「昏い炎」


 人として、人の世界で生きていたときには見えなかったもの。
 見る必要なんてない……むしろ、見てはいけなかったもの。


 ただ、笑っていればよかった。
勇につき合わされ、千晶に呆れられ、何回も利用され、騙されて。
それでも、人の好い笑みを浮かべたまま、誰をも憎むことなく、流され続けるだけでよかった。

 自分が道化になれば、みんなが笑ってくれるから。
自分独りが貧乏くじを引いて、それでみんなが幸せになってくれるのなら。
与えられるものを受け入れているだけで、それなりに満足のいく結末がついてきたから。
そういう生き方に満足していたし、これからもそうすることに何の不安もなかった。


 そう、知らなければよかったんだ。
 自分の本当の心の内なんて。


――そんなに利用されるだけでいいのか?

いいんだ、と昔から自分を利用してきた親友に返す。
僕は空っぽだから。自分の意思で何かをすることは出来ない人間だから。
利用され、流され続ける限り、僕は以前と変わらないままでいられるから。

「嘘よ」

 自分の傍らに佇む、夜魔の女王が僕を見た。

「アナタは、満足なんかしてないわ。
 流され続けるフリをして、本当は何かを強く思っている。
 だって、ただ流され続けるだけのヒトが、目的のためなら誰でも殺すなんて、出来るハズがないもの」

 彼女の言葉は、僕の心の壁を砕き……見たくなかったものが、眼前に晒される。

「黙示禄の騎士に対し、闘い続ける覚悟を誓ったのはアナタ。
 女帝の問いに対し、人ならざる心が欲しいと答えたのも」

「言うな」

女王の言葉を制し、僕は天から降りてくる三角錐の建物を見上げた。



――オマエはこの世界への怒りを宿しておる!

 トウキョウ議事堂と名を変えても、かつてと同じように威張りくさったオッサンに支配されていることに変わりはないカスミガセキの一角で。
「自分は身も心も悪魔で、創世するつもりなんかない」と答えた僕に突きつけられた、一方的な……しかし、真実を見抜いた言葉。


 やめろ。
 気づかせないでくれ。
 そうすれば、僕はこのままでいられる。
 ただ、周囲に流されてばかりの、どうしようもないお人好しのままで……!


 弾かれるように、僕は魔神に襲い掛かっていた。
闘いと呼べるかどうかもわからない、一方的な惨殺。
相手の身体が完全にマガツヒの光と化すまで、僕は相手を殴り、切り刻み続けた。
……それは、現実逃避。何かを忘れようと、認めまいと、無我夢中になっていただけ。

「僕は……何も恨んじゃいない。何も怒ってなんかいない。
 ただ流されて、利用されて、それでみんなが満足してくれれば、それでいいだけなんだ。
 昔からそうだったんだ。たった、それだけだったんだ……」

 血とマガツヒに紅く染まった両手を床に叩きつけ、呟く言葉は自分への暗示。
心の奥底で昏く燃える何かを忘れ去ろうとする、愚かな悪足掻き。



――きっと、あなたの望む自由な世界も創れるハズよ……

 アーリマン降臨の生贄にされ消滅した祐子先生が、そう言って僕にヤヒロノヒモロギを託した。
……僕の望む自由な世界。僕がみんなに利用され、流されているだけで済む世界。
勇に振り回されて、千晶に呆れられて……みんなの笑う顔を見て僕も嬉しくなる、そんな日々。

 もし、そんな日々が本当に取り戻せるのなら、何も思い悩む必要もない。
こんな理不尽な怒りなんて、僕には必要ないものなんだから。

「おやまぁ、悪魔なんぞがカグツチへの道を創りましたか」

 いつものように、どこからともなく現れる子供と老婆。自分の奥の何かが蠢き出す。

「……あなたの前には、道が二つあります。人として創世を行うか、悪魔として生きるか」

 やめろ。僕に話し掛けるな。僕の前に姿を見せるな。どうか、僕に何も思い出させないでくれ。
僕はこのまま世界を創る。誰をも憎まないまま、どうしようもないお人好しの僕に戻るんだ!

「創世を目論むにしろ、悪魔として生きるにしろ……あなたの先には、安息などないのですから」

 ……目を伏せても、耳を塞いでも、老婆の声から、子供の視線から逃れられない。
僕の中で静かに、しかし確実に燃え広がり続けている、昏い憎悪の炎のように。


 彼らの姿が消えた後、僕は地面に座り込んでしまう。

「大丈夫?」

「うん……大丈夫だよ、メイブ」

 ムリに笑顔を作る。いつもこうして、僕は生きてきた。
自分の本当の気持ちに背を向けて。

「嘘よ」

 女王の優しく、そして残酷な言葉。

「今はっきりとわかったわ。アナタは、いつもムリしてきたんだって。
 何かから目を背けながら、利用されて、騙されて、笑い続けてきたんだって。
 どうして? どうしてそこまでして流され続けなきゃいけないの?
 アナタには、アナタ自身の立派なココロがあるのに……どうしてそれを蔑ろにするの?」

 僕の心を囲っていた壁が、砂の城のように崩れ去っていく。
中から現れたのは、今まで僕が忘れようとしてきた、昏く燃える炎。

「……本当は、許せなかった」

 ぽつりと、口が言葉を紡ぐ。

「こうなる前、僕はただ毎日を流されて生きてきた。
 それで僕は満足してたんだ。空っぽでも、生きていくことは出来たから。
 空っぽの僕だけど、勇や千晶と一緒に過ごした日々はとても楽しくて……」

「アナタは空っぽじゃないわ!」

 女王の憤りは、果たして僕に対してのものなのか。

「空っぽだよ。少なくとも、昔は空っぽだった。
 ヒトはどのような世界で生きるべきか、なんてイメージすら創れないくらいに」

「……」

 僕が何を言おうとしたのか察したのだろう。女王は言いかけた言葉を飲み込んだようだ。

「でも、突然僕の手から、そんな日常は取り上げられちゃって。
 何とか今までみたいに流され続けようとしたけど……流され続けることは出来たんだけど、
 やっぱり……今までと全く同じってワケには、いかなくって」

 僕は自分の手の平を見つめた。黒と碧の文様が刻まれた、かつての面影を残す異形の手。

「勇も、千晶も、みんな変わっていって、気が付いたら僕もいろんなところから命を狙われる化け物になってて。
 何でこんなことになっちゃったんだろうって……誰が何のために、こんなことを望んだのだろうって」

 そして、そのまま手を握り締める。

「最初は氷川を恨んだんだ。でも、この世界を彷徨ううちに、氷川は元々便乗しただけだって知って。
 世界がこんなになることは……神様が決めたことだったんだ、なんて言われて」

 ポタ、ポタとかすかな音が響く。

「一体僕にどうしろって言うんだ! 神様を恨めって!? 恨んでどうすればいいんだ!
 泣いても、叫んでも、世界も、勇も、千晶も、先生も、僕も……何も元に戻らないってのに!
 どこにもぶつけようが無いじゃないか、こんな気持ち!
 だったら、最初から全部忘れて、ヘラヘラと笑ってる方が楽だったってのに!!」

 もう逃れられない。自分の感情から。心を焼く昏い炎から。

「許せないんだ。憎くてたまらないんだ。運命が。神様が。何にも出来ない自分自身が……」

 不意に手に柔らかなものが触れる。女王が僕の手を取ったのだ。
気が付いたら、握り締めた拳から血が滴り落ちていた。

「メイ……」

「じっとしてて。今メディアラハンを唱えるから」

澄んだ光が僕の手を包むと、拳から零れる血が止まった。

「……ごめんね、メイブ。こんなに弱い僕で」

「いいえ、アタシの前でまで強がることは無いわ。
 アタシはアナタがガキにさえ苦戦してた頃を良く知ってるのよ?」

 クスクスと意地悪そうに、しかし無邪気に笑う女王。
彼女は最初に僕の仲魔になってくれたピクシーの成長した姿だった。

「アナタの想うままに進みなさい。アタシたちはアナタに従って、精一杯アナタの手助けをするわ。
 もし、憎しみに耐えて世界を創りたいのなら、アタシたちはその憎しみの炎を鎮めてあげる。
 逆に、アナタがその憎しみの炎で運命や神を焼き尽くしたいと願うなら、アタシたちも、全てをその炎の中にくべてあげるから」

 アナタにはそれが出来るのよ、と女王は無機質な顔で、しかし確かに微笑む。

「だから、選んで。アナタの進む道を。アナタの望む未来を」

「僕は……」

人として、自分の望む世界を創る

悪魔として、神に立ち向かう

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