TOPへ

―― 東京魔人学園外法帖 邪の章 後編 ――

「ようやく、ここまで来たな。もう山頂まで、目と鼻の先だ。雪崩に巻き込まれた時は、どうなる事かと思ったけどよ」

富士山頂附近にて、安堵の息を吐く蓬莱寺に対し、九桐が呆れた様子で鼻を鳴らした。

「何だよ、九桐。その顔は」
「御目出度い奴だ――――と思ってな」

雪崩が本当に自然によるものとは思えない。
森羅万象を司る《力》――それを柳生が握る以上、罠であったとも考えられるのだと。

「森羅万象を司る《力》……、本当にそんなもんがあるのかねえ」

言い合う九桐と蓬莱寺を面倒そうに眺めていた桔梗が、九桐の発した言葉を繰り返す。

「それを見極める為に、俺たちは、富士山まで来たのだ」

表情を引き締めた九角が、彼女の独り言じみた疑念に答える。
柳生の言葉が、真なのか偽りなのか――――確かめる為に、ここへ来たのだと。

「本当に真面目だな。俺にとっては、どうでもいい話だ」

龍斗の面に浮かぶのは苦笑。
柳生が狂うほどに求める力にも、その目的にも、興味はない。

「クックックッ。真偽ヲ確カメルカ」

誰も居ない筈の空間から、哂う声が響いた。

「ソノ願イハ、未来永劫叶ウ事ハナイ」

ぼんやりとした影が、ゆっくりと実体を持つ。
姿を現した黒蝿翁は、歓迎するかのように両手を広げ、更に言葉を紡ごうとした。

「ヨウコソ、《不死ノ山》――――ヌォッ!!」

だが、途中で問答無用とばかりに放たれた輝く氣から、かなり必死に、飛び退いて逃げた。

「貴様に用はない。さっさと消えるか、今すぐ死ね」

続いて幾つもの氣にて追撃する龍斗は、心から急いでいるようであった。
あまりに物騒な敵から目線を離すこともできず、黒蝿翁は急ぎ、短い呪を口にして、罠を発動する。

「竜攘虎搏 無幻泡影――――」

景色が切り替わる。
空間ごと移動したかのように。

「てッ、寺だとッ!?」

朽ち果てた、寂れた寺らしき場に、彼らはいた。

「雪バカリデハ、寂シカロウ。御主タチニ相応シイ相手モ用意シタ。心置キナク、死ヌガヨイ――」

黒蝿翁が示す先に居たのは、前にも見た影たちだけではない。
嘗て柳生より遣わされた剣士たち――外法により甦らされた武蔵と十兵衞の姿もあった。

「馬鹿か貴様は。倒された連中を、同じ強さのまま再び呼び出す意味はあるのか?」

呆れた――冷静な声に我に返り、皆は怪異による混乱を押さえ込んだ。

伝説の剣士たちには、剣士たちが向かった。龍斗の言葉通り――嘗て倒した相手に遅れをとることはない。

龍斗は一見この上なく無造作に、黒蝿翁へと歩み寄る。
その実、一分の隙もない。

近付かれる黒蝿翁にとっては、恐怖の塊でしかない。
半ば怯えから矢継ぎ早に呪詛を放つも、目に見えぬはずの波動を、最小限の動きだけで躱しきられる。

対応できぬほどの迅さで距離を詰められた黒蝿翁は、間近に迫った拳に覚悟を決め――嘲笑した。


「ニンゲンヨ……、滅ビノ刻ハ、目ノ前ダ」

身体を貫かれ、ごぷりと血を溢れさせながら、表情を見せぬまま、黒蝿翁は確かに哂っていた。
柳生を止める術はないと確信し、その身体を崩していく。

「斃したか。……滅びの刻とは一体」

九角の疑問に呼応したかのように、地鳴りが響いた。

「うお―――ッ!!」
「また、雪崩かッ?」

激しく揺れる地面に、悲鳴が錯綜するなかで、龍斗は腕についた血を拭い、先を急いだ。

「世迷い事について検討している余裕はない」
「うむ……山頂へ急ぐぞッ」



「よくぞ、此処まで辿り着いたというべきか。《生と死》の因果に縛られしモノ共よ」

富士山頂、大地のあらゆる氣が、渦を巻く捩れた空間で、柳生は集った鬼と龍を睥睨する。

「この世界は、誰のものでもないわ」

柳生の苛烈な存在感に、空間に澱む氣に、苦しそうに胸を押さえながらも、美里は懸命に言い返した。

「人間や動物や植物や――――生きている全ての者たちのためにある。それを支配する権利なんて、誰にもないわッ!!」

今まで誰の声にも耳を貸さなかった男が、美里の言葉には、表情を無くした。

「ニンゲンのため……だと?」

《菩薩眼》の女。
所詮、ニンゲンの世界に産まれた脆き存在など、多少龍脈を操る力があろうと、眼中になかった。

だが――今は、許せなかった。
彼女は、柳生の逆鱗を手酷く掻き毟った。

「そのニンゲンが……人間が蜉蝣を」

脳裏に浮かぶのは、配下の蟲遣いの姿ではなかった。
出会った頃の寂しい笑顔。幼い身で己が役割を悟っていた賢明な少女。

「……陽炎を殺したのだぞ!!」





独り老いぬ身体。足早に流れ去る自分以外の世界。
狂う寸前で彷徨っていた男の心を救ったのは、年端もゆかぬ少女。

自暴自棄になり、闇雲に身体を痛めつけるように旅をする男を、貧しい村の幼子が助けた。

貧しい生活の中で、死ぬはずのない魔人を懸命に手当てし、食料を出し、心を砕く幼子に、男は感情のこもらぬ声で問うた。

何故、こんな無駄なことを。
お前にはなんら関わりのないことだろうにと。

独り言のような虚ろな声にも、少女はにっこりと笑って答えてみせた。

貴方が死んだら、きっと誰かが悲しむだろうから――と。

幼さと笑顔に似合わぬ、ひどく哀しい声で。



数年が経ち、時から見放された男は、再び村を訪れた。
姿は全く変わらず――それでも心情は、少しばかり、まともになっていた。

もしも少女と再会できていれば、彼は、永遠を憎まずに生きられるようになっていたかもしれなかった。


村人たちは、口を濁した。
そんな娘は居なかっただの、村を出ただの、嫁いだの、統一性すらなく。

だが、押し黙り、大樹に向かって太刀を揮った男の力に恐怖し、あっさりと洗いざらい語った。

村の近くに住む凶つ神に捧げられる贄として、選ばれたのだと。

皆、大切な人が居る。
だから身寄りのない私が――哀しむ人の居ない私が、生贄になる。

村の総意に、彼女が自分から頷いたのだと村人たちは弁解するように言った。


男は必死に、祭壇とやらへ走った。
人であった頃ですら、これほどにも真剣になったことはなかった。

「『哀しむ人の居ない私が、生贄になる』だと?」

男は、歯噛みし呟いた。

ふざけるな。
俺が悲しむ。俺が哭く。

祭壇にて、ぎちぎちとざわめくのは、巨大な蟲。

村の守りたる凶つ神だと、連中は言った。

笑い話にもならなかった。
こんなものは低級にすぎない。半端に知性の宿っただけの、ただの妖虫であった。

男は、わずか一太刀で切り捨てた。

百足にしか見えぬ神とやらを。
口元を真っ赤に濡らした蟲を。

「どこだ……陽炎」

理性は分かっていた。

慣れた匂いが強すぎた。

あちこちにできた赤い水溜り。
散らばる欠片は、人であったもの。

蟲の口から垂れ下がっている艶やかな黒い糸は――――。



ゆえに理性を壊した。

「凶神を倒してくださってありがとうございます」

様子を窺いにきた村人たちは、媚びる笑顔で頭を下げた。

ずっと解放されたかったのだと。
今まで、あの化け物から酷い目に遭ってきたと。

己が罪から目を逸らして。
そもそもの発端は――この妖虫を作ったのは、村なのではないか。

特殊な職――蟲を遣う者たちの村なのだから。

ひとことも発しない剣士を不安に思ったのか、ひとりは、赦されないことを口にした。

――――これで、陽炎の魂も浮かばれるだろうと。


悲鳴を上げることもできなかった。
迂闊な男は、千々に斬られ、中身を晒した。

目の前の凄惨な光景を、瞬時には現実と認識できず、呆けていた村人たちの恐慌を呼んだのは、剣士の顔に浮かんだ穏やかな――優しい笑み。
彼は千切れた肉塊を、破れた女物の着物と近くの肉片へ、愛しそうに、無邪気ですらある壊れた笑みで、そっと注いだ。


深すぎる怒りに、静かに狂った男が為したのは、無茶苦茶な反魂の儀。

散らばった彼女の欠片を掻き集め。
村人たちを切り裂き、少女の断片の上に被せ。


肉体の欠損は酷かった。

だが、好条件も多かった。

大量の血。大量の怨念。大量の死。
強力すぎる邪なる者が施術者。
被術者は、死したばかり。

ゆえに反魂は成功した。

「感謝いたします。あとはアタシが――自分で身体を創ります」

にたりと。
まだ七分ほどしか出来上がっていない顔で、生前の面影もなく笑った女は、逃げ遅れた間近の子供の手を取った。


鬼ごっこの鬼は変わった。
静かに切り裂く剣士から、哄笑しながら引き裂く女へと。


「奴らを皆殺しにするまで、少々お待ちください」

逃げ惑う無力な民を、嘲笑し追う女の背をぼんやりと眺めながら、男は気付いた。

蟲遣いの村。
大量の生命。

自分が行ったのは、禍々しき大儀式。

村全体を蟲毒の壷に見立て、人を蟲に見立て。

壷の中で喰らい合い、最後に生き残った毒虫は――――。

「これで貴方の力となれる」

―――無垢であった少女。


最早、過去の話。
今は――有能で忠実な部下。最強の蟲遣い。
屍肉と蟲によってその身を形成する、既に人ではない化け物。同じく時に囚われない者。

「……陽……炎」
「嫌ですわ、その名は脆弱なヒトであった頃の恥ずべき名。新たなる名を――我が主」

膝をつき、微笑むのは、少女の残滓。
守るために命を投げ出した村人から生命力を奪い、身体の欠損を補い、整った顔立ちを取り戻しながらも、壊れた笑顔を浮かべて。

喪ってしまったことを認められなかったばかりに、決定的に違うものを創ってしまった。

「……蜉蝣」
「蟲の王、いえ、女王たるアタシに相応しいかと存じます」

虚ろであっても。壊れていても。臣下の礼をとられても。
何もかもが違っていても。

それでも確かに、彼女は陽炎だった。

ゆえに、男は、彼女を側に置き続けた。




柳生の叫びに、龍斗の特異な目には過去が映った。
ある男が、大切な少女を喪った光景が。ある男が決定的に狂った瞬間が。

「気の毒にな。――だが、貴様も本当は、分かっているのだろう? 彼女を壊したのは――己だと」

少女は、死の間際、世界を呪ったかもしれない。
いくら納得していても、本能では生じる、どうしようもなく正直な心の動き。

「村人を皆殺しにしたことはどうでもいい話だ。俺も貴様の立場なら、同じことをしただろう」

村人たちの怯えが、無言の圧力が、彼女を殺した。それは間違っていない。
だが――、彼女は蟲で構成された妖女として、蘇ることを望んでいただろうか。

しゃがれた声の女の嘲弄と。
男の――柳生の記憶の中の少女の笑みは、面影こそ微かにあるものの、別物であった。

反魂により堕ちてさえ、彼女は、正気を取り戻せたとき――本当の最期だというのに、柳生を想っていた。
それほどに優しい少女が、何年も、何十年も、命じられるままに、生命を殺してきた。


少女の身体を殺したのは身勝手な村人。
少女の心を堕としたのは――――傷付いた柳生。




「……貴様とて、絶望を知ったはずだ。地獄を見たはずだ」

哀れみさえ含んだ龍斗の眼差しに、柳生は拳を強く握った。

相手は、己と同じ存在のはずであった。

ヒトのままでは、決して辿り着けない領域への到達者。
血を吐くような想いを知り、絶望に浸かり、足掻き、立ち上がった者。

「それでも、前を向いたままの目が気に喰わん」

なのに光を失わず、前を見据えている。

「俺と貴様の――何が違うかを考えていた」

初めて会ったときは、瞳に虚無しかなかった。
黒い絶望と共に在った筈だった。

「答えは――」

心地よい闇が消えてしまったのは、人形遣いの女が現れたときから。

「――簡単だ」

今までの嘲笑とは違った。

刻への憎悪ではない。世界への憤怒ではない。ヒトへの蔑視ではない。

嫉妬から浮かんだ歪な笑み。
それは、愛する者と共に居られる男への妬み。

「貴様も失えッ!!」

同じく魔道に堕ちろとの呪い。
怨敵から遠く跳び退り、振り上げられた刃が狙うは、人形の肩に乗った黒髪の少女。

「ふざけるなッ!!」

柳生の意図に気付いた龍斗は叫んだ。


命の消えた抜け殻を二度と見るものか。
喪われた恐怖を、再び味わってたまるものか。

己の腕の中で、すぅすぅと無防備に寝息を立てる雹に誓ったのだ。

今度こそは守ると。

そのとき龍斗は、己の身の安全を微塵も考えていなかった。
己以外、柳生の相手ができるものは居ない。そして己が完全に防ぐ時間は無い。

それゆえ――せめて間に入るつもりであった。

「なッ!! なにを!?」

龍斗の足が停まる。
原因は僧侶たちによる封じの陣。

理由も分からず、龍斗は急ぎ、結界を弾け飛ばした。
だが雄慶と九桐という、法力の持ち主二人掛りの拘束結界は、破れるまでに少々の時間を要した。

ほんの一瞬。だが柳生にとっては充分に、標的を斬り殺せるだけの間。

まるで全てが『あの時』の再現のよう。
流麗で残酷な剣の軌跡も、自由に動かない己の身体も。



再現されなかったのは、肉を裂く音。
龍斗以外に防げない筈の死の刃が奏でたのは、刀との不協和音。

「龍よ、お前はまだ学んでいないのだな。全く、利口なようで抜けている奴よ」

お前にだけは言われたくないと、龍斗は思った。

「ひとりが敵わねェなら、ふたりで止めればいいんだよ。いちいち独りで突っ走るんじゃねェ」

やはりそれも、お前には言われたくないと思った。
彼らは、狙って己の欠点を口にしているのだろうか。

交差した剣にて――二人掛りで死の一撃を止めたのは、鬼の頭領と龍の剣士。

「――冗談ではないぞ。庇って死ぬなど赦さぬ」

微笑む少女は、間近で錯綜する刃にも怯えず、指先を僅かに動かした。
微かな繰りに従い、巨躯の人形が達人の剣を揮い、柳生が大きく飛び退いた。

「わらわを守ってくれると言うたな、龍様。ならば――」

眠りに入る寸前に、微かに聞こえた誓い。
優しい優しい心からの祈り。

庇われるだけの無力な女であるつもりはない。
守られるだけに甘んじるつもりはない。

ゆえに、彼女もまた誓う。

「――わらわがそなたを守ろう」

雹の強い笑みに、龍斗は知らず微笑んでいた。

「ああ――そうだったな」

また、勝手に背負い込んでいた。
あれほど皆から散々叱られたというのに。

「か、髪を乱すでないッ!! ……んむッ」

くしゃりと頭を撫でられた雹は、顔を紅くして怒鳴り――そして、唇を塞がれた。
たっぷりと時間が経過し、やっと雹を解放した龍斗は、心を素直に口にする。

「……ん、ありがとう。やはり、俺にはお前が必要だな」
「ふん……感謝するといい。わらわが優しい女でなかったら、今頃分かったのかと、頬を抓っていたぞ」

真っ赤な顔で拗ねるお姫様に、もう一度微笑みかけてから、龍斗は向き直った。
もはや憎悪の感情を隠さぬ宿敵に向かい、歩みだす。

「それの相手は俺がする。鬼どもは任せた」

前で守る友たちの肩を叩き、龍斗は、ゆっくりと構える。
既に抜刀していた柳生が、昏く笑う。

「たかがニンゲンの分際で、俺と対等のつもりか?」
「今でも、厳密には貴様の方が強いだろうな」

鍛錬は欠かさなかった。
実戦にも事欠かなかった。
死線を敢えて潜ってきた。

それでもなお、百余年を生き続けた男の方が、技量は高いであろう。

「だが、勝つのは俺だ」
「ふん……面白い。それでは、見せてみろ。貴様の《力》というのを」

神速の剣を、光速の拳が迎え撃つ。

互いに隙などなく、振るわれる全ての攻撃が必殺。
人の領域にない闘いで、明暗を分けた理由はただ一つ。


   幾度も夢に見た。悪夢にうなされた。

   鬼哭村に在った地獄を。
   血の海を。死を。
   柳生の振るう剣を、技を。

   龍斗は確かに知っていた。


嘗て異なる時空では、肩を断たれ、致命となった一撃が、龍斗には見えた。

迅すぎて完全に避けることは、今であっても難しい。
強すぎて完璧に受けることも、無茶極まりない。

ただし、力の方向を逸らすことは可能であった。

僅かとはいえ、身体を外へ流された剣士と、流し内に入った拳士。
全ては龍斗に有利に働いた。

だが、己の間合いより内に入られた柳生は、既に躱しようのない状況で、気付いた。

《陰之勾玉》の哭く声を聞いた。
共鳴する勾玉に、対の存在を察知した。

今から攻撃を受けることは、決して負けではないと理解した。

「秘拳 黄龍」
「ぐぅ…………ふっふっふっ」

確かな致命傷にも、柳生は笑っていた。

「例え、俺の身体を傷つけようとも、不死の身体を持つ俺を斃す事などできぬ」

口元から相当の血を溢し、それでも勝利を確信する。
柳生は、元より、人間と同じ土俵に存在しない。

死なないのだから。
――死ねないのだから。

必要だったのは、目の前の怨敵の僅かな隙。
止めを刺すため全力を振るった男のほんの僅かな停滞。

共鳴により位置を読み取った勾玉を奪うには、十分すぎるほどの時間であった。

「《陽之勾玉》よ――ッ、我が手にッ!!」
「しまッ……」

勝利を確信し、血塗れで笑うのは、胸を貫かれた男。
事態を理解し、歯噛みするのは、致命傷を与えた筈の男。

「《龍脈》よ、我に注ぎ込めッ!! 全ての流れよ――、我を巡れッ!! 目醒めよ――、黄龍の《力》よッ!!」




「理性は消えたな。無論、力は莫大だが」

龍斗の言葉に、皆が頷く。
敵すら理解できず、ただ暴れまわるだけの存在となった柳生から一旦退くことは、そう難しくなかった。

「所詮、柳生は《龍脈》の《力》を受け入れるだけの器ではなかったのだ。器に収まりきらぬ《力》が暴走し、あのような邪龍の姿をとったのだろう」

九角が苦々しく呟く。
今の柳生には、知性も目的もない。――かと言って、富士の氣脈を乱し続ける存在を放ったまま逃げ帰ることもできない。

「俺が戻るしかあるまい」

あっさりと龍斗が断ずる。
死に近き状況にも、慄くことはなく。

「皆は安全な場まで退いてくれ。数を揃えれば闘えるような敵でもない」

死地に戻ろうと、踵を返した男の衣を、しかと掴んだ女がいた。
思わず足を止める龍斗に、雹は酷く冷静に呟く。

「恨むだの怒るだのでは、効力はなかろうな。命を賭けることで、皆が救えるのなら、そなたは躊躇わない」

どれほど死なないでと縋ろうと、彼はそれが最善策であれば、迷わず選ぶ。
愛しい人の気性など、熟知している。

「そなたが戻らねば、わらわは自害する。愛した者を喪う苦しみを、また味わうなど御免じゃ」

ゆえに賭けるのは自らの命。
静かに、それでいて、強く宣言する雹に、龍斗は堪らず振り向いた。

冷然と、決然と。
凍りついたような面で、雹は泣いていた。

誰もが、しんと黙る。
破壊音と龍の咆哮だけが、遠くから微かに届く中で、龍斗は苦笑した。

「ひどい脅迫だ。人間としての生を止め、器と化せば簡単かつ確実に、龍脈の制御が可能となるのに――許してくれぬのか」

恋人の涙を拭いながら――まさに戻らぬつもりであったと自白する龍斗を、九角は険のある眼差しで睨む。

「その手段を選択してみろ。鬼哭村を、江戸を覆う暗雲を晴らそうと――雹も、俺も……皆同じ。我らの心は救われぬ」

まるで惚気のよう。
友人の言葉の内容に、龍斗は苦笑し、それでもせめてもの説得を口にする。

「はは……世界さえも平和なのだぞ?」

だが全く効果は無かった。
世界と天秤に掛けてさえ、彼らは躊躇いも無くかぶりを振った。

「そなたが居ない」
「それがどうした。お前のいない世界など、お前と等価ではない。戻って来い。我らの村へ」


彼らだけではなかった。

龍と鬼――ひとりひとりが、同じ怒りを宿して睨む。

世界の平和なんぞの為に、お前が犠牲になるなど許せないと。

「まったく……お前たちは、揃って我が侭だ」

ぽつりと呟いた龍斗は、まだ迷っていた。

己が身を使えば、龍脈の乱れに対しては、絶対の守りとなれるのだ。

己が戻らず、雹が本当に死のうとした場合、皆は、きっと雹を止めてくれるだろうと信じている。


「……すぐに戻る。近くで待っていてくれるか?」

答えは出た。
簡単な話だった。ただ己の心に問えば良かった。

最も望むものは、何なのかを。



一歩一歩、雪を踏みしめ進みながら、龍斗はつらつらと考えていた。

己と似ているようで似ていない男のことを。


共に人間の領域を超越した、いや、逸脱した脱落者。
憎悪によって時を遡った者も、絶望により時から見放された者も似たようなもの。

はじまりはまるで逆。
望まぬ力を背負って生まれた者と、死に瀕し、力を渇望した者。


何故こちら側に居ないのか。
何故全てを憎み絶望しないのか。

柳生の血を吐くような叫びに対する答えは、簡単だった。
あの男の出した結論は、半分正解。但し、不足。

「俺とお前の違いは、愛する女の無事か否かだけではない」

恥ずかしくて、あの場では口にできなかった言葉。

聞く者がいなければ、惚気られる。
今此処でならば、断言できた。

「俺には仲間が――友が居る」

鬼にも龍にも。

強欲にもほどがあると、苦笑してしまう。

たったひとりに執着するのならば、まだ理解できた。
閉じられた世界で、ひとりのみを抱きしめ続けるのは、狂った過去の延長。予想できる妄執。

だが違った。
皆を護りたい。皆を助けたい。

皆と――共に在りたい。皆と生きたい。

何も持っていなかったのに。生まれたときから全てを奪われていたのに。
一度手に入れたら、手放すことなどできなかった。

世界を変えてでも、取り戻したかった。



急に開けた場所に出る。
先ほどまでは、確かに洞窟であった場は、周り全てを邪龍によって破壊されたらしい。

動くものに気付いたのか、邪龍は膨大な力を照射する。
凄まじい――真っ直ぐな力を。

「阿呆だな……人間の時の方が、遥かに強い」

ひょいと無造作に避けた龍斗は、思わず呟いていた。

莫大な、だが、単純な力と、高い技量を備えた歴戦の戦士、どちらが強敵であるか。

ほんの少し考えていれば、柳生とて気付いただろうに。


攻撃を避けられ、理性を失ったまま、ひたすらに暴れるだけの柳生に、龍斗は静かに語りかける。

「貴様を心底憎んでいた」

本当は、覚悟していた。江戸を発つ前から決心していた。

柳生が人のままであれば、倒し、これからも生きられると思っていた。それを望んではいた。

だが、もし、柳生が無理に器と化し、《龍脈》の氣を身に受けることになれば、抑える為に、命を使うしかないと諦めていた。

「貴様の望みを砕けるのなら、この身など、諦められた。器と化し、永遠に貴様に対する楔となろうと決めていた」

命を使えば、恒久に封じとなる。
人柱――永遠の命でない生命をもって、柳生を封じる護りとなる。

大切な皆を――未来永劫、護りきれる。

それゆえ、もう戻れない展開をも考え、江戸にも鬼哭村にも、別れは済ませておいた。

「だが、止めておこう。これ以上奴らを傷付けるくらいならば、永久の平和などいらぬ」

皆が望まない。
恒久の平和よりも、龍斗の方が大切だと、彼らは断じた。

「後世のことなど知らぬ。後の時代は、その時代の連中が対応するだろう」

誰が苦労しようとも知らぬ。

緋勇という家の厄介な事情から考えるに、いつか己の子孫が巻き込まれる可能性も否定できないが――無責任に、任せきる。
己の血を引く者だ。きっと――――どうにでもするであろう。


「賢人たる貴様は、勝手にヒトの世を憂え。勝手に世界を呪え」

瞳が金に輝く。
身を包む烈光の輝きに、今は昏い影は無い。

「愚者たる我は平穏に生き、限られた時間を経て、死ぬ。――あの村でな」

怒りも憎悪も宿さず。
穏やかですらある声で、龍斗は宣言した。

「さらばだ。柳生 宗崇」

戻る
前編へ
中編へ