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みんな誰かの愛しい人 /
Comme une image /
Look at me /
Schau mich an!

Agnès Jaoui

2004 F 110 Min. 劇映画

出演者

Jean-Pierre Bacri
(Étienne Cassard - 有名な作家)

Marilou Berry
(Lolita Cassard - エチエンヌの長女)

Virginie Desarnauts
(Karine - エチエンヌの新しい妻)

Keine Bouhiza
(Sébastien - ジャーナリスト、ロリータのボーイフレンド)

Laurent Grévill
(Pierre Millet - 自身喪失の作家)

Grégoire Oestermann
(Vincent - エチエンヌのアシスタント)

Serge Riaboukine
(Félix)

Michèle Moretti
(Édith)

Agnès Jaoui
(Sylvia Millet - ロリータの歌の先生)

見た時期:2004年11月

ストーリーの説明あり

ドイツとフランスの家庭の父親が原因の問題の作品を続けて2本見ました。ドイツの作品は冷えたまま終わり、フランスの方はややぬくもりが生じて終わりました。

フランスの映画は時々見ましたが、あまり好きではありませんでした。おしゃべりが多過ぎて、実際には何も起こらないという作品が多いからです。子供の頃にはニッサン・テレビ名画座という番組があって、そこで放送される作品にはドラマあり、芸術ありで、ほんのがきの私でも引き込まれるものを感じました。淀長さんの番組に出て来る作品にもおもしろいものが時たまありました。ところがドイツに来てから見た作品には子供の頃のような人を魅了する何かが欠けているのです。どの国にも映画産業には流れというものがあり、うまく行く時代もあれば、うまく行かない時代もあるものです。私がドイツに来た頃はドイツ映画もちっともおもしろくない時代が続いていました。ですから隣の国フランスもそういう時期だったのかも知れません。あるいは私がそれほど頻繁に映画館に通っていなかったので、知らなかったのかも知れません。

ジャン・レノーはフランス映画について「おしゃべりが多過ぎて何も起きない」という意見を吐いています。まさに私の気持ちを代弁してくれています。しかし彼も一緒になって仕事をしているアクション、探偵・犯罪物というジャンルでは最近そういう流れを変えようという動きが活発になり、ここ数年のファンタでは満足の行く作品を何度も見ています。その横でしかし長々とおしゃべりが続く作品も作られているようです。

Comme une image はそのおしゃべりの伝統を踏襲して作られています。ところがそのタイプの枠の中であっても《見て良かった》と思わせる作品に仕上がっています。 ― どうしてそういう事が可能だったのか。 ― おしゃべりを1人に長々とやらせず、大勢の人間に少しずつやらせたからです。ある有名作家を中心に据え、彼の取り巻きと家族を描いた作品です。で、しゃべるのは彼一人でなく、色々な人。観客が退屈し始める前にしゃべり手が交代します。

この《取り巻き》という連中が私が嫌いな人種。誰か1人を中心に据え、その周囲に利害関係が絡み合う人たちがぞろぞろ登場し、それを撮影する作品。大嫌いです。世の中には自分が中心にすわりたいという人と、誰かに群がっていたいという人が1対10ぐらいの割合でいるらしく、不思議なことに人数の関係は適度にバランスがとれています。

厳密なことを言いましょう。私が《取り巻き》と呼んで嫌っている人種というのは、ただおもろい人がいて、その周囲に一緒におもしろがる人が集まってくるというだけではありません。それならファンとか同好の人というだけのことです。私が嫌っているのは、そういう風に集まった人の中で依存関係ができ、離れたくても離れられないケース。そういう人を《取り巻き》と呼んでいます。いたい時にはいられ、離れたい時には離れられ、戻りたい時には戻れる関係というのとは全然違います。そういう風に自分の感情に合わせて自由に振舞える人は簡単に《友達》と言いましょう。簡単だけれど価値のある人たちです。その辺の区別をきっちりつけないと、しんどいことになります。

監督兼脚本家兼出演者のアグネス・ジョーイ(読み方違っているかな。フランス語取っていた方、教えて下さい)はその辺しっかり頭に入れ、依存関係のある取り巻きを描いています。ちなみにフランス人というのはこういう人間関係を描くのは結構上手なようで、小説で読んだことがあります。

さて、こんな話を扱う映画ですから、普段だと、最初の20分ぐらいで胃が重くなるはずです。ところがなりませんでした。登場人物の性格がきれいに分けて描かれている上、全体像もボケず、偏らず、《こういうソサエティーがあるんだろうな》と納得させる仕上がり。その上1番問題のある人物すら、監督は突き放したり映画という媒体を使って処刑しようとは試みず、《こういう風になってしまう男もいるのだ》と冷たくならない終わり方をしています。監督のジコチュー男エチエンヌへの鬱憤は、ラストのシーンでちゃんと晴らしているのにです。

ここからストーリー行きます。退散したい方はこちらへ。 目次 映画のリスト

エチエンヌは成功した作家で、世間の評判も良く、出版界でも一目置かれています。前の結婚で生まれ、成人した娘1人。新しい奥さんカリーヌとの間には幼児1人。アシスタントがおり、著名人の集まるパーティーなどでも常連。お金も十分。

長女のロリータちゃんはやや太め。古典的な美人ですが、現代には合わない顔。これといった強い希望が無く、なんとなく毎日を父親のそばで過ごしています。現在根気良く続けているのはクラシックの歌。美声で、仲間数人と合唱をやっています。先生によると「声はきれいだけれどそれ以上では無い」とかで、特に将来を嘱望されているわけではありません。

家に戻るとロリータと同じ年代の後妻カリーヌがいます。幸い継子いじめなどをする人ではなく、「一緒にショッピングに行こう」とか、「ディスコでダンスをしよう」とかいろいろ声をかけてくれます。本人にその意図があるか無いか分かりませんが、若くて魅力的なカリーヌがロリータを連れていると、ますますカリーヌの魅力が際立ってしまうという、ロリータにとっては都合の良くないことが起きます。

父親は自分の仕事に忙しく、あまりぱっとせず自分になついていないロリータをやや敬遠。とは言え、虐待するのではなく、自分でいいと思う方法で面倒は見ています。ただそれがロリータの希望と噛み合っていません。

父親の名声はかなりなもので、ロリータにさほど関心を持っていなかった歌の先生シルビアも、ロリータの父親がエチエンヌだと知ると、俄然関心を抱き、会いたがります。シルビアの夫はまだ2冊しか書いていない自信喪失中の作家。ロリータにしてみれば周囲の誰もがこういう風に自分でなく、父親目当てに近づいて来るということの繰り返し。人生にすっかり失望しています。

ある日セバスチャンという青年ジャーナリストが近づいて来ます。ロリータが父親とのコネを作ってあげたので、感謝されています。ロリータは《どうせまたそういう新しい取り巻きの候補だろう》と思って、セバスチャンがルンルンになろうとしても無視。

歌の先生シルビアはどんどんエチエンヌの取り巻きの間に入って行き、ロリータの歌の世話も以前より良くやるようになります。田舎の家に招待され、地元の教会で小さなコンサートが開かれます。合唱団全員出演で、エチエンヌの取り巻きも皆聞きに来ています。すっかり上がってしまったロリータですが、がんばってきれいな声を披露。先生もセバスチャンもうれしそうです。ところがエチエンヌは最初の3分を聞いたら外へ出てしまうのです。何か小説のネタになることを思いついたらしく、「急いで書かなければ行けなかった」とか・・・って言うじゃない。そのことがばれてコンサートの後ロリータはまたまた傷ついてしまいます。

エチエンヌの取り巻きはそういう親子関係にある程度気づいていて、ロリータの立場を理解する人もいます。しかし面と向かってエチエンヌに言う人はいません。シルビアはしかしエチエンヌがロリータから贈られた歌のカセットすら聞いていないと知り、頭に来て、夜中大きな音でカセットをかけ、田舎の家を後にします。

ロリータは《どうせセバスチャンも・・・》と思って意地悪を言ったのですが、父親から「せっかくチャンスをあげようとしたのにあの男は約束の日に来なかった」と聞き、セバスチャンが生涯ただ1人の男だと悟り、慌てて後を追います。

この2人のエピソードが救いです。後はエチエンヌに使われっぱなしの人間を描いています。エチエンヌはカリーヌすら怒らせてしまい、彼女は家出もします。カリーヌがいなくなると涙を流しロリータに慰められるエチエンヌ。しかし取り巻きが全員揃っていると、相手の心に配慮せず、グサッとやってしまうエチエンヌ。エチエンヌの矛盾した性格、ロリータのちゃんとあるのに出せない主体性、夫のためを思って一生懸命コネを作ったのに後で自分が失望し、はっきりした態度を見せる歌の先生、そういう事態になってもエチエンヌと袂を別てないピエール。こういった人物がややこしくなり過ぎずに描かれています。

見終わってみると非常に欧米的な親子関係で、身近にもいくらでもバリエーションはあるなあと思いました。映画でもよく見るテーマです。ビッグ・フィッシュアグネスと兄たち(間もなく記事出します)がいい例でしょう。日本ですとあまりこういう親には出会いません。日本でもこのパターンに近いかと思えたのは、ある俳優が自分の娘の問題を本にして出版した話。出版の後娘はもっと不幸になってしまい最近亡くなったと聞いています。あの親子はみんな誰かの愛しい人 のように父親が望む娘像と娘が望む父親像がすれ違って、出版後不幸の連鎖反応が始まってしまったのではなかったかと思いますが、西洋っぽいケースと言えるかも知れません。

どうやらこれは西洋では長い間そのまま放って置かれた問題らしく、巷でもこういうケースのために娘や息子が精神を病んでしまうケースは珍しくありません。日本人のように《自分は引っ込んで娘や息子の成功を喜ぶ》というパターンは存在しません。《この差どこから来るんだろう》と長い間考えています。儒教とキリスト教の違いなのか、狩人と農耕民族の違いなんだろうか。西洋ではエチエンヌのようなケースが自然。日本では目立ちます。日本ではチチロウ氏ではありませんが、《息子がチャンスをもらえるのなら自分は・・・》という考え方が一般に受け入れられます。子供を出世させるために心血を注いだ親の伝説は時々聞きますし、政治家などで名を成している人たちも《息子の入る余地があれば》と、子供のために出番を作っている人がいます。よい事、あまり望ましくない事、分野によってさまざまですが、日本では親が子の成功を祈るという傾向は強いようです。

そういう親はおおむね子供に感謝されますが、おしつけがましく感謝を要求するという行動も日本ではあまり見られません。ドイツは結構その辺うるさいです。私は日本から来たほかの人に比べ表面的なカルチャー・ショックは少なかったのですが、長く住んだ後になって全然違う方面でカルチャー・ショックに出会い、まだ戸惑いから抜けていません。《子供に利のある事をする親》というのがあまりにも当たり前に思えたので、《子供と張り合う親》という別な文化にまだなじめないのです。なじむどころかまだきっちり理解できていません。しかし欧州の文学には昔からそういう例が多い!だから私はこの映画も本当なら理解しなければ行けないのでしょう。

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