〜8〜

豆をあらかじめ挽いてあったのか、
サイフォンで入れたコーヒーは、
とてもいい香りがした。
「いい香りですね」
「おっ、わかる?最近お気に入りのブルマンなの」
そういって、祐巳とは少し離れた場所に座り、
満足そうにコーヒーを一口のむ。
「いただきます」
祐巳も、コーヒーをいただく。
(せっかくだから…)と、砂糖もミルクもいれずに飲んでみる。
(うげっ、やっぱりだめだ)思わず、顔をしかめる祐巳。

「ほらほら、無理しない。はい、貸して」
そういって、砂糖と、ミルクを手早く入れ、スプーンでかき混ぜてくれた。
「これでいいでしょう」
ちょっとバツが悪い顔をして、改めて飲む。
「おいしいです」
「でしょ?」
聖さまは、いまだに祐巳の入れる砂糖とミルクの量を覚えてくれている。

「さて、落ち着いたところで、早速、話を始めますか。
どう祐巳ちゃん、少しは考えてくれたよね?」
「はい…」
「一緒に住むよね?」
「えっ、えーと、それはまだ思案中で、これから結論を…」
結論は急がないって言ってたじゃないですか。聖さまの意地悪。
どうやら、答えが出ていないのをわかって、言ったみたい。爆笑している。

「もちろん、結論を出してもらうために、今から話をするのよ。
ただ、祐巳が、どこまで考えてくれているのか確かめたかっただけよ。
でも、その分だと、真剣に考えてくれたみたいね」
そういって、目を細め、祐巳を見つめる。安心しているようにも見える。
「で、何か聞きたいことは?」
「部屋の家賃でも、どの部屋を使うとか、掃除洗濯は誰がするかとか。なにか質問は?」

「…栞さんのこと、今も好きなんですか?」
祐巳は、聞いてはいけないことを聞くようで、下を向きかけながら問い掛ける。
聖さまは突然の祐巳の問いに、一瞬戸惑いを見せたが、すぐに、笑顔になる。
「…そういう質問がきましたか。祐巳ちゃん、一緒に住んでくれるつもりでいるんだ」
「えっ、まだ、決めたわけじゃ…」
「私と住みたいけど、私がいまだに栞のことを引きずっているんじゃないかと、
心配なわけだ。自分は、たんに栞のかわりなのかもしれないと」
はっきりと聖さまにいわれ、うなずく祐巳。
祐巳は、どうしても、聖さまの心の中のにいる栞さんの存在が気になる。

「祐巳ちゃんて、恋人が出来たら、相手の今も、過去も、未来も束縛したいタイプ?」
「わからないです、恋人なんてできたことないから」
「じゃぁ、祥子のスールになって、祥子の過去を知りたいと思った?」
「はい、それは。でも、祥子さまには、祥子さまの過去があるってわかっているから、
むりやり聞くということはしませんでした…けど?」
「つまり、好きな人のことは何でも知りたいわけね」
「いけませんか?」
「私のことを知りたいわけは?やっぱり好きだからだ」
祐巳の聞いたことには答えず、ニヤニヤと笑い出す聖さま。とても嬉しそう。
栞さんのことを聞かれれば、もっと真剣な顔をすると思っていた祐巳は、
聞こうか、聞くまいか悩んでいたことを小さなことだったと思った。

「好きだから、私の全てを知りたい。一緒に住みたいから、栞のことが気になると」
「違います」と思ったが、違ってはいないので、否定しなかった。
結局のところ、この一週間で考えたことは、今、聖さまが言ったことだった。
「嬉しいじゃない。一緒に住めるんだね、祐巳」
そういって、聖さまは、祐巳に近づき、抱きついてきた。それだけじゃない。
頬にキスもしてきた。「もう離さないよ」なんていっている。

「ま、待ってください。ちゃんと答えてくださいよ!」
そう言って、体全体で聖から脱出を試みる祐巳。
が、背後からがっちりと抱きすくめられているので、
それが、無駄なことだとすぐに悟る。
じたばたするのが止むのを待って、聖さまが話し始める。

「祐巳が、栞のことを気にするのは当然よね。
でも、それは、私が祥子のことを気にするのと同じよ」
祐巳は、そのとき、そこまで頭が回っていなかったことに気づく。
「栞のことが今でも好きかと聞くのなら、答えは『イエス』。
でも、今の自分に栞が必要かといえば、それは、『ノー』なのよ」
目を閉じて、自分に言い聞かせるかのように話す聖さま。

「今の私に必要なのは、ここにいる、福沢祐巳という一人の人間なの」
「私が聖さまに必要とされるだけの人間でしょうか」
「祐巳、自分の価値というのは、自分では見出せないものじゃないかしら。
私にも難しくてまだわからないけれど、周りの人達が、
その人を通じて見た何かが、その人の価値じゃないかしら」
「聖さまが私を通じて見たものって何でしょう?」
「知りたい?卒業式の時に少し話したけど、
そうね、言葉を変えて簡単に言うならば、人間として生きる楽しさかしら。
祐巳を見ていると、『あぁ、一生懸命生きている』って感じがするの。
そんなあなたを見ていて、私も生きていることを楽しむことが出来そうになった。
だから、祐巳にお節介もしたし、私には似合わない役も何度も引き受けたわ」
「自分では、そんなつもりで生きてはいないんですけど…」
「だから、自分では、わからないものなのよ」
そういって、祐巳の後頭部にある手でそこをなでる聖さま。

手が離れるのを感じると、今度は、両手で頬をはさむような形で、
聖さまの方に顔を向けさせられる。
「今の私があるのは、祐巳のおかげでもあるわけ。
そんな祐巳に、恩返しもしたいし、変った私を見てもらいたい。
できれば、これからの私もね。栞ではなく、祐巳、あなたによ」
真っ直ぐに祐巳に向けられる瞳に、心が動くのを感じた。
「何より、私は祐巳のことが好きなのよ」

祐巳は、どきどきしながら、何とか、声を出す。
「…聖さま、私の質問に答えていませんけど」
「今の私は、祐巳、あなたしか見えない。それが答え。
それ以上の答えをお望みというなら…」
そのままの体勢で、聖さまの唇が祐巳の唇に軽く触れる。
「どう?」突然のおやじモード炸裂である。
顔も、今までとかわり、しまりのないニヤケ顔になっている

何でこうもまた、シリアスな話を、おやじモードで切り返されるか…ってあれ?
祐巳は何か気がついた。聖さまがおやじモードに入る時って、
何かパターンがあるような感じがする。
すこしばかり、昔の自分を頭の中で再現して思い出す。

「もしかして、聖さま、照れ隠ししていません?」
「何を言っているのかな祐巳ちゃん?お姉さん何のことかわからないな」
「ごまかしても無駄ですよ。もうわかりましたから」
今度は、祐巳が、聖の体に手を回し抱きつく。
そう、聖さまがおやじモードになると取る行動は、
おやじが取る行動だから、おやじモード。
でも、そういう風に見せて、自分の本心を隠しているとしたら…。

きっとそうだ。祐巳は自分の考えが正しいことを確信する。
(あとはきっとそうでもしないと、他の人と話せなかったのかもしれない)
祐巳は知らないが、2年の頃までの聖さまは、
おやじモードとは無縁の少し怖いぐらいのお方だったらしい。
おそらく、栞さんとの出会い、別れがきっかけで他の人と交わる手段として、
少しでも、軽いノリでの自分を装わないと、誰とも話せなかったのだろう。
本当なら、誰とも話したくない聖さま。でも、きっと、聖さまの周りの方、
紅薔薇だった蓉子さまあたりが「人と交わるべき」と諭したのだろう。

(きっと、地もあるのだろうけど…)特にセクハラおやじモードのとき。
そう思いながら、祐巳は心の中で苦笑する。
祐巳はわかった気がする。自分が聖さまに教えたこと。
それは少しでも自然に他人と交わること。
心の中にすこしずつ自信がわいてくる。
自分も、聖さまに助けられたけど、それだけじゃなかった。
お互いに必要としあう関係にあるということを。
(私、聖さまと上手くやっていける)

「ゆ、祐巳ちゃん、君の方から積極的になってくれるのは嬉しいけど…食っちゃうぞ!」
「いいですよ」もう、逃げなくてもいいや。聖さまの心を知ったから。
聖さまとならいいや。大好きだよ聖さま。

「本当に食べちゃうからね」
「どうぞ」


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