正信偈のこころ 2000.5.20

 

◎真実のことば(発願と建立)

法蔵菩薩因位時   在世自在王仏所

覩見諸仏浄土因   国土人天之善悪

建立無上殊勝願   超発希有大弘誓

五劫思惟之摂受   重誓名声聞十方

法蔵菩薩その昔  師仏につかえませしとき

人の心とその業(わざ)を きよめん道をみそなわし

ここにこよなき願い立て 世を済(すく)わんと誓いたり

ふかき思いを弥陀(みだ) の名に おさめて四方(よも)にきこえしむ

 

「因位」菩薩が仏になるための行を修めている間の地位をいい、因位の修行を達成して

    得た仏の位を果位という。

法蔵菩薩の発願 文学的な表現でなくては充分にあらわすことが出来ない、一つの激しい精神を物語っている。

一切(いっさい)衆生(しゅじょう)が救(すく)われなかったならば、自分(じぶん)は仏(ほとけ)にならないという激(はげ)しい

大乗(だいじょう)の菩提(ぼだい)心(しん)、求道(ぐどう)心(しん)というものを、法(ほう)蔵(ぞう)菩薩(ぼさつ)の

発願(ほつがん)という形(かたち)で、象徴的(しょうちょうてき)にあらわしている。

 

「如来、我となって我を救いたもう」曽我量深先生

「法蔵」一切衆生を守ってその依り所となる意味。その意味を失って個々の存在となって迷い悩んでいるものに、

法蔵の意義を与えようというのが、菩薩としての名である。

「菩薩」梵語boddhi-sattvaの音略で、覚有情・道心衆生などと訳される。無上菩提を求める心を起こし、

かぎりなく道を求めて聞法する位の衆生をいう。

「世自在王仏」『大経』上巻の前半に説かれてある。法蔵比丘を仏道にむかわしめた師

如来(にょらい)がまだ仏(ほとけ)となりましまさない昔(むかし)の時(とき)、

その名(みな)をば法(ほう)蔵(ぞう)菩薩(ぼさつ)と申(もう)されました。

生き死にの矛盾(むじゅん)に苦(くる)しむ世(よ)の人々(ひとびと)の姿(すがた)を見(み)て、

いかにしても、この人々(ひとびと)のために、すくいのてだてをなしとげようとの願(ねがい)をおこされました。

そして、その願(ねがい)を明(あき)らかにして、正(まさ)しく道(みち)をおさめるために、

(おん)師(し)の世(せ)自在(じざい)王(おう)仏(ぶつ)のみもとに参(まい)られて、

自分(じぶん)の志(こころざし)を申し上(もうしあ)げて、教(おし)えを説(と)いて下(くだ)さるよう請(こ)われました。

(せ)自在(じざい)王(おう)仏(ぶつ) は、「その道は、汝みずからさとるべきぞ」と、一度は菩薩の願を退けられたが、

(ほう)蔵(ぞう)は「わが願(ねが)いなれど、わが思(おも)いを越(こ)えて、

一切(いっさい)衆生(しゅじょう)の生死(しょうじ)の苦(く)の根本(こんぽん)を抜き取りたい為(ため)なれば、

世尊(せそん)よ、願(ねが)わくば十方(じっぽう)にまします諸(しょ)仏(ぶつ)のお浄土(じょうど)と、

その衆生(しゅじょう)をすくいたもう行(ぎょう)をば説(と)きたまえ」と、切に請いもとめられたので、

師の仏は、法蔵の願いがいかに深(ふか)く広大(こうだい)なるかを知(し)られました。

そこで大(おお)いに激励(げきれい)して、「たとえば大海(たいかい)の底(そこ)の宝(たから)を探(さぐ)るために、

その水(みず)を汲(く)みほそうととするのが汝(なんじ)の願(がん)である。

しかし心(こころ)をつくして求(もと)めて止(や)まなければ、その願(がん)は必(かなら)ずなしとげれるであろう」と、

十方(じっぽう)にまします諸々(もろもろ)の覚(みほとけ)者の国(くに)と、その国(くに)の衆生(しゅじょう)の済度(さいど)したもうた行(ぎょう)、

およびその衆生(しゅじょう)の根(こん)機(き)の良し悪(よしあ)しをつぶさに説(と)いて聞(き)かされました。

 菩薩(ぼさつ)は心(こころ)ゆくまで仏(ぶつ)の説法(せっぽう)を聞(き)き、

さらに自(みずか)ら二百十一億の諸(しょ)仏(ぶつ)の国(くに)を観察(かんざつ)して、

かの浄(きよ)らかに美しい国(くに)を見(み)ればみるほど、痛(いた)ましいのは、

それを求める力(ちから)もたよりもない生死(せいし)汚濁(おじょく)のこの世(よ)の衆生(しゅじょう)であると、

ますます大悲の願(ねがい)心(しん)が燃え上がるのでした。

 菩薩(ぼさつ)はさらに、諸(しょ)仏(ぶつ)のなかより、善(よ)きをえらびとり、悪(あく)しきをすてて、

苦悩(くのう)に沈(しず)む衆生(しゅじょう)を迎(むか)えとって、

(すみ)やかに無上(むじょう)のさとりを開(ひら)かせうる国(くに)をたてようとの無上(むじょう)殊勝(しゅしょう)の

本願(ほんがん)を打ち立(うちた)てられました。

そして、もし為し遂(なしと)げなかったならば、われも永遠(とこしえ)に仏(ぶつ)とはならないと、

(しょ)仏(ぶつ)に超(こ)えて、またとない大(おお)きな弘(ひろ)い誓(ちか)いを発(おこ)されたのです。

 かくて、菩薩(ぼさつ)は智慧(ちえ)もなく力(ちから)もないともがらを、いかなるたよりをもって、

わが浄土(じょうど)に導(みちび)こうかと、深(ふか)いご思案(しあん)をつづけられること、

五劫(ごこう)の長(なが)きに及(およ)びました。

思案(しあん)はついにその根本(こんぽん)に到(いた)りついて、大海(だいかい)の底(そこ)の宝(たから)をひらうように、

(たま)のごとき四十八の誓願(せいがん)を選(えら)びとられたのであります。

その中(なか)でも、「われはたもちやすく称(とな)えやすい名号(みょうごう)をもって、

衆生(しゅじょう)をたすけよう」とのご思案(しあん)こそ、諸(しょ)仏(ぶつ)にもすぐれて、妙(たえ)なる本願(ほんがん)でありました。

 これらのご思案(しあん)が成就(じょうじゅ)してから、世(せ)自在(じざい)王(おう)仏(ぶつ)のみ前(まえ)において、

この選びぬいた本願(ほんがん)をつぶさに説(と)きのべられ、これをむすぶにあたって、

「わが名(な)と、その名(な)によってほどこされる無上(むじょう)の功徳(くどく)が、

あまねく十方(じっぽう)にゆきわたって聞(き)こえるように、もし聞(き)こえぬところでもあったら仏(ぶつ)とはならない」と、

(そら)と地(じ)に満(まん)つるあらゆるものに、重(かさ)ねて誓約(せいやく)せられたのであります。

「諸仏」阿弥陀仏以外のあらゆる仏を諸仏という。仏の法身は平等で差別はない。仏がさとりを開かれる因縁はさまざまである。

阿弥陀は、光明無量・寿命無量をすみやかに凡夫に与えようという誓願によって、諸仏と区別される。

「因」それがなければそのものがなりたたないような根本条件。

「因行」諸仏の浄土ができあがっているもとを、建立する為の修行。本願真実。

「行法は」名号

※選択(せんじゃく)本願の行

「覩見(とけん)」人間の分別によらず、仏の加威力によって、まざまざとそのものがあきらかに見えてくること。

「五劫」(ごこう) 劫(こう) は梵語Kalpa の音略。きわめて長い時間のこと。四十里四方の石を百年目ごとに一度づつ薄い衣で払拭し、

ついにその石が摩滅しつくしても弘劫 はつきないとされ、このたとえを盤石劫(ばんじゃくこう) (芥子の譬えもある)

「重ねて誓う」 四十八願後に重ねて偈頌をもって三誓をたてる。

       1.満願果 皆満足しようという誓い

       2.大施果 苦悩する衆生のために功徳の大施主になる

       3.名聞(みょうもん)果 わが名声(名号)を聞信せしめて安心を与える。
                                   

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