〜6〜

次の日、私はいつもよりだいぶ早く部屋を出ると、
バイトのある駅前の本屋までバスに乗って行った。

「あら?佐藤さんてば、早いじゃないの?」
店内に入り、レジのそばに入るとさっそく声が掛けられた。
「おはようございます。そんな、私が早く来たからといって、
そんなに驚いた表情はないのでは?」

駅近くにある本屋は、夕方以降は会社帰りの人達で
混雑するが、平日の日中はそれ程、忙しくはない。
私と入れ替わりで上がる、パートの織田さんが、
いつもギリギリに出勤する私が、珍しく20分も前に
店に現れたのを見て、目を丸くしていた。

「店長は事務所ですか?」
驚いている人をからかうのも一つだが、
今日はそれよりも優先すべきことがある。
まずそれを片付けてしまおう。

「そうよ。あ、もしかしてシフトの変更?」
店長の居場所を聞いたことで、
用事があるということを察する織田さん。
大抵、店長に用事といえば、私でなくても、
シフトの変更か、休みの希望が多いのだ。
それ程頭を使わなくても何のために早く来たかはわかるだろう。

「ええ。一応、前からお願いはしてあったのですが、
やはり用事が入ったものですから」
別に変更の理由を公表する必要はない。
まさか、新しく彼女ができそうで、しかも同棲するかもなどと、
言っても信じてもらえないだろうし、
また、信じてもらう必要性はどこにもない。

織田さんはそれを聞くと、珍しく「ニヤッ」と笑うと、
「ねぇ、何か良いことがあった?」
口にまげた人差し指を当てながら、
まるでテレビのクイズ番組にでて回答をしているかのように、
神妙な顔つきをしつつも、なにかを期待しているような表情。

「何でわかったんですか?」
これくらいは付き合ってもいいだろうと、
ニヤッと笑って織田さんと視線を合わせる。
「誰でもわかるわよ。いつも苦虫をつぶしたような表情を
しているような人が、今日は来た時から笑顔なんだもの。
もしかして、彼氏でもできた?」

思った通りだ。いくら彼女も私より何歳か年上のパートとはいえ、
まだ独身、しかも彼氏募集中の身だ。気になるのだろう。
嘘でも彼氏ができたと言って話題を提供するのも
悪くはないが、祐巳に失礼かな?やめておくとしよう。

「それはご想像にお任せします。しかし、ショックだな。
そんなに私は厳つい表情をいつもしていますか?」
確かに、バイト自体は楽しいとはいえるものではない。
が、対人の仕事だし、それなりに笑顔は作っていたつもりだ。
もっとも、それは店内に客がいればの話だが。

それなりに従業員間のコミュニケーションには気を使っていた。
織田さんにも、何度か背後から抱きついて、
スキンシッツプをはかろうとしたことだってある。
「苦虫をは言い過ぎかもしれないけど、それでも、
来る時って無表情に近いくらい冷たい表情よ。
そのくせ、店内ではたまにオヤジが入るけどね!」
なるほど、そういうことか。よく見ているよ、織田さん。

店内のお客に目立たない程度に両手を広げ、
ちょっと芝居めいた行動をとってから、
セリフを読むような感じで話し掛けてみた。
「いや、それはいいことを教えていただきました。これからは、
もう少し華やかな登場を心掛けさせていただきますよ。
なんなら、薔薇などを背負って来ましょうか?」

さすがに織田さんはそれを聞くと、目を丸くする。
手を口にあてて、静かに笑うと、
「佐藤さん、それだとまるでマンガよ。ほら、店長に言うんでしょ?
早く事務所へいってらっしゃい」と、私を事務所の方へと追いやった。

結局、織田さんの時間つぶしに付き合ってしまった。
店内は客もまばらだし、他に人がいないから、
よほど時間を持て余していたのだろう。
さて、さっさと私の用事を終えてしまうか。

店の奥のスイングドアから事務所に入る。
と、店長が机で何か伝票の記入をしていた。
私はある程度の距離まで近づくと、声を掛けた。

「店長、おはようございます」
「やぁ、佐藤君。おはよう」
軽く会釈をしながら挨拶をすると、
車輪つきの椅子を180度回転させると、
「私は客じゃないぞ」と思うほどの作り笑いのような笑顔を
向けながら、店長も挨拶を返してきた。

ここは個人経営の本屋ではない。
この地域に何十店舗かある本屋のチェーンの一店舗だ。
店長自体はまだ30代後半。つい先日、結婚をしたから、
幸せを振りまきたい時分にいるのかもしれない。

とりあえず、笑顔は無視して、手早く用件を告げる。

「先日お願いしてありました、来週の木曜日のシフトの件ですが、
やはり休ませていただきたいのですが」
さすがに前もってお願いしてあり、代わりの人も見つけてあったからか、
「ああ、その日は休みで構わないよ」
「すみません、こちらの都合で無理をしてもらって」
「いや、前もって言ってもらってあったし、池谷君が入ってもらえる
ことになっているし、何も問題はないよ。ただ、水曜日の午後は
入ってもらうけど、それは大丈夫かい?」
「木曜日さえ休ませていただければ、後はそのままで結構です」

そう言って一礼をすると、事務所脇にあるロッカーへと向かう。
大丈夫だとはわかっていたものの、確実に休みをもらえるとわかり、
安堵すると共に、胸の中の喜びが外に出ようとする。
「佐藤さんおはよう!どうしたの?」
池谷さんだ。彼女もリリアン女学院の大学に通う学生だ。
もっとも、大学からだし、学部も違うので、キャンパスで会うのはそう多くはない。
そういえば、今日は彼女と同じシフトだったっけ。
とりあえず、今度の件だけ伝えてごまかさせてもらおう。

「この前池谷さんにお願いした件ですよ」
「あ、シフトの変更ね。やっぱり用事が入った?」
「ええ、なので申し訳ないけど、その日、よろしく頼みます」
「いいわよ。こういうのはお互い様だものね。私も以前、変わってもらっているし」
手を振りながら、気にしていないとの意思表示。
池谷さんは髪が背中の中ほどまでの長さなので仕事中は後ろで束ねている。
同じ年なのだけど、ショートヘアーの私とは違い、おっとりとした雰囲気。
そして実際、仕事も丁寧。ただ、動作が遅いわけではなく、
効率よくてきぱきとこなしている様をみると、将来は良い奥さんになりそうだ。

「でも、佐藤さんがシフト変更なんて珍しいわね。どうしたの?」
・・・おや、池谷さんも午前中の井戸端会議好きのおば様方の影響を受けたのか?
変更の理由を聞きたがっているな。
「もちろん、デートですよ。いけないですか?」
私は笑顔でそれに答える。
「はは、それは良い理由だわね。嘘でしょ?」
「嘘ですよ。ただ友人が家に来ることになったんです」
そう言って、ある意味、本当のことを彼女に伝える。
池谷さんは「そう、楽しんでね」とだけ言うと、お互い
エプロンをつけ、タイムカードを押しに事務所へと向かう。

私はこの後、毎日、バイトを入れていた。
祐巳の返事を悩むことなど私には似合わない。
それよりも、良い返事を信じて仕事に励む方が自分のためにもなる。


・・・一週間という時間は、あっという間に流れ過ぎていった。


バイトから戻ると、少し遅いかなと思いつつ、
祐巳の家に電話を掛ける。そう、今日は約束の一週間が経つ前日。
電話を掛けると、「はい、福沢です・・・」と、祐巳が直接電話口に出た。

「もしもし、私、佐藤と申しますが、お宅の可愛い、
常に百面相を絶やさないお嬢さんとお話をさせていただきたいのですが・・・」
と、ちょっとからかい口調で話してみると、祐巳は焦ったのか、
「し、白薔薇さま?で、電話ですよね」と、支離滅裂なことを話した。
ふむ、何か私のことで考えてくれていたのかな?
ちょっと顔を緩ませながら、笑顔で話しを続ける。

「なにを言っているのかな?もちろん電話だよ。
明日の件で話したいことがあるんだけど、今、大丈夫?」
「あ、大丈夫です。朝から晩まで、ヒマです!!」
電話を耳から話しても大丈夫かと思えるほど、
はっきりと大きな声で答える祐巳。

「そうね、それじゃあ、こっちが呼んでおいて申し訳ないけれど、
明日はどうしても夕方まではバイトを頼まれているから、
19時くらいでどうかな?それから、どうせなら、
泊りがけできてよ。私、次の日、用事ないし。ねっ!」

務めて明るく言ってみた。変に真剣に言ったら、
祐巳のことだから、考えてしまうに違いない。
明るく積極的に迫る。祐巳にはこれに限る。

「えっ、は、はい、わかりました。19時ですね」
「そ、19時くらい。私のマンションの場所は覚えてる?
良かったら迎えに行こうか?私の車で?」
「車って・・・あの車ですか?」
祐巳の声が気持ち高くなったような・・・。
そんなにあの車がお気に入り・・・なわけがないな。

「もちろん。あれ以外に私は車を所持していないの。
普段は使っていないから、運転が怪しいけど、
祐巳が迷うよりはいいでしょ?」
祐巳が方向音痴とは聞いたことがないし、
この前も帰っているから大丈夫とはいえ、少しの不安がある。
もちろん、祐巳がここに来るまでの道を迷うのではなく、
祐巳がここに来ることを迷うのではないかということだ。

「だ、大丈夫ですから、○○バス停から、駅方面に歩いて行く方でしたよね?」
「ん、それで方向はあってるわよ」
私の心配はよそに、祐巳は私のマンションの場所を確認している。
・・・これなら、来てくれないということはなさそうかな?

「聖さま、私、歩いていけますので、お迎えは御遠慮いたします」
「遠慮なんて私にすることないのにな」
「い、いえ、わざわざ来て頂かなくても大丈夫ですから。
それではまた明日。ごきげんよう」
「はいはい。ごきげんよう。また明日ね。お休み、祐巳」

話しているだけでも私の運転が嫌だというのがバレバレな態度に、
思わず電話を切った後も受話器を持ったまま苦笑していた。
よほど以前小笠原邸まで乗せていった時の印象が悪いようだ。
私自身は助手席で、身を固くして捕まる所を握り締めていた
祐巳をみて楽しんでいたのだが、本人はそれ所ではなかったようだ。

しばらくして、子機をあるべき場所に戻すと、私は台所に向かい、
お湯を沸かし、コーヒーを飲む準備をしはじめた。
コンロの火にかけられたケトルを見ながら、
私はしばらく考えごとをしていた。沸騰して、
「ピ〜」とうるさくケトルに催促されても、気付かないほどに。

明日、祐巳はここに来る。全ての始まりは・・・そこからだ。


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