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氷の国のノイ /
Nói albinói /
Noi the Albino

Dagur Kári

2003 Island/D/UK/DK 82 Min. 劇映画

出演者

Tómas Lemarquis
(Nói - 17才の高校生)

Throstur Leo Gunnarsson
(Kristmundur B. Kristmundsson - ノイの父親)

Elin Hansdóttir
(Iris - ノイのガールフレンド、古本屋の娘)

Anna Fridriksdóttir
(Lina - ノイの祖母)

Gerard Lemarquis
(高校のフランス語の教師)

俳優名不明の重要な登場人物

(古本屋の親父、イリスの父親)
(David - 同級生)
(高校の校長)
(心理分析医)
(占い師)
(教会の牧師、ノイに墓掘り人夫の仕事をやる)
(Davidの父親)

見た時期:2003年10月

アイスランドの映画を見る機会はほとんどないのですが、先日の 101 Reykjavík に続き Nói albinói という作品を見ました。タイトルは「白子のノイ」という意味ですが、白子と言われてもピンと来なかったのは主演の Tómas Lemarquis に特に他の人と目立った差が見られないからです。強いて言えば毛髪が見えないのですが、最近ファッションでそういう風にしている人もおり、欧州には非常に細くて柔らかい毛の人もおり、わざわざ人に言われなければこちらは気付きません。アイスランドのようなあまり日の当たらない国ですと、多少色白でも、他の人と目立って違うということがありません。 色素の特に少ない人は日光浴をする時に特に注意しなければ行けない、皮膚癌に気をつけなければ行けない、日がまぶしいなど本人が気をつけなければ行けない点がいくつかあるそうです。また毛髪が無い人は体を些細なチリからも守らなければならないので、日常生活がいくらか不便です。それはさておき、この映画のタイトルにアルビノという言葉がついていなければ私は普通の高校生の話と思うでしょうし、この少年がアルビノであるかないかは筋と関係がありません。

出演者の多くが映画初出演。フランス系の2人のレマルキは映画ではフランス語の教師と生徒を演じていますが実生活では親子(この教師が授業をやるシーンは愉快です)。映画でノイの父親を演じている Throstur Leo Gunnarsson が 唯一ベテランに入る方で、101 Reykjavík にも出ています。アイスランドには北ドイツのユーモアをもっとドライ、ブラック、乱暴にしたユーモアがあるのですが、101 Reykjavík に比べ Nói albinói の方がユーモアが盛りだくさん、典型的なアイスランドのユーモアが効果的に使われています。それだけショーダウンも効果的で、見終わって客席から溜息が聞かれました。私はこの日、友人共々4人だったのですが、ぐさっと全員の胸に鋭い氷柱が刺さりました。

ストーリーはアイスランド版ワンダー・ボーイズ。17才のノイ少年は飲んだくれのタクシーの運転手の子、黙々と家事をやるアンナの孫。雪に閉ざされた北アイスランドの山裾に住んでいます。学校はサボることがほとんど。友達のデビッドに頼んで学校の様子を教えてもらうだけで授業のことは分かってしまいます。近所の古本屋に入り浸っています。ノイはアホではなく天才。それで退屈しているのです。学校は規則を重んじる所なので、教師はカンカン。しかし校長はあたたかい目を向けています。

どういうわけかドイツの映画雑誌には孤独な少年の物語と書いてありました。私は時々巷の批評家の言う事と意見が合わないのですが、この作品でもショーダウン直前までのノイ少年は人に好かれていると思いましたし、孤独ではないと思いました。父親は飲んだくれですが、エゴイストではなく、ノイをあちらこちらに連れて行ったり、何かを教えたり、彼なりに荒っぽくかわいがっていますし、最近よく聞く「存在を無視された子供」ではありません。ノイが無茶をやった時に豚箱から出してくれるのも父親です。祖母はいつもノイの事を気にしていて、困った時は助け舟を出します。ノイの方も父や祖母を嫌っているわけではなく、家にいさかいが絶えないという生活ではありません。古本屋の親父とはとても仲が良く、娘とデートまでできるようになります。友達のデビッドも彼をのけ者にせず、親が許す限り付き合います。

ノイの希望は自分とペースの合わない簡単過ぎる学校の授業を受けるより、1人どこかでじっと邪魔されずに本を読んでいたいということ。その気持ちは分かります。ドイツの学校に出入りしていて、頻繁にこういうタイプの若い人を見かけました。教師がこういう人たちにちょっと他の生徒より難し目の課題を与えれば済むことですが、学校という制度の中でそれが許されないのか、嫉妬を生んで別なトラブルが起きるのか、理由は分かりませんが天才を育てる地盤はできていません。結局授業がつまらないので学校に来なくなる、授業を聞いていないから試験の準備ができず、点数は却って凡人より悪くなるなどの結果に終わり、落ちこぼれてしまう生徒が出るようになります。私はアメリカのリトルマン・テイトのような特殊学級や飛び級には原則として反対です。こういう事をやると知能ばかりが発達してしまって、社会性が育たなくなるかもしれないという危惧を抱くからです。先日読む機会のあった推理小説にも、心理学を天才的な速度で修めた分析医が患者に悪さをするというストーリーがありました。その悪の主人公は科学的知識はコンピューター並に持っていながら、恐ろしいナルシストで、人の治療をつかさどるのに必要な人格が育っていませんでした。ですから天才も凡人と同じ学校に入れておいて学内で難しい課題を渡す方が良いのではないかと思います。またその生徒に遅れ気味の生徒の家庭教師のような役をやらせると意外と喜んでやることがあります。そうするとのけ者になることもないのではと思います。教える側には現場の状況に合わせてケース・バイ・ケースでやる機転が必要かと思います。

アイスランドという、自国の人からは世界一退屈な場所と思われている土地でも、本があれば文章の中で世界中どこにでも行け、ノイは本の世界では退屈はしていなかったのではないかと思います。ですから担任がノイに学内でたくさん本を読むことを許すとか、読んだ本について何か書かせるなど、得意な方面、才能のある方面を伸ばすように持っていけば良かったかと思います。

ちょっと本筋からそれますが、ドイツの高校にコンピューターの天才がいて、卒業試験の自由課題で、学内の管理部のパスワードを破りハッカー活動をやるというのがありました。学校の粋なはからいで、試験の教師立会いの元に行ったそうです。こういう風に試験科目として認め、成績に加えるとこの子は犯罪に向かわず、工科大学に行くなりコンピューター会社に就職するなりの道が開けます。天才をもてあましてしまうのは分かりますが、こういうちょっとした機転、工夫で1人の人間を救うばかりでなく、社会の役に立つところまで持って行くこともできるのです。

ノイの場合校長と古本屋の親父が大切な役割を果たしており、彼なりに幸せな立場にあり、孤独ではなかったという風に解釈できます。友達というのは数の問題ではなく、理解する人がいるかいないかの問題。ノイには1人、2人そういう人がいれば充分だったようです。ノイを演じている Tómas Lemarquis は映画出演の経験は非常に少ないようですが、この役をしっかり理解しているらしく、観客に感情が良く伝わって来ます。そういう点では他の出演者も決して見劣りしません。衝撃的なのはショーダウンの時の Tómas Lemarquis の表情。ネタは明かしませんが、この時の表情はオスカー物です。ドラマはここから始まるという感じです。ですから監督が Nói albinói 2 を作ったら見に行きます。

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