映画のページ

テイキング・ライブス /
Taking Lives /
Taking Lives - Für dein Leben würde er töten

D.J. Caruso

2004 USA/Kanada 109 Min. 劇映画

出演者

Angelina Jolie
(Illeana Scott - FBIプロファイラー)

Ethan Hawke
(James Costa/Martin Asher - 美術品のディーラー)

Paul Dano
(Martin Asher、少年時代)

Kiefer Sutherland
(Martin Hart)

Gena Rowlands
(Rebecca Asher - 双子の息子の母親)

Olivier Martinez
(Joseph Paquette - モントリオール警察の刑事)

Tchéky Karyo
(Hugo Leclair - イリアーナとFBIで一緒に研修を受けたことのあるモントリオール警察の部長)

Jean-Hugues Anglade
(Emil Duval - モントリオール警察の刑事)

Marie-Josee Croze (モントリオール警察の検死官)

見た時期:2004年12月

井上さんに触発されて3本犯罪映画を立て続けに見てしまいました。ドイツではそれほど評判になりませんでしたが、なかなかおもしろかったです。

フランスが大スターを3人カナダに貸し出しての制作。超贅沢作品です。

要注意: ネタばれあり!

主演にアンジェリーナ・ジョリーを据えたのはちょっと不満です。今一つしっくり来ないのです。ボーン・コレクターで似たような役を演じていたから彼女に白羽の矢が立ったのかとは思いますが、他にもっとぴったり来るような女優がいたのではと思ってしまいます。例えばリンダ・フィオレンティーノでも良かったかと思います。ドイツにはフィオレンティーノ・ファンというのがいるのですぐ頭に浮かんでしまうのですが、繊細さを持ち合わせかつタフな神経もという女性の役者は多くありませんねえ。と言うか、特定の役を押しつけられて、実力を見せるチャンスの無い女優が多いのでしょうか。

ここからばっちりネタがばれます。見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

事件は20年近く前のカナダに遡ります。マーティンという少年がカナダで車に轢かれて死んだということになります。この少年はレベッカ・アッシャーという女性の息子で、以前は双子の兄もいました。兄はその時すでに溺死しています。

マーティンが交通事故で死んだはずのこの時、マーティンは一緒にいた少年と摩り替わります。ですから生きています。

現代。やはりカナダ。工事現場で発見された白骨死体に手が無かったため、殺人事件だろうとの当たりをつけ、モントリオール警察が動き出し、主任ユーゴ・ルクレアは FBI にプロファイラーの応援を頼みます。この主任、ドーベルマンではありませんので、凶暴性はありません。ご安心を。主任が以前知っていた FBI の捜査官イリアーナ・スコットの訪問を受けます。彼女は早速いくつかの(当たってしまう)推測を打ち出します。地元警察のデカはあまりイリアーナの登場を喜びませんが、捜査ははかどって行きます。

彼女のモントリーオール滞在中に次の事件発生。現場の目撃者で美術商のジェームズ・コスタの証言を得、犯人の似顔絵が作られます。刑事たちはコスタを容疑者と見るか証人と見るかで戸惑っています。で、ちょっとコスタに対してトリックも使ってみますが、ぼろは出ません。

全く別な所では老女が警察に出頭して来て、「死んだはずの息子を見た、危険な人物だから注意してくれ」と言いますが、警察はこの段階ではあまり熱意を入れません。

イリアーナは確実な歩調で事件の解明に力を尽くし、これが連続殺人事件で、80年代から何人もの犠牲者が出ていること、そして犯人は死んだはずのマーティン・アッシャーであることをつきとめて行きます。

ここまでを見ていると映画になるべきシナリオで、あと1歩でセブンに負けるとも劣らぬスリラーになったと思います。あと1歩で負けたのはアンジェリーナ・ジョリーの出す雰囲気のせいではないかと思うのです。演技が悪いというより雰囲気。

事件がどういう風に起こっているかと言うと、マーティンという天才的な少年がいて、ヤドカリ計画を実行しているのです。出会った人物の中から自分が乗り移れそうな人間を選ぶと、その人を殺し、一定期間その男に成りすまして暮らすのです。ばれそうになったり、その人物に飽きたりすると次に乗り換えてこの20年をはしごしながら過ごして来ています。全然ばれてはいないようで、毎回まんまと逃げおおせている上、マーティンに対する手配は出ていません。1番最初の事件は偶発的に起こったのかも知れません。

その1回目に成功したものだから2回目、3回目と回が重なったのかも知れません。元々双子として生まれたのですが、母親が変わった人で、長男1人にしか愛情を注がなかったようです。その長男が溺れて死んでいます。その後暫く1人息子として過ごしていますが、ある日家出をし、車で一緒に旅行をしていた少年に成りすまそうと思いつきます。行けそうだと思ったところで、思い切りよく目の前に走って来る車の方へ突き飛ばします。少年を轢いたドライバーと少年を一挙に片付け、身分証明などを取り替え、マーティンは死んだ少年に成りすまします。

それから数人を殺し、そのたびにヤドカリのようにしてはしごしていましたが、実際に殺されたのが誰だったかをイリアーナは徐々に解明して行きます。そこで行き当たったのがアッシャー夫人。調査のために訪問します。ここでイリアーナは夫人の家に地下室があるのに気づき、後で様子を探りに来ます。マーティンが横になっただろうと思われるベッドに自分も横になってみてマーティンという人間の行動を探ります。

こうやってマーティンという人物を心理的に追っているイリアーナですが、現実世界ではコスタと関わりが深まって行きます。彼は唯一人マーティンを見、生き残った人物で、美術商という商売柄絵を書くのが上手です。できあがった絵はキーファー・サザーランドにとても似ています。

テレビでも活躍のサザーランドですが、映画ではもっぱら悪役。ですから彼が妙な行動を取っても驚きませんが、イーサン・ホークも怪し気。犯罪映画を見慣れていると、2人がつるんでいるのだろうぐらいの予想は簡単につきますが、サザーランドが死ぬまでのいきさつはわりと意外と言うか、ちょっとあの忙しい中実行するのが不可能に見えます。

イリアーナはヤバイと感じながらも《容疑者》ではなく《証人》のコスタと一夜を共にします。しかし捜査はマジで続けます。するとやはりコスタが容疑者として浮かんでしまったのです。

マーティンの死体であるはずの男の確認をした時レベッカにはマーティンがまだ生きていることが分かります。それもかなり近い所にいると察します。近過ぎました。マーティンはエレベーターの中でレベッカに襲いかかり、トンズラ。

警察側では刑事トリオの1人を失っており、今度は重要証人のレベッカも失い、マーティンを取り逃がしたというので、イリアーナは責任を問われて FBI を退官します。

それから9ヶ月。臨月のお腹を抱えたイリアーナは田舎に引っ込んで子供が生まれるのを待っています。そこへやって来たのがマーティン。取っ組み合いの戦いの末、マーティンはイリアーナの腹にナイフをつき立てます。イリアーナはマーティンの胸にはさみをつき立てます。勝負あり。イリアーナが通報を入れます。

実はイリアーナの妊娠はフェイク。引退もフェイク。彼女を囮にして、マーティンの登場を辛抱強く待っていたのです。マーティンの方も彼女の行方を追い、辛抱強く観察していました。似た者同志の忍耐作戦。結果はイリアーナの勝ちです。

私にはイリアーナはマーティンと一夜を過ごした時すでにこの罠を考えていたのかもしれないと思えました。イリアーナは頭脳型でなく直感型のプロファイラーなので、マーティンが怪しいという感覚は最初の出会いからあったのかも知れません。その辺は脚本家がどういう意図を持っていたかに左右されます。

ジョリーのお腹がインチキだろうというのは見え見えの演技ですからすぐ分かりました。お腹に武器を隠していたのかとすら思えました。マーティンとは相討ちも覚悟していたのかも知れません。元々デートより仕事という人ですから。

セブンに比べやや良かったと思えるのは犯人のキャスティングと演技。ケビン・スペーシーのしつこそうな演技はあの役には合っていたかも知れませんが、イーサン・ホークは常人と見えないこともない、だから犯人かどうか分かりにくいという微妙な点が上手く出ていました。いかにもという異常男にはしていません。その点は評価が上がってもいいかと思います。ドイツの映画雑誌などでは無視に近い地味な扱いでしたが、犯罪映画ファンの方には楽しめる作品です。

この作品で描かれている人物はかなり極端で、しかも凶悪犯罪者。現実にはこういう天才的な人物はほとんどいないでしょう。映画になったということは全米やカナダで過去50年に1人ぐらいは出たのかも知れませんが、頻度としては低いでしょう。

しかし私はあまり人事のようには思えませんでした。ドイツに住んで長いので、日本が現在どういう風になっているかは分からないのですが、私の周囲にはヤドカリさんが結構多いのです。犯罪に発展する例は1つも知りませんが、他人のキャラクター、癖、好みから人生の目的、職業の選択に至るまで、真似のできる事をぴたーっと真似してしまう人物に何度か出会ったことがあります。人によって度合いが違い、病気とは言えませんが、中には極度に自分を 透明にしてしまって、自分の中に他人の色彩を全面的に取り入れてしまう人も見ました。真似をされる側は気味のいいものではありません。

知り合いの洋服と同じ物をそろえ、会うたびにその人が自分の持っている服と同じ色やデザインの物を着ていたという人、自分に適性があるか、好きかを良く考えずに全く同じ職業を選んでしまった人、常に知り合いと100%同じ本を読んでいたい人、その人が食べる物を全部知っておいて、自分も食べようという人など色々なバージョンがありますが、極端で《ここまでやるか》と思えるような行動を取る人もいます。なぜ起こるのでしょう。

映画の中のマーティンは出会った人物を自分に取り入れていますが、自分が空っぽだからやむを得ずという風には描かれていません。金庫破りが1つの金庫を破って金を奪った後、何ヶ月かして、また別な金庫を狙うのに似た面があります。空っぽさに悩んではいないようで、いわば積極型です。私が出会った人たちは自分の中に真空地帯ができていて、やむなく付近の空気を吸い込んで生きているというような印象でした。世間にはこういう仕方なくという型の方が多いのではないかと思います。共通しているのは自分の中に他人を取り込むスペースがある点。それと、自分に取り入れるのはその時その時には1人に限定されているところです。

私の時代には学校などで《人から影響を受けろ》と何度も言われました。偉人の伝記などを勉強させられ、そういう人の良い点を自分にも取り入れろみたいな話です。先生の中には偉人ばかりでなく、良い先生、良い知り合い、良い友達の真似をしろというような話をした人もいました。口答えをする世代でなかった私たちはそういう話もマジに受け取り、言われた通りにしたものです。ですから私たちの世代は多くの人の長所を自分に取り入れて来ています。

ドイツの学校で果たして偉人の伝記を勉強させ、最後に先生が《こういう人の真似をしろ》と言うかどうか怪しいですが、私の周囲で真似をする人は、日本の例のようにあっちこっちから色々な人の長所を集めて来て、真似をするのではなく、1人の人間に集中しています。長所、短所などと選り好みはしません。で、決定的な間違いを生じます。

どんな人にも良い面と悪い面というのがあるでしょう。偉大な発見をした人でも家族にとっては負担だったという例もあるでしょう。何も偉業を成し遂げなかったけれど家庭の良い父親だったなどという人は有名になることはありません。で、賢明な学校の先生は「そういう偉人の《良い所だけを》取り入れろ」と言ったのです。身近な所にいる誰かを捉まえて、その人を100%コピーしてしまうと、欠点もコピーされてしまいます。そんなアホな・・・事をする人がいるようなのです。

それにしても分からないのはなぜここまでして他人になりたがるのかという点。良い点を取り入れるというのと誰かになり切るというのにはかなり違いがあるように思えるのですけれど。

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