正信(しょうしん)偈のこころ2000.4.15

 

『正信(しょうしん)偈(げ)』は毎日のおつとめにつかいます。

おつとめは、家族(かぞく)が苦(くる)しいときも悲(かな)しいときも一緒(いっしょ)に声(こえ)を揃(そろ)えて唱(とな)えることで、家庭(かてい)のかなめにもなってきました。→すばらしい伝統(でんとう)

 おつとめは、たんに古(ふる)いしきたりとか、封建的(ほうけんてき)な型(かた)にはまった儀式(ぎしき)ではありません。

(ふか)い信仰(しんこう)が 具体的(ぐたいてき)におつとめという形(かたち)をとったのです。

 @ 仏(ほとけ)さまの徳(とく)の讃(さん)嘆(だん)

 A 宗祖(しゅうそ)の徳(とく)を讃(さん)嘆(だん)

 B 浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)の歴史的(れきしてき)感情(かんじょう)(本願(ほんがん)念仏(ねんぶつ)の肉体(にくたい)化(か))祖先(そせん)の呼び声(よびごえ)

   「前(さき)に生(う)まれん者(もの)は後(のち)を導(みち)き、後(のち)に生(う)まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え、連続(れんぞく)無窮(むぐう)にして、 願(ねが)わくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死(しょうじ)海(かい)を尽(つ)くさんがためのゆえなり」 

 おつとめを通(とお)して、わたしたちは遠(とお)い祖先(そせん)と感応(かんのう)(どう)(こう)し、触れ合(ふれあ)う世界(せかい)を知(し)る。

 

 

『正信(しょうしん)偈』は、正式(せいしき)には『正信(しょうしん)念仏(ねんぶつ)偈』といいます。→本願(ほんがん)を信(しん)ずることと、念仏(ねんぶつ)をとなえるこことは一(ひと)つ。

帰命無量寿如来

南無不可思議光

  「無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)に帰命(きみょう)し、不可思議(ふかしぎ)光(こう)に南(な)無(む)したてまつる。」

  「寿命(いのち)と光(ひかり)はかりなき、仏(ほとけ)に帰(かえ)命(いのち)したてまつる」

  人間(にんげん)の魂(たましい)の本当(ほんとう)のふるさとに帰(かえ)ってゆくこと

 

(ひかり)=人生(じんせい)を照(て)らす光(ひかり)→智慧(ちえ)

偈=梵語(ぼんご)gâthâ 加陀(かだ)・偈陀を略(りゃく)して「偈」という。信仰(しんこう)の表白(ひょうびゃく) が讃歌(さんか)の形(かたち)をとったのが偈頌です。歌(うた)・詩(うた)の文章(ぶんしょう)形式(けいしき)(韻文(いんぶん))

  自分(じぶん)自身(じしん)の深(ふか)い感動(かんどう)が詩(うた)となっている。(礼拝(らいはい)と讃(さん)嘆(だん))

「正信(しょうしん)偈」120句(く)、60行(ぎょう)

(かえ)命(いのち)=「本願(ほんがん)招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)なり」

   純粋(じゅんすい)な南無(なむ)は人間(にんげん)のどこからも引き出(ひきだ)すことはできない。人間(にんげん)に南無(なむ)があると思(おも)   うのは、本願(ほんがん)にふれない妄想(もうそう)の立場(たちば)である。私(わたくし)たちは、本願(ほんがん)によってはじめて

   南無(なむ)できるのです。本願(ほんがん)がわれわれのところで南無(なむ)と実現(じつげん)する。それがすくいなのです。このように人間(にんげん)の上(うえ)に帰(き)命(いのち)がなりたつのは、如来(にょらい)が私(わたくし)たちに帰(き)せよという(本願(ほんがん))勅命(ちょくめい)によるのであって、帰(き)命(いのち)・南無(なむ)いづれも人間(にんげん)にいたりとどいた仏(ほとけ)のよびかけをあらわす仏(ほとけ)の名号(みょうごう)なのです。人間(にんげん)に帰命(いのち)や南(な)無(む)が成り立(なりた)つと思(おも)っている間(あいだ)は、それがすくいであることは分(わ)からない。

無量寿如来=阿弥陀仏のこと。「無量寿」は梵語(ぼんご)Amitâyus阿弥陀の訳で、はかりなきいのちの意。寿命無量ともいい、三世(さんぜ) にわたって、悩(なや)む人々(ひとびと)にはたらきかける、そのかぎりない慈悲(じひ)の徳(とく)を誓願(せいがん)としてあらわしたことば。

「如来(にょらい)」は、「如」は真如(しんにょ)・一如ともいい、普遍(ふへん)平等(びょうどう)なる真実(しんじつ)の法(ほう)の世界(せかい)のことで、如来(にょらい)とは真如(しんにょ)より来生(らいしょう)せるもの意(い)。迷(まよ)いの世界(せかい)にあらわれた真実(しんじつ)。姿(すがた)や形(かたち)をこえた真実(しんじつ)が、人間(にんげん)の聞(き)きうることばとして具体化(ぐたいか)した仏(ほとけ)のことばである。その如からの誓願(せいがん)によって南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)の名号(みょうごう)がわれわれに来(き)たのです。仏(ほとけ)の名(な)であるとともにわれわれを一如に帰(かえ)すべきはたらいている名(な)である。

真如(しんにょ)そのものを法(ほっ)性(しょう)法(ほう)身(しん)といい、形(かたち)・姿(すがた)をとってあらわれた仏(ほとけ)を方便(ほうべん)法(ほっ)身(しん)という。したがって、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)は方便(ほうべん)法(ほっ)身(しん)といわれる。

「 法性法身ともうすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして方便(ほうべん)法(ほっ)身(しん)ともうす御(お)すがたに法(ほっ)蔵(ぞう)比丘(びく)となのりたまいて、不可思議(ふかしぎ)の四十八願(がん)をおこしあらわしたもうなり。この誓願(せいがん)のなかに、光明(こうみょう)無量(むりょう)の本願(ほんがん)・寿命(じゅみょう)無量(むりょう)の弘(ぐ)願(ねがい)を本(ほん)としてあらわれたまえる御(おん)かたちを、世(せ)親(しん)菩薩(ぼさつ)は尽十方無碍光如(じんじっぽうむげこうにょ)来(らい)となづけたてまつりたまえり」(唯信(ゆいしん)鈔)

南無(なむ)=古代(こだい)インドの語(ご)である梵語(ぼんご)を、漢字で音写したことばで、南や無の字に意味があるのではない。ことばを訳しきれないとき、このような事がおこなわれる。

不可思議(ふかしぎ)光(こう)=無量(むりょう)光(こう)ともいい、同(おな)じく阿弥陀仏(あみだぶつ)のこと。梵語(ぼんご)Amitâbha阿弥陀(あみだ)の訳(わけ)で、阿弥陀仏のはたらきを空間(くうかん)的(てき)にあらわしたことば。「不可思議(ふかしぎ)光(こう)」とは、人間(にんげん)の分別(ぶんべつ)   思慮(しりょ)でもってはかることのできない光(こう)ということ。

   「光(こう)」は電光(でんこう)とか光線(こうせん)とかの物理的(ぶつりてき)な視覚(しかく)の対象(たいしょう)のことではなく、こころの闇(やみ)を   はらす仏(ほとけ)の智慧(ちえ)のかがやきを象徴(しょうちょう)する。光明(こうみょう)無量(むりょう)ともいう。

この二(ふた)つのことばは、仏(ほとけ)の出世(しゅっせ)によって人間(にんげん)に与(あた)えられたことば。

人間(にんげん)のあらゆる問題(もんだい)がすでに仏(ほとけ)によって南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)とこたえられた(な)である。

南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)は人間(にんげん)をたもち、人間(にんげん)の妄想(もうそう)をひるがえすことばである。

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