映画のページ
1989 J 120 Min. 劇映画
出演者
小林薫 (ギルー)
戸川純
(チルー(鶴?) - 娼婦、ギルーの妹)
John Sayles
(カマジサー - 高等弁務官)
青山知可子
(Malley - 西原の養女)
エディ
(Andaque - ギルーの友達)
平良進
(Nishibaru/西原親方 - ギルーの雇い主)
間好子
(ウトゥー婆さん - 西原の女中)
照屋林助
(テルリン - 床屋)
宮里栄弘
(キムジナー - 森の精)
北村三郎 (安里親方)
平良トミ
(ソブシー - ギルーの母 )
大宜見小太郎
(島袋 - 警察長官)
赤嶺直美
(キージー - 森の精の娘)
グレート宇野
(レンキン - 高等弁務官の用心棒)
嘉手苅林昌
(三味線の老人)
伊良波晃
(山城家の主人)
見た時期:ドイツ公開当時、恐らく1990年頃
ドイツでかなり前に小さな映画館で公開され見たのが2回目。恐らくその前に何かの映画祭で見たのだと思います。何も知らず、ただ沖縄の映画だというので珍しいと思い見に行ったのですが、何ともわけの分からないへんちくりんな映画だと思ったのが第一印象。へんちくりんなのに私の心をしっかりつかみ、映画祭が100%入れ替え制なのを恨んだことを覚えています。次に小さな映画館で公開された時にも行ったのですが、そこも入れ替え制。つまり1度料金を払うと1回だけ見せてくれるというシステム。日本では極端な事を言うと、1回払って席に座ってしまえば1日中見ていることができるというのと大違いです。
観客に売るパンフレットなどというものがない国で、頭の回転の鈍い私にはこれが何の話かぴんと来ませんでした。何やら神様の話らしいというのが分かっただけ。その神様がアメリカ軍とか沖縄独立、本土復帰とどういう関係があるのかも分かりませんでした。それでもしっかり人の心をつかむのは監督の才能です。
金欠病の私には好きな映画を全部 DVD で集めるなどという贅沢は望めませんが、チャンスがあったら是非と決めている作品がいつも頭の中に数本あります。そういう作品がたまたまバーゲンに出たら迷わず一直線。時にはアマゾンなどに探りを入れ、その気になれば手に入るものなのかを調べたりもします。ウンタマギルーは手に入らないことになっていました。映画館では日本でもドイツでも上映予定は無し。フィルムのコピーがあるかすら分かりません。
というわけで絶望的な状況だったのですが、なんと数人尽力してくれた方々がおられまして(・・・と言われた方、心当たりがおありでしょう。もう1度心からお礼申し上げます。実現した時は本当にうれしかったです)、泣き別れのはずだったのが再び見ることができました。筋は2度見たので大体知っていますが、それでも独特の雰囲気が伝わって来るため何度見ても飽きません。最初のシーンからもう自分があの村にいるような気持ちにさせてくれる作品なのです。
リュック・ベソンのグラン・ブルーが私の心をつかんだことがあったのですが、それと似ているようで似ていない作品です。海の景色、音楽が似ているのです。なぜか。沖縄の景色というのは島国だから海岸に行けばどこへ行ってもああいうもの。音楽のイ メージも似ているのですが、パリっ子のエリック・セラは世界中の音楽を勉強してああいう曲を書いたのでしょう。ウンタマギルーの方は沖縄民謡がベースで、沖縄にいて沖縄の話を沖縄の音楽を使って映画に撮ればああいう風になるでしょう。昔ながらの楽器を使うか、モダンにアレンジするかはシーンによります。
似ているのはここまでで、ストーリーは全然違います。のっけからユニークな主人公が登場。頭に槍を突き刺して海岸をさまよっています。あんな物が頭を貫通したら死ぬのが当たり前なのに死んでいない・・・と思わなければ行けません。常識をフルに働かせて物語を解釈する努力をしましょう。見事に不成功に終わります。
文化、言語、政治などの混ざった盛りだくさんな作品でありながら、そういう事は一切気にせず楽しむこともできる作品で、深く考えてもよし、上っ面を楽しむのもよし。しかし言語を楽しむ人は録音にでも取らないとだめです。全編ほとんどが琉球語。よく聞くと日本語と変わらないのですが、タイムスリップして奈良時代ぐらいまで遡らないとだめです。皆さん学校で習った文語、古典乙1などをしっかり思い出し、それに東京より西の方言、できれば九州南部、奄美大島あたりのフレーバーをつけて、更に想像力をたくましくして、漢語も加えないと だめです。単語としては日本語も出てきますが、動詞などはかなり発想を変えないとついて行けません。この映画を作るにあたってのダイレクト・コーチ、俳優は大変だったことと思います。
現代日本語の標準語からこれほど隔たっていると、いくら元が同じでも方言などと呼ばずに独立した言語と呼んだ方がいいです。イディッシュ語やルクセンブルク語をドイツ語と呼ばなかったり、アフリカーンをオランダ語と呼ばないのと同じです。イディッシュ語などはたかが数百年のずれですが、琉球語は1000年以上の差が開いているのです。これはもう立派な独立言語。私は聞いていて、習ってみたくなりました。なんという奥ゆかしい、それでいて現実的な表現をする言葉でしょう。日本語という言語が分かる人なら、学校に行かなくてもまあ字幕を見て比べながら何とか分かります。字幕が無いとお手上げですが、そこはサービスの国ニッポン、ちゃんとついています。
政治の問題はシンボル的に表現してあって、今でも全部は分かりません。映画ができたのは80年代の終わりから90年代のはじめ。物語の時代は佐藤訪米、沖縄復帰の少し前。ですから義留が「アメリカも日本も嫌だ」と言うのは分かります。小さな地域、国の常でよほどのことが無い限り安泰に独立を守るのは難しいです。上手に周辺の国とバランスを取っていくか、何か決定的な資源、経済の中心になりうる条件が無いとだめですし、そういうものがあると付近の大国の食い物にされる可能性もあります。その辺のジレンマが義留の一言に現われています。しかしその他のシーンの意味はあまりはっきり理解できませんでした。高等弁務官が自分の家族より動物をかわいがり、その動物の血を輸血して生きているというのも意味深ですが、これが具体的に何を象徴しているのか。また彼が1度演説をぶつのですが、それが変に尻切れとんぼに終わります。最初きつい調子で一方的な話をしていたのが、最後「僕はこの島が好きだ・・・」みたいな発言になり、声が弱くなり、退散します。結局のところ何が言いたかったのか・・・。マレーという女性の意味するところも今一つ分かりにくい。私、沖縄にいないばかりか日本からも長く離れているため頭の回転が鈍くなっています。
パルプ・フィクション、シティ・オブ・ゴッドのように「どうしてこういう事(はめ)に なったか」という事情が時間をさかのぼって説明されます。見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。・・・とは言っても見る機会があるかどうか。
1969年。義留は貧しい砂糖工場の労働者。妹は青山羊亭という売春宿で娼婦をしていますが、最近男を取るのをやめにして、動物占いなどに凝っています。母親は過食症なので拘束衣を着せられ家に寝かされています。変な一家。工場の持ち主西原(Nishibaru)は去勢された男で、うら若い娘マレーを養女にしています。西原はもっぱらビジネスに励み、娘の世話はウトゥー婆さんにやらせています。この婆さんには超能力があり、やたら記憶がいいです。マレーはしょっちゅうアラビア・パイプで淫豚草(何だろう、これ!?)を吸っています。どうもそのタバコを吸うと淫乱になるようで、さかりがついてきています。これも変な一家。
義留には森の精の友達がいて、時々黒砂糖をやったりします。森の精キムジナーはそのお礼としてご馳走の腐った魚を持ってきますが、義留は「人間は腐った魚は食べない」と言って返します。「代わりに空手踊りをやってくれ」と頼むと鎖鎌を2つ取り出して危険な踊りを見せてくれます。時々その鎌でさとうきびをすぱっすぱっ。見応えがあります。キムジナーには娘がいます。森の精の娘なのに泳ぎができず1度義留に救われます。
義留は毛遊び(もうあしび)にマレーを誘います。月夜に男女数人で海岸に出て、輪になって座り、民謡を奏で、踊り、そのうちにナンパするという遊びです。今では合コンと言うんでしょうか、最近の流行り言葉を知らないのでちょっと上手く表現できません。しかしこれが西原にばれて義留は厄介な問題を抱え込みます。養父の西原は怒りますが、義留の方はマレーの秘密を握ってしまいます。そのため西原から追い掛け回され命を狙われます。その上放火の濡れ衣まで着せられます。それで逃げ込むのが運玉森。運玉森に逃げ込んだ義留だからウンタマギルーです。
義留の妹にも超能力がつき、義留に厄除けのお守りを渡します。今やリチャード・キンブルとなった義留は友達のアンダクウェーに頼んで病気の母親を運玉森に連れて来てもらいます。森の3人は食糧危機。魔法で土が食べ物に見えてしまいます。義留は何とか食べ物を調達し、岩塩を取ったりして料理を作ります。その義留を森の精が見守っています。
高等弁務官は自分が絶対的な権力を持っているなどとアメリカ国旗の前で演説をしますが、尻切れとんぼで終わります。彼は元禄時代のように動物偏重、人間より大切にしています。
森の精は義留に妹が言っていたのと同じ「マレーと寝た男たちは神隠しに遭う」という話をしてきかせ、マレーと寝たためにミイラになった男たちを見せます。人間である限り義留も間もなくミイラになる運命。義留は森の精の娘を助けたことがあったので、キムジナーは礼に「神になる方法を教える」と言い出します。魔法の力を授かった義留はミイラにならずに済むだけでなく、宙に浮いたりできるようになります。ここで有名な日本人のグルを思い出しては行けません。あちらは刑事事件、こちらは神話。あちらは長時間浮いていることなどできませんが、義留は何分でも浮かんでいられます。こちらはあくまでも神様のはしくれ。義留は授かった超能力を利用して泥棒になり、盗った物を貧しい人に分けてやります。ピストルの弾が飛んで来ても当たらないので神様になるというのは都合がいいです。
盗賊の一団は基地などから武器も盗み出すため、警察から追われます。村人は外国にあるようなゲリラ行動に出ます。銃を持っているので相手側(警察)から銃撃を受けます。「今降参して出てくればただのこそ泥として扱ってやる」と言われた時に1度政治的発言。「本土復帰もアメリカの占領も嫌だ」。全世界が国別でな く、地域別に(区や市の単位)で国連に登録でもすれば可能ですが、そうでない限り小さな地域は独立しても経済的にやって行けないというジレンマがここに現われています。
島の反米、復帰デモが収まらないため、チルーは島袋警察長官がカマジサー(高等弁務官)に捧げるということで動物ごと連れて行かれます。上に書きましたが弁務官は動物の血を自分に注射するという変な習慣があります。そしてあろうことかチルーはカマジサに恋をしてしまいます。これは戦後アメリカにあこがれしきりに真似をしたがる日本を揶揄しているのでしょうか。こちら側の片思いという意味なのでしょうか。しかしチルーではだめだったらしく相手にしてもらえず、西原の方から申し出のあったカマジサは豚(マレー)の血を輸血しています。
ある夜、村では古い伝説のうんたまぎるの芝居が催されます。チルが沖縄式の服装で歌います。出演の俳優が裏庭で練習しているのですがうまく行きません。そこへ義留とアンダクェーが来たので、本人が役を演じることになります。西原とウトー婆さんはそれを盗み聞きしていました。芝居が始まって舞台では侍と義留が戦っています。盲目の西原はウトー婆さんに義留の立っている位置を言わせようとします。槍を投げて殺そうというわけです。義留は舞台でちょうど空を飛んでいるところ。「俺を刺せるものなら刺してみろ」と大見得を切ります。宙に浮いている義留を西原がウトー婆さんの指示無しでしとめます。普段盲目の西原が槍を投げる時はウトー婆さんがちゃんと的の位置を指示するのですが、どういうわけかこの時は勘が働いたようです。冒頭義留が頭に槍を刺したまま海岸をさまよっているのにはこういう事情があったのです。
チルーはカマジサの子を孕んでいますが、近所の人は想像妊娠だと噂しています。これ、日本のアメリカに対する思い込みを表現しているのだろうか、あるいは沖縄にもアメリカに対してこういう思い込みがあるのだろうかと考えさせられますが、特に説明があるわけではないのではっきりした事は分かりません。
最後に近づくほど話が分かりにくくなって行きます。復帰することに決まった後、西原の後任がやって来て、マレーと爆弾心中してしまいます。これを理解するにはマレーの持つ意味が分からないと行けないようです。
最初見た時に話がよくわからなかったのは言葉のためです。なにせ全編でごろつきの出るシーンしか日本語は出て来なかったのです。その他は沖縄語。ですから誰が何をしているのかを理解するのも一苦労。3回目見て良く分からなかったのは政治的な認識が不足しているからです。
主演候補には松田優作など有名人が何人か挙がっていたそうです。他の人が出ればまた別な雰囲気が漂ったでしょうし、それはそれでまたおもしろいと思いますが、結果的にはこれで良かったと思います。ウンタマギルーが「松田優作を見る映画」になってしまうと、俳優以外のいい所 が陰に隠れてしまいます。これは景色を見、音楽を聞き、民話を楽しむことができる映画、沖縄という土地に親しむ映画、沖縄文化を知るための第1歩を踏み出す映画、そしてさらに言えば沖縄の置かれている政治的な事情入門にもなる映画です。私はまだ深い事は分かりませんでしたが、人の心を捉える作品だというのは確かです。
90年ベルリン国際映画祭でカリガリ賞を受賞しました。
この後どこへいきますか? 次の記事へ 前の記事へ 目次 映画のリスト 映画以外の話題 暴走機関車映画の表紙 暴走機関車のホームページ