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フロム・ヘル /
From Hell

The Hughes Brothers
(= Albert Hughes, Allen Hughes)

2001 USA/UK/Cz 122 Min. 劇映画

出演者

Johnny Depp
(Frederick Abberline - 切り裂きジャック事件担当の警部)

Robbie Coltrane
(Peter Godley - 切り裂きジャック事件担当の巡査部長)

Ian Richardson
(Charles Warren - 警視総監)

Liz Moscrop
(ビクトリア女王)

Mark Dexter
(Albert Sickert こと Edward Albert Victor - 画家、クラレンス公エドワード7世)

Ian Holm
(William Gull - 王室付きの外科医、少し前に現役を引退)

Paul Rhys
(Dr. Ferral - 今売りだし中の外科医)

Heather Graham
(Mary Kelly - 売春婦)

Annabelle Apsion
(Polly - 売春婦)

Katrin Cartlidge
(Dark Annie Chapman - 売春婦)

Lesley Sharp
(Kate Eddowes - 売春婦)

Susan Lynch
(Liz Stride - 売春婦)

Joanna Page
(Ann Crook - 金持ちの夫、画家のアルバートを持つ売春婦)

Poppy Rogers
(Alice Crook - アンの娘)

Bruce Byron
(アンの父親)

Melanie Hill
(アンの母親)

David Schofield
(McQueen - 町のごろつき)

Jason Flemyng (Netley - 御者)

見た時期:2003年11月

要注意: ネタばれあり!

セットにかなり凝ったそうですが画面が暗過ぎてその成果が見えず、俳優にもそれほど気合が入っているようには見えません。それでも見て損はないという印象です。この作品の50年ほど前の時代のフランスを描いたヴィドック(実在の人物)の方が凝った分だけ凝ったように見えていました。

1888年夏から秋にかけて英国で実際に起きた切り裂きジャック事件にはいくつもの解釈がありますが、その1つ、漫画(アラン・ムーア)にもなっている説を中心に据え、それ1つで通しています。ドキュメンタリーでなく、エンターテイメントと割り切り、焦点をきっちり決めてその範囲で撮るというのは観客に分かり易くていいです。ヴィドックもこの作品も重要な素材は実在の人物、それをどういう風に料理して劇映画にするかが監督の腕の見せどころです。

切り裂きジャック事件には、巷で言われているだけでも少なくと9つの説があり、出版物やサイトを詳しく調べればもっと出て来るかも知れません。犯人とされるのはいずれも男性で、多くは英国系でない人。「悪人は地元から出したくない、よそ者ということにしておきたい」という身内びいきや、当時移住者の人口が増え市内で強くなっていた反ユダヤ人的な考え方が反映しており、実際の犯人捜査には役に立たない情報でしょう。

推理小説作家パトリシア・コーンウェルは2001年に DNA 検査を使い独自の説を発表。彼女の説では画家の Walter Richard Sickert を「容疑真っ黒」としています。私には彼女の説は範囲をある点狭めたことにはなっても犯人とする決め手に欠けているように思えます。

ここから映画に出て来る犯人も動機もばれます。見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。
この映画の犯人が実際の犯人だという保証はありません。

フロム・ヘルでは実行犯を William Gull と御者の Netley としており、漫画を元に作った話とはいえ、それなりに理論的です。巷で言われているビクトリア女王の孫、王位継承権のあるアルバート・ビクトール王子という説をきっちり理論で否定しています。王子は病弱な上医学的知識がなかったというのが論拠です。William Gull は高齢です。発作で倒れて現役引退を余儀なくされるまでは外科医で、外科手術、解剖、薬学などの知識は充分。高齢で力仕事ができないかと思いますが、そこは力持の御者がついています。もう1人若い外科医が登場するので、前半この人物も怪しいかと思わせます。動機は狂気などではなく、しっかり計算され、理詰めで犯行に至っています。

当時の世間は10週間のうちに5人もの売春婦が確実に死ぬような凶悪な方法で襲われ、死亡しているので、恐怖のどん底。肉屋、外国人、ユダヤ系の人、狂人などを犯人にしようと世論が煽られていた形跡もありますし、世論を静めようとしてもあまりコントロールは効かなかったようです。すでにタブロイド誌のようなものが発達しており、パパラッチ的興味も高かったようです。また社会の特定の層を犯人にしておけば都合がいいという考え方もあったようです。ところが捜査にあたった担当者はそう簡単に丸め込まれる人ではなかったようで、映画の台本に書いてある事の一部は実際に記録にも残っており、実在のアバリーン警部は犯人は下層階級ではなく、上層階級の人間だと発言していることが警察の記録に残っているそうです。これが王室との関係説につながるのでしょう。

ところでかなりの数の公式記録が第2次世界大戦中に跡形もなく消え失せています。これが陰謀説を煽り立てます。ユダヤ人説はあまり当てにならず、当時のご都合主義でしょう。肉屋という説は死体の処理が短時間に鮮やかに行われているところから出たようですが、ただの肉の処理だけでは説明のつかない、高度な医学知識を必要とする殺され方だということで、この説は弱いです。映画では被害者の頭をふらつかせる毒、金持ちでないと手に入らない果物も使われており、そうなると肉屋説は通すのが難しくなります。高度な医学知識という点が当時そういう教育を受けられる立場にあった上流階級と結びつくのでしょう。

10週間で5人が殺された後きれいに事件が終わってしまったことから、犯人死亡説、犯人移住説などがあります。実際に死亡した人物では Montague John Druitt 挙げられます。この人は1888年大晦日にテームズ川で死体でみつかっています。事件直後カナダやニューヨーク (George Chapman) に移住した人物もいます。Aaron Kosminski は1890年施設に収容されています。事件終息とこういった出来事が時期的に一致するので、これが事件が終わった理由だとしている人もいます。

映画の中で王子の変名ということになっている Albert Sickert ですが、パトリシア・コーンウェルが容疑濃厚としている画家の名前が Walter Richard Sickert といいます。映画の中では王子が Albert Sickert という変名を使い、妻に職業も画家と偽っていることにしてあります。

これと違い William Gull 説では殺人は任務で、任務を終了したからもう殺さなくなったと考えられています。任務はビクトリア女王から出たもので、女王は直接「殺せ」とは言わなかったという風に映画の中では描写されています。王位継承権を持つクラレンス公エドワード(注参照)が、娼婦でしかも英国教会でない女性と正式に結婚式を挙げ、1児をもうけたことが事の始まりで、娼婦の子供が次の国王になったりしては困るというのです。時代背景、宗教問題を考えるとこの女王の危惧は分かりますが、女王はここで「よきにはからえ」とだけ言ったようです。何が良き事、悪しき事かはその下にいる人間が勝手に判断したようで、行動力のあり過ぎるドクターが登場。フロム・ヘルではこの皇室の主治医も務めるドクターを狂人としてではなく、全くの正常人として描いています。監督は当時の医学研究の進め方、携わる人間の心理に批判の目を向けています。

注: 問題のアルバート

クラレンス公エドワードは1864年生まれで、アルバート・ビクター・クリスティアン・エドワードという名前。

1841年生まれで後に王になったアルバート・エドワードとは別人で、アルバート・エドワードはクラレンス公エドワード(= アルバート・ビクター・クリスティアン・エドワード)の父親。英国では同じ名前が何度も使われるので紛らわしいです。ビクトリア女王はアルバート・ビクター・クリスティアン・エドワードの祖母で、アルバート・ビクター・クリスティアン・エドワードは女王より先に病死。

アルバート・ビクター・クリスティアン・エドワードはビクトリア女王 → アルバート・エドワード → アルバート・ビクター・クリスティアン・エドワードという順番で王位を継ぐことになっていましたが、女王より先に死亡したので、弟のジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートが王位継承権とアルバート・ビクター・クリスティアン・エドワードの妻に予定されていた女性メアリー・オブ・テックを得、後にジョージ5世として即位。

娼婦という職業が問題になるのは分かりますが、宗教問題はもっと難しかったようです。英国教会とカソリックは外部の人間には似ているように見えるのですが、歴史的ないきさつから仲がいいとは言えず、英国の国家元首である女王は英国教会で法王に似たような地位を持っています。ですからその跡取りが英国教会ではなくカソリックの女性と結婚しては示しがつかないのです。ですから王子は2つの大きな問題を同時に起こしてしまったわけです。

5人の娼婦が皆殺しにされた理由は、5人が王子の結婚式に参列しており、結婚が成立していることの証人だったからとされています。問題の王子はビクトリア女王の孫で、ゲイだと言われており、また病気でもあり、最後は狂人だとされています。どこまでが誇張か分かりませんが、この人物が売春婦と結婚して1児をもうけたという部分は実話だそうです。

フロム・ヘルにはスタジオの命令らしく、実話にないハッピーエンドがくっついているのですが、上手にひねってあり、ただの「めでたしめでたし」ではありません。5人目の犠牲者マリーが死ぬ(はずの)直前、ベルギーから新入りの娼婦が仲間に入ります。彼女がマリーのお金をくすめて食料を買ってしまいます。残ったお金を持ってマリーは警察との打ち合わせ通り家を抜け出し、ロボトミー手術をされ廃人になったアンの娘を施設から引き取って身を隠します。で、映画の中ではマリーと姿の似たベルギー人が犠牲になってしまいます。イレーザー作戦をたくらんだアバリーン警部とゴッドレイ巡査部長は死んだのがマリーだということにしておきます。史実ではマリーはやられてしまいます。

ミステリー・クラブの人間としてちょっと甘いと思えるのはこの5人のほかにも結婚の事実を知っている人がおり、最後は警察も知ってしまった点。式を司った教会の牧師が殺されたという話は聞きません。ただ映画では最後事件を担当したアバリーン警部が妙な死に方をします。そして死の少し前にゴッドレイ巡査部長が警部に「もう監視がついていないから(上手く国外に逃れた)マリーを訪ねてもいいのでは」と言うシーンがあります。この監視は上流階級の秘密組織を指し、警視総監までもがその組織の一員ということになっています。その事を知る警部は自分がマリーを訪ねるとマリーの居所が判明して危険にさらすことになるから、と、大丈夫そうに見えても自重します。

この事件の間中男性の親睦秘密組織フリーメーソンが暗躍しており、トゥームレイダー(1)よりずっと詳しく団体の行動が紹介されます。英国で1700年代に始まった秘密組織と書きましたが、切り裂きジャック事件は1888年。この時点で組織はすでに100年以上の伝統を持っており、英国の上層部に深く入り込んでいます。ゲーテが生きたのが1749年から1832年。当時すでに組織は国際化しておりゲーテは問題のある組織だと言っていたわけですが、フロム・ヘルでは彼らのシンボル・マークや儀式が紹介されます。フリーメーソンについては本当らしい話から、とんでもない与太話まで様々語られているので、取り敢えずは眉に唾をつけて聞くぐらいの心構えが必要です。

わりと理論的な筋の運びの中でちょっと疑問に思ったのはジョニー・デップが阿片を吸い、毒薬に指定されている薬品をドラッグのように摂取している点。彼は朦朧とする意識の中でビジョンを見るとかで、ここは完全にマイノリティ・リポートの世界です。アガサのように事件が起こる前に女が殺されるシーンを夢の中で見てしまうのです。この設定は必然性がありません。阿片は大昔地中海あたりで栽培され、長い歴史を経て中国へ渡り、有名なアヘン戦争を起こしています。皮肉なことに中国へ阿片を持ちこんだ英国では上流階級で流行り、有名な作家などが阿片を吸っていたという噂があります。シャーロック・ホームズが緋色の研究で登場したのが1887年。ホームズも阿片を吸うのが好きでした。最近では1950年代を描いた愛の落日の主人公、英国人ジャーナリストがサイゴンで阿片を吸っているシーンがあります。ですから100年以上前の探偵が同じ事をやるという話もありなのかも知れません。殺人事件の少し前にアバリーンは子供と夫人を同時に亡して意気消沈しているという設定で、映画ですからミステリアスな雰囲気を出すために煙を燻らせたのかも知れません。ドイツの映画雑誌には本当の刑事は麻薬無しで仕事をしていたらしいとあります。フロム・ヘルがおもしろいのは実話とフィクションの巧みな混ぜ具合のせいです。

ジョニー・デップは同時に2つの似たような役をオファーされ迷った挙句、両方に出演しました。スリーピー・ホロウのイカボットと確かに外見は似ていますが、キャラクターが全然違うので、結果としては両方引き受けて良かったと思います。ジョニー・デップ抜きのティム・バートンは、気の抜けたコーラみたいなものです。フロム・ヘルでデップが抜けると、バランスを欠きます。監督がまだそれほど有名でない2人組。そこへイアン・ホルム、ヘザー・グレアムで箔をつけるとなるとやはり主人公にはデップぐらい名前の通った人物が来ないと行けません。ちょっと気になったのは、デップのアクセント。グレアムは英国風に聞こえる発音でしたが、デップはあまり発音に気を使っていません。忙しくてそこまでやる時間がなかったのでしょうか。

後記: たった今アメリカで80年代から合計48人売春婦を殺したという男が終身刑になるというニュース実話が入って来ました。びっくり。

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