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風邪は万病の元・・・ 1

昔の人の経験値

考えた時期:2017年2月から暫く

まえがきとして書き始めたのですが、長くなったのでこちらに移しました。

4月に部分復帰できると思って書き始めましたが、体がエンストを起こしたので暫く時間を置きました。

★ 風邪は万病の元、風が吹けば桶屋が儲かる・・・

風が吹くと桶屋が儲かると言いますが、そんな例です。風邪を引いたら目の手術になりました。

誰もがこういう経過をたどるわけではありませんが、大風邪を引き、風邪の症状が収まった後、下に書いたような状態になったら、念のため粘膜が普通に機能しているか考えてみてはどうでしょう。

昔の人は知っていた・・・: 風邪は万病の元。

★ 事の発端

タイトル通り風邪です。

職場に時々海外で休暇を取る人がいて、休暇から戻って来るとなぜか風邪を引いています。数日で社内に風邪が蔓延。元からその時期に休暇を予定していて休む人、フルタイムでない人もいて、そこへインフルエンザの病欠者が加わります。すると出勤している社員がフロアで1人か2人になってしまうこともあります。

ドイツでは病気に起因する欠勤(= 病欠)について法律できっちり定められていて、いくつかの条件が整うと医師が書類を出し、出勤停止になります(労・使・医師の中で1番強いのが医師)。職場のポスト、給料に影響が出ないようになっています。短期間なら病欠中の給料を会社が負担、中長期に渡るとある時点から健保が負担するようになっています。なので癌など時間のかかる病気でもとりあえずは職場の地位は保証されています。

普段医者に行く時など私は休暇を取っていますが、これは日本式。ドイツでは体調が悪くなると心配せず医師を訪ねることができ、結果医師に「休め」と言われれば病欠です。誰も逆らうことはできません。そういう風に法律で決まっています。

★ 風邪は治った・・・

結構ひどい風邪で私も同僚たちも苦しみましたが、3週間、4週間ほどするととりあえず出勤できるようになり、大抵の人は1週間か2週間正式な病欠をしていました。自分の体調以外に「他の人に移しては行けない」という意味で出勤が止められることもあります。マラリア、エボラ、天然痘、赤痢、黒死病など怖そうな病気だけでなく、インフルエンザもそこに入ります。

私もとりあえず所謂風邪の症状が収まったので出勤。ところが嗅覚と味覚が戻って来なかったのです。それが暫く続き、変だというので、ためらいつつも近所にある大学病院の耳鼻咽喉科に出向きました。なぜためらったかと言うと、病院の待ち時間が長くて、その日はほとんど仕事にならないからです。しかし風邪は治っているのにいくら何でもこれほどの期間嗅覚や味覚が戻らないのは変だというので、きちんとした設備の整っている病院を選びました。

それまでおいしいと感じていた灰色パン(黒パンほど黒くないけれど白パンではない。おいしいよ!)が、ダンボールのように感じられます。

こういった症状を超極端、劇的に脚色して作られたのが、2011年のファンタにも来たパーフェクト・センスです。2011年の制作です。伝染病の影響で人類は嗅覚、味覚、聴覚、視覚の順番に感覚を失って行きます。触覚だけはまだ残っているようです。

私の症状がこの映画と一致しているわけはありませんが、私はインフルエンザとは関係なく、痛みを感じる感覚はかねてから鈍め。原因はまだ分かっていません(重症火傷の時はこれが幸いし、少し助かりました)。今回のインフルエンザ騒動では嗅覚と味覚障害がほぼ同時に発生。発声障害がその後を追い、視覚障害が去年の中頃から急速に悪化しました。全部が1つの原因とは考えていませんが、医師の見解では粘膜がやられたようで、そういう意味では関連性があります。

フルタイムの人より1週間ほど少なめに働いているので、仕事の無い日を選んで病院に出向きました。

★ あちらは知っていた

病院の方ではこういう患者をもう扱っていたようで、手馴れたもの。ラジオでちょくちょく話題になっていた《新型インフルエンザ》の最近の菌にやられたようでした。ベルリンには過去にも何度か《新型インフルエンザ》が襲来し、大規模な病院では患者が大挙して来る場合に備えて廊下に人が並ぶラインまで準備ができています。救急へ出向く患者のお供をした時に初めてその事を看護人から聞きました。廊下には確かにラインが引いてありました。

私が大当たりしてしまったのは最近海外から入って来たインフルエンザのようで、そのインフルエンザに対するワクチンの準備は間に合っていないような印象でしたが、病院は後遺症で来る患者の事は把握していました。

で、私は耳鼻咽喉科にかかることになったのですが、同時に回されたのが言語障害を扱う音声言語科。声が出なかったり嗄れたりする症状を報告したのですが、自分では言語障害とは思っていなかったので驚きました。元々は比較的澄んだ声だったのですが、最近アル中の老女のような濁声になっていました。

両方の科の助言と処方で1年ほどかけて全部が少しずつ治っていました。速度は遅いですが、確かに快方に向かっていました。

★ また風邪を引いて

同じ人物が1年ほどしてまた社内で風邪を移しまくりました。私が変だなあと思っていたのはその人物の挙動。普段休み時間にその人が座るのは私の隣。机の隅なので90度の角度があり、対面にはなりません。ところが風邪を引くとなぜかその人は私の正面に座り、私が風邪を引くまでせっせと咳やくしゃみをするのです。日本人ではないので口の前を手で遮ったりはしません。同僚に話したら、この人は時々そういう事をするんだとか。

と言うわけで2度目も移ってしまいました。勤続年数の長い同僚は2度目どころではなかったようです。私は普段はこの人と仕事中にはあまり密な接触は無いのですが、他の同僚は結構身近にうろつかれており、1度始まるとほぼ全員が移っていました。

私の治りかけていた嗅覚、味覚、発声障害は元の木阿弥。最初からやり直しです。2度目は治りが悪く、翌年もずっと治療を続けていました。この時点で風邪が体内の粘膜を壊滅状態にしたと言われていました。

★ 秋風邪は心地いい秋風ではない

もう20年に近くなるでしょうか、私には眼科の主治医がいて、毎年定期健診に行っていました。

私の入っている健保の会社は、顧客がある程度の年齢に達すると、いくつかの病気の定期健診を勧めます。検診を受けたのに病気になった人 は個人負担分を軽減してもらえます。この会社は率先してそれをやっていました。どうやら日本の早期発見システムをパクったようなのですが、国としてドイツもある時期からこのやり方を取り入れ、私の会社では大きな成果を出しています。 当初はライバル会社から「1つの社だけ患者を優遇した」というので訴えられたりしていましたが、政府が早期発見の効果を認めたためか、その後他の会社もやるようになりました。

ちなみに保険会社と呼んでいますが、ドイツには法律で決まった国の健康保険があり、民間の会社はその保険の条件を下回らなければ民間会社として保険の顧客を募集していい事になっています。社会保険局や労働局などに支払う保険料は同じのようです。

最初の10年ほどは何事も無く、定期検査を1年に1度クリアするだけでした。今から10年ちょっと前に時々書いていたように重症の火傷を負い、暫く床についていました。ようやく歩き回れるようになって暫くした時に、電気もついていないのに暗闇でなぜか光が見えたのです。すわ網膜剥離と思い、大学病院へ飛んで行きました。

★ 経験談に感謝

私がかかっている眼科の主治医は、知人の主治医でした。その人は今の私ぐらいの年齢で、ちょくちょく仕事先から大学病院か、この先生の所へタクシーで飛んで行っていました。

職場では「老人の戯言、人の注目を集めるための芝居」と思われていたのですが、私はこの人物と一緒にする用事があり、比較的近くで知っていました。年長者だし、一応私の上に立つ人だったので話半分と馬鹿にせず、マジで聞いていました。

その話、そして眼科の主治医が「これこれが起きたら自分をすっ飛ばして大学病院の救急科へ出向くように」というのも聞いていたので、私は病院へ。その後取り敢えず様子を見ようということになり、主治医の元へ。

それ以来症状に応じて年2回か4回の定期健診を受け続けていました。大学病院へ行った時は危なかったのですが、その後生活習慣や、起き易い状況の説明を受け、注意しながら10年強を過ごしていました。アドバイスの1つは水分を十分に取ることでした。

当時他の医者からも「水分を1日2リッター程度取ると健康維持に役立つ」と言われており、「重症火傷後の日常生活は、2リッター以上の水分とクリーム常用でかなり過ごし易くなる」とも言われていたので、守っていました。

★ 突然坂道を転げ落ち始める

ところが昨年の秋から水分を取っても、食事を取ってもだめ、体に役に立っていないような感じになりました。髪はパサパサ、爪には変な筋が出て割れ易くなり、火傷していない所の肌もクリームを使わないとカサカサ。眼科でなく、一般の主治医は「年齢の加減ではないか」と最初言っていましたが、秋からの1ヶ月ほどで急激に起きており、老化ならもう少しゆっくり進むのではないかと思っていました。

10月には年2回の大学病院の定期健診。そうなのです。ちょっと前までは眼科の主治医の検査が年2回か4回だったのですが、大学病院が最近年2回独自の検査を提案するようになっていました。主治医とこの病棟は関係が密で、両者とも「無駄足でも1度多く来る方が、少な過ぎるよりいい」と発言しており、最近は比較的何度も眼科に顔を出していました。毎回「安定している(から緊急に手を打つ必要は無い)」という診断でした。じゃ、来なくてもいいじゃないかと思う素人の私を差し置いて、病院も主治医も「来なければだめ」とのたまう。金儲けのために言っているのではありません。何しろ両者とも休み時間も取れないほどたくさん患者を抱えているのです。

10月の大学の検査では手術が検討され、「もう暫く様子を見よう」ということになりました。過去の「様子を見よう」とは違い、手術が目の前に迫っている感じ、秒読みがスタートしたようでした。同じ情報は眼科の主治医にも届いており、主治医も自分で検査しています。両者とも以前よりきっちり「変化があったらすぐ飛んで来るように」と言っていました。

普段なら6ヶ月ほどの間隔で検査をする大学病院ですが、この時は12月に来るように言われ、そこで手術決定。

・・・と簡単な話のようですが、12月は会社から直接救急に出向いたり、休みを取って出向いたりと怒涛の1ヶ月でした。20年も前に上に書いた知人が経験していたのとほぼ同じ事になっています。

★ 合議制

市内には必要も無いのに後で視界に穴が空く手術をしようとする藪医者もいます。(1度いつもの先生の所へ行く時間が無くて家の近くの眼科にかかったら、「即手術」と言われたので即刻首にしました。それから5年以上手術をせずに持ちました。)私の病名は井上さんのと全然違うのですよ。何度も検査に出向かせ、慎重に検査をする主治医と大学病院にはそれなりの信頼を置いていました。

信頼するもう1つの理由は合議制。主治医とこの病棟の連絡がいいのはたまたま。そういう先生もいればそうでない先生もいます。大学には医師の身分制度があって、若手(なりたて)、中堅、トップという3種類の医師が働いています。加えて専門知識を持った、機械の扱いに慣れたスタッフが検査を行います。

患者はまず種々の検査に回され、その後若手の医者の検査を受け、その医師が一定の結論を出します。暫く待たされ、中堅が登場。その2人が検査結果を見ながら医学的な結論を出します。それを私に伝え、選択の余地がある時は私とも相談します。

手術の話が出たのは最近で、2人が私に病状の進行具合を説明して、「もう少し様子を見よう」ってな事を提案します。

こういった話の最中にインフルエンザの話が出、水分の吸収の急激な低下が目に悪影響を与えたのだろうという事を聞きました。風が吹くと桶屋が儲かりますが、風邪を引くと目が悪くなるようです。眼球はほとんどが水だと聞いたことがあったので、桶屋が儲かる話は与太話ではないようでした。ちょうどその頃一般の病気の主治医と壊滅した粘膜を回復させる作戦に取り掛かり始めたのですが、目の病気には間に合わなかったようです。

12月は医師の意見が割れ、驚いたことに大学病院の眼科のクリニックの所長の部屋に通されました。中堅の医師は「自分は怖くて手が出せない」と言ったのですが、所長が自ら手術をすると言い、説明をしてくれました。

この時は2つの病気が絡み合って、網膜を引っ張る結果になり、急いで網膜を元に戻そうというプロジェクトでした。水分が十分吸収されていれば眼球にも十分水が送られ、縮むことは無かったのではと素人の私は思ったりしました。

★ 番狂わせ!

元の計画では2月半ばの月曜日に入院開始。翌日が手術。その後数日様子を見るために入院を続け、大丈夫なら退院となっていました。

すぐそのまま眼科の主治医にバトンタッチして、その先生が病欠証明書を出しながら、回復の様子を観察し、十分回復したところで職場復帰ということになっていました。

予定通り私は病院に現われ、所定の手続きを終えて病室へ。その日は1日中検査、検査であちらこちらの病棟に送られました。いつも行く外来の近くに入院患者専用の検査の部屋が並んでいます。全部終わって、翌日のスケジュールをざっと聞いたところで1日が終わりました。

入院前に「テレビ用のヘッドホンを持って来るように」と連絡を受けていたので持って行きましたが、目が悪いのにテレビなんか見ていいのかは分かりませんでした。同室の人も、私も検査疲れでテレビどころではなく、部屋の静寂をうれしく思っていました。

☆ 番狂わせ 1

この日の検査で状況が悪化していることが判明。2つの病名が絡んで1つの手術のはずだったのですが、3つ目の病気の急激な悪化が発見され、それがかなり進んでいたので、そのためにも大掛かりな手術が必要だということになりました。3つの病気のため2つの手術だそうです。

その話だけでもちょっとした衝撃だったのですが、手術の際、右目の視力を左に合わせるか、左目の視力を右に合わせるか、それぞれそのままの視力にしておくかという変な議論になりました。

3つ目の病名が登場しただけでもサプライズで戸惑っていたのですが、左目の近視がかなり進んでいたと知らされました。かつては右目はド近眼、左は眼鏡が必要ないかも知れない程度の健康な目でした。その後左に疾患が生じたため、視力としては良好でしたが、左がとらえる画像には視覚障害が出ていました。ただ、私はこの疾患を抱えたままでも生きていけると判断して10年持たせていました。

その間に脳が画像のあやふやな左目をカバーするために右目を使っているのだと思っていたのですが、脳は徐々に左右の目の視力を平均させていたようなのです。そのため右ほどのド近眼ではありませんが、左の視力は落ちていたようなのです。

その左目にさらに3つ目の病気が登場し、その治療が非常に緊急だということで、同じ日に全部手術をするか、2つの病気と3つ目の病気の手術を3週間ほど間を置いて別々にやるかで議論になりました。この点は私(患者)があれこれ言っても仕方がないと思い、病院の判断に任せようと思いました。その場では結論が出ず、手術直前に所長が判断するような雰囲気になって行きました。

次の問は視力をどちらに合わせるか。私は最初健康な左の視力を、わざわざド近眼の右に合わせるのに反対でした。ところが主任の先生はしきりに右に合わせるように勧めます。左右で大きな開きのある別々な視力にすると、脳が混乱を起こすというのが彼女の論拠。目をガラッと変える手術なので、「手術後何年か経ってまた手術が必要か」と聞いてみました。答は「1回切りで済む」でした。

それでもすぐには納得でできなかったのですが、「左右の目で同じ物を見ても、脳が違う大きさに感じる」と言われました。「1つの物を見て2つの大きさの違う像が見えるのか」と聞いたら、「そうなる」ということだったので、諦めてド近眼の方に合わせることに同意しました。

現在私は良く合った眼鏡を使用していて、ド近眼の右目ではるか遠くの像がはっきり見え、駅などでも書いてある文字が良く見えます。退院後は視力に合った眼鏡を作るしかありませんね。若い頃はしょっちゅう視力が変わるのでひどい時には年に2回眼鏡を作ることもありました。当時は眼鏡は高かったのでえらい苦労をしました。年収の何割かが眼鏡に消えていました。

その後格安の眼鏡を売る店が増えました。そうなってから私の視力は非常に安定し、読書用に新しいのを2度作っただけで、普通の眼鏡は90年代の後半に作ったのがずっと使えました。壊れたのは柄の方で、視力はずっとそのまま。柄が壊れて新しく作った方も10年近くそのまま使えました。

こういうありがたい状況もそろそろ終わり。「手術の後9ヶ月程度様子を見て、視力が落ち着いたら新しい眼鏡を作るように」、と言うか「退院してすぐ新しい眼鏡を作らない方がいい」と助言を受けました。

もしかしたらその後は落ち着いた視力でずっと行けるかも知れないと希望を持っています。

去年の秋頃から何となく視界が暗いような印象があったので、時々検査の時に言っていたのですが、その時はこれと言った病気は発見できませんでした。しかし手術前日に気合を入れて血圧から何からあれこれ検査。これまで使ったことのない機械も使っていて、そこで発見されたわけです。病気が見つかったとなると病院の言うことに従うしかないので、「今一緒に治療してしまうのもいいか」と諦めて病室に戻りました。

☆ さあ、殺せ! - 番狂わせ 2

全身麻酔なので夜中以降食事はだめ。翌朝の5時を機に水分もだめと決まりました。同室の女性にも似たような命令が出ていました。

私より15歳から20歳ほど年長ですので80に手が届く年齢の人ですが、実に頭がはっきりしています。最初あまり話をせず、それぞれせっせと検査に行っていました。それが終わったあたりから話をするようになりました。

80歳ともなれば完全な年金生活者で、連れ合いも数年前に亡くしたと話していましたが、ボケのボの字も見えないのは立派なもの。健康上はあれこれ問題が出ていて、ちょくちょく目の治療で入院したこともあるそうですが、高齢者の手本、こうなれればいいなといった感じの人です。かくしゃくとかいうことではなく、動きは緩やか、自然。無理に若くしようというタイプではありません。同じ病室に難しい人が泊まるとちょっとした負担になりますが、私は幸運でした。

ところが翌日。その人も私もサプライズに悩まされました。午前中、早い時間に起こされ、検査に行った女性。受けた指示にびっくり。彼女も全身麻酔のはずだったのが、局部麻酔で、彼女が受けた連絡の手紙は手違い。

このあたりからちょっと不安に。というのは私も同室の女性も病院の正面玄関に「警告ストライキ中」というポスターが張ってあるのを見ていたのです。

彼女の手違いの連絡はストとは関係無いのですが、徐々に不安を覚えるようになって来ました。

私の予定は昼過ぎとなっていました。で、待つこと2、3時間。そろそろという頃に同室の女性が手術を終えて戻って来ました。「目の手術は全身麻酔の方がいい」と語っていました。私も知り合いの手術で知識としては知っていたのですが、局部麻酔ですと、医者が何をしているのかが全部分かり、ホラー映画より怖い体験になってしまうことがあります。全身麻酔だと医者が何をしているのかは全然知らずに済むのですよ。なので私はちょっと彼女に同情。

私を呼びに来たはずの女医さんから私は2度目のサプライズの連絡を受けました。この話には私だけでなく、同室の女性も口をあんぐり。

手術が決まっていたので朝食を取っていなかったのですが、早速朝食が運ばれて来て、食べ終わったら即昼食も運ばれて来ていました。

皆さん、「何じゃ、これは」と思うでしょう。

そうなのです。即時退院決定。

☆ 何じゃ、これは!?

ある知り合いに霊感があって言い当てたのかと思ったほどです。これから会社を休むという頃、ある人が「キャンセルってこともあるからな」と一言。

全くの偶然ですが、本当に私の手術はキャンセルになってしまったのです。

目の手術に経験のある同室の女性は「早朝私の手術が1番、彼女の手術が2番あたりだろう」と予想していました。その後私に3つ目の病気が発見され、元々の手術も多少時間を食うらしく、私が1番という話は無さそうな雰囲気になって来ました。そこへ看護人が「私の番は昼過ぎだろう、だから今ならまだ少し水を飲んでもいい」と言いに来ました。

ところが昼に近く、同室の人も戻っていた時、女医さんが来て「手術は中止。即退院。2日後に別な病院に来るように」と。

理由は簡単。同室の人の手術の後に緊急手術が入ったのです。私の手術は結構な時間を食うことになっていたので、はじき出されてしまったのです。怒ってはいませんが、色々検査をやり、準備万端整っていたのでちょっと戸惑いました。後日手術となるとまた色々検査になるのではないかと。面倒だなと思いましたが、出向く日の前の晩から食事と水を飲むことを禁じられたので、どうやら手術は出向いた日に行われるようです。

このサプライズにも良い点が1つ。入院していた病院は自宅から遠いです。地下鉄とバスで40〜50分。移動先は自宅のそばで、病気でなければ歩いて行ける距離。重症火傷の時も救急車を呼ばず地下鉄に乗って自力で救急窓口に行ったのですが、地下鉄がすぐ来れば10分ほどで病院の入り口ではなく窓口にまでたどり着きます。救急車を待っていたら40分以上かかったでしょう。火傷の時は一刻を争います。

同室の女性は私が移される病院にも入院していたことがあるそうで、設備が揃っているので特に不自由は無い様子。両方の病院、そして私がインフルエンザの後遺症で通っている病院はそれぞれが東大、慶応病院や聖路加といい勝負の広い敷地に建つ大規模な建物群ですが、全部がベルリンの大学の医学部に所属していて、私を手術する眼科のクリニックの所長は2つの建物で仕事をしているため、私がどちらで手術を受けても同じことだそうです。私が遠い方の病院に所属していたのはそちらに眼科専門の救急病棟があり、時々そこへ送られたためです。スケジュールの決まった手術はどちらの病院でもできるらしく、女医さんは私のアパートが近所なのでそちらに移したと行っていました。

あまり怒っていない理由は家から近くなったためではなく、以前自分の知り合いが救急病棟へ行き、そのまま手術になった、それも2度もそういうことになったためです。その時は誰か他の人が順番からはずれ、待たされたのでしょう。

こんなドラマ風の展開を予想していなかったので私はすっかり戸惑ってしまいました。

★ 新しい隣人

手術の病院では慌しく時間が過ぎました。「7時に来い」と言われて出向いたら、荷物を解く暇も無くすぐ着替えてベッドごと麻酔室に移動。担当医は何と私の修士論文に関係する言語を話す人。その方言で冗談を言っているうちに私は意識不明に。記憶にあるのは「麻酔を追加しようか」かと聞かれたこと。その時は既に手術は終わっていたのです。

その日の夕方から夜中まで強い痛みに襲われ、珍しく私は痛み止めを貰いました。食事を取るために起き上がるのも大変。

同室の女性はトルコ人と思われるイスラム教の人。まるで私のために祈ってくれているように何度も何かをトルコ語でない外国語でつぶやいていました。おそらくは1日5度の祈りだったのでしょう。ドイツが外国人のためのドイツ語講座を強化するより前に渡独したようで、ドイツ語は達者ではありませんでした。この人も連れ合いを亡くし、独り身。スカーフをつけていると目立ちませんが純真な少女のような明るい笑顔の人です。年齢は私より10歳ちょっと上。欧米では誤解を受け易いタイプの人です。言葉が通じない、外国語で祈る、人に文句を言わない(口答えをしない)といった条件が揃ってしまい、無視されたり、悪く取られたりし易いのです。ドイツ人というのは堂々と文句を言ってくれる人の方が付き合い易いと感じる人たちです。彼女のような遠慮深いタイプの人はむしろ日本人との方が相性がいいかも知れません。

私には病室に戻るたびに声をかけてくれました。面会人が来ると席をはずしたり、周囲に気配りのできる人ですが、ゴツンとぶつかるところから人間関係が始まるドイツ、ベルリンには上手に適応できなかったような雰囲気が漂います。

私は相手が何人(なにじん)でも、何か言われて理解できないと「今言った事分からなかった」と返します。理解できなかった事が伝わるだけでもコミュニケーションは始まっています。この女性はそういうタイプとはかけ離れていましたが、周囲の人に思いやりを示すことの多い人です。と言うわけで、長いおしゃべりはしませんでしたが、この病院でも同室の人には恵まれた感じです。時には感じ悪い人もいますからね。

★ 退院

手術の2日後、元々の入院からは6日後、今日退院できそうだという話を聞きました。医長が検査をして大丈夫だったら退院とのこと。両方の病院とも圧倒的に女性が多いのですが、医長は男性。普通なら患者が検査室に出向くのですが、なぜか私の所には医長が出向いて来ます。2度目。いったいなぜなのかは分かりませんでした。

前の病院で手術が決まった時もクリニックの所長が出て来たので私は不安になって来ていました。上の人が出て来るというのは普通の会社や学校ではいい事ですが、病院だと「えええ!?私、そんなに悪いの」とも思えてしまうからです。

良い方に取るなら、この病院は私を10年以上定点観測していて、その結果の手術なので、成り行きに関心があるのかなと。私に関するカルテは3センチ近い分厚さ。とは言うものの、他の患者もそのぐらいの書類は持っていたので、私1人が重症というわけでもないでしょう。

ま、眼科の主治医が自分でやらず、大病院に手術を依頼したということは、あまり簡単な状況ではなかったということでしょう。病気が3つ重なっていた、全身麻酔をするのは普通の診療所では無理、手術後暫く留め置かれたについてはそれなりの理由があったということだと思います。ドイツでは合理化が進んでいて、入院はかなり短期になっています。

長い長い間これと言った病気をせず、盲腸にすらなったことが無かった私ですが、ファイナル・デスティネーションのように10年前からのつけが回って来たのかなと思ったりします。命に関わるほどではありませんが、けっこうマジな病気が急にここに来て頻発。目の問題が片付いたら気合を入れてインフルエンザの後遺症に取り組むことに決まっているので、助言をマジに受け止めようと思っています。

ここまででもかなりな長さになりました。退院後の話は別なページに移します

★ 完全欠勤3週間

病院も主治医も即決で病欠3週間を決めています(通常は1週間や2週間)。その後は様子を見て職場復帰を目指します。主治医は段階的な復帰を勧めています。8時間労働の人が最初は3〜4時間あたりから始めるやり方で、ドイツの一部の地方で行われています。


全てがうまく行けば職場復帰は5月後半か6月になるだろうというのが希望的観測です。それまでは部分復帰で、3月末から少し仕事に出ています。やや重い病気で、中長期的に職場復帰が見込まれる人のために最初は短時間、その後徐々に勤務時間を増やして行く制度があります。

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