
年の頃は二十歳前後といった所か。
長い髪は白く、その瞳は水底の暗い緑。人との関わりなど一度も持った事はないが、彼から見ても『若い』部類に属する者である事はわかった。
身長はそれ程高くはなく、むしろ小柄に位置するだろう。だが、その容姿に反して、その身から放たれるのは、長年生きてきた彼をも目を見張る程の『存在』感だった。
その足元には緑色を帯びた灰色の毛皮を持つ狼が控え、その傍らには深緑の髪と瞳に薄茶色の皮膚をした樹精が寄り添っている。
まるで── 守るように。
大地の力は狼から、水の力は樹精から感じる。という事は── もう一つの、彼の知らない不可解な力は、女の物なのだろう。
人間の事などよく知らないが、どの属性でもないそれが異質なものである事は彼にもわかった。
そんな風に値踏みするように見ていると、すっと女が白い手を持ち上げ、その指先にリンセイが止まった。
「…あなたが、ディシタの王?」
やがて紡がれた声は、悪意なく澄んだもの。
その小作りな顔に、友好的な微笑が浮かぶ。人の美醜などよくわからなかったが、彼はその笑顔を美しいと思った。
幼い子供のように無邪気で、思惑も打算もない── そんな空気が彼女にはあった。
「初めまして。わたしの名はシリイ。妖精使いよ。ここにはあなたに会う為に来たの。会えて嬉しいわ」
《── 妖精使イ?》
初めて耳にした言葉に首を傾げると、横にいたリンセイが簡単に説明してくれる。
《わたくし達のようなものを守護として使役なさる方ですわ》
《……》
使役、という言葉にある屈辱的な響きに反感を抱くものの、彼女── シリイに従う彼等はいずれも何処か誇らしげで、彼は不思議に思った。
人間という生き物は、確か寿命も短くて、力もない無力な存在だったはず。この大陸中に存在しているが、彼にとっては取るに足らないものという印象が強い。
そんな者に仕えて、一体何が面白いのだろう。そんな風に考えていると、シリイは空いたもう片方の手を彼に差し伸べた。
「わたしといらっしゃい」
《……?》
最初、彼女が何を言ったのか理解出来なかった。
今、シリイは何か予想外の事を口にした気がするのだが──。
そんな彼に、彼女はさらに言葉を重ねる。
「わたしと来るなら、あなたはもう独りではなくなるのよ」
語りかけて、その笑みを深くする。深い水の底へ引き込むように、その瞳が彼を絡め取る。
── 独りではなくなる。
その言葉は、甘美な響きをもって彼に届いた。
《独リデハ、ナクナル……?》
それは彼に狂おしい程の孤独を思い出させた。
日が昇り、日が沈み── 幾度となく繰り返される日々の営み。その中でたった一人きりで生きる、その空しさを。
《…オ前ニ従エバ、オレニ名ヲクレルカ?》
独りでいる事に飢えて乾いて、彼は無意識に縋るような声を上げていた。
誰かの── シリイに属する事で、この渇きから逃れられるのなら、それでもいいような気がした。
リンセイも、狼も樹精も、そんな彼に対して新たな仲間に向けるような視線を送る。
── 求められている。その事実が、嬉しくて。
「名前はわたしがあげるものではないわ。だって、あなたは生まれた時から素敵な名前を持っているもの」
手を差し伸べたまま、シリイは優しく告げる。
《本当ニ……? オレニモ、名ガアルノカ……?》
「ええ。わたしはそれを読み取れるだけ。…最初からそれはあなたの物よ」
《教エテクレ…オレノ名前ヲ……》
「わたしと一緒に来る?」
ごく自然に確認された言葉に、彼は答える。
《アア…》
ディシタの地に愛着などなかった。
生まれ育ち、長くここで暮らしたけれど── あるのは独りで存在し続ける孤独ばかり。心に残る思い出など一つもないから。
シリイはその返事に嬉しそうに目を細めた。
「…さあ」
こちらへと勧められるままに、自らの纏う熱を抑え、その差し伸べられた手に止まる。
深い深い、底の見えない瞳に囚われて。
「あなたの名は、《フェラック》。…これからは、わたしと一緒よ。ずっと、ずうっとね……」
その魅了する力こそが、女の持つ不可解な力そのものなのだと気付く前に── 彼は自らの存在全てを彼女に奪われた。
力も意志も── 魂さえも。+ + +
それから、数年が過ぎた。
「…行きなさい」
シリイは当たり前のように彼に命じた。
彼女の足元、その背後── 視界全体に、いくつもの影が佇んでいる。そのどれもが彼とは異なり、また同時に同類だった。
「そして、ここに連れてくるの。出来るわね……?」
それは命令ではありながらも、まるで子供に言い聞かせるような口調でもあった。
更に伸びた長い白い髪を結いもせずに流したまま、彼女は何処か虚ろな微笑みを浮かべてその白い指で彼の背後を指し示す。
振り返らずとも、そちらに何があって、何をしろと言われているのかは理解していた。
ここからしばらく行った先には、《悟りの塔》と呼ばれる場所がある。
この大陸に三箇所存在する職業判定機関の内の一つで、魔法力の内、主に法力を使う人々が集う場所だ。
彼女は、そこに宝物を隠したのだ、と言う。
「男の子よ。ファイザードって名前らしいわ。そして同時に…あの人なの」
夢見るような顔で、そんな事を言う。
(…狂っている──)
まだ心の片隅に残る『自分』が呟く。
そう、女は正気ではない。どうしてそうなってしまったのか、詳細は知らない。だが、数年と言えども側にいる間にわかる事はある。
女は失った伴侶を取り戻そうとしている。否、甦らせようとしていると言うべきか。
一度死んだ人間が甦るはずもないが、彼女は取り戻せると信じているのだ。…自身が産んだ筈の、子供の姿で。
女は自分の腹を痛めて産んだ子であると認識すると同時に、その子供が失った伴侶その人だとも思いこんでいるのだ。
その矛盾を抱えたまま、彼女は言う。
「力を無くしてしまっていたから、あそこに置いてきたの。あの人が言っていたのよ、僧侶になるにはあそこで『名前』を貰わないとならないんだ── って」
だから、その『名前』を得た今、そこにこれ以上置いておく必要はないと言う。
置き去りにされた子供の意志など、存在しないかのような言い草だった。
彼女にしてみれば、生涯を共に在ると誓ってくれた相手が、自分を拒絶するはずがないと思っているのだ。
(来るはずが、ない)
たとえうまくここに連れてくる事が出来ても、彼女を『母』と呼べるだろうか?
顔も知らない父親の存在を重ねられて、それを幼い子供が受け入れられるだろうか?
…どう考えても無理に決まっている。
しかし、その瞳に宿る虚無に気付かず、彼女の誘いの手を取った今、そう思っていても逆らう事は出来ないのだ。
彼の存在全てを、彼女の手に委ねてしまった為に……。