第7章
ネアンデルタール人観の変容

 

ネアンデルタール人の特徴
 19世紀後半以降、ホモ=ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)は古人類学における主要な論点であり続けてきた。これは、ネアンデルターレンシスが欧州や西アジアといった発掘の進んでいる地域に分布しており、発掘数が多く研究が進展しているためである。また、ネアンデルターレンシスはサピエンスにかなり似ており、サピエンスにとって最後の隣人であると考えられてきたので(ネアンデルターレンシスよりも後まで生存していたとされる、フロレシエンシスについては第10章で述べることにする)、サピエンスの来歴を明らかにするための格好の比較対象となったことも、研究の進展を促した。
 ネアンデルターレンシスがいかにサピエンスに似ているかということは、アウストラロピテクス=アフリカヌスやジャワのエレクトスの場合、発見当初は人類ではないとの異議が強く主張されたのにたいして、ネアンデルターレンシスの場合、絶滅人類か病変の現代人かという議論はあっても、人類であることを疑う見解はほとんどなかったことでも明らかである(Trinkaus et al.,1998,P98-99,193-214,300-304)。そのため、ネアンデルターレンシスの研究は人類進化の研究において重要な地位を占めており、この状況はアフリカや中国での発掘数が増加するまでは変わらないだろう。そこでこの章では、ネアンデルターレンシスを中心とした人類進化の学説史について、やや詳しく述べていくことにする。

ネアンデルターレンシスの定義については、意外と曖昧な状況が長く続いた。ネアンデルターレンシスの本格的な形態学的定義が試みられたのは1970年代後半になってからでTattersall.,1999,P105-109)、ネアンデルターレンシスをめぐる論争が始まってから100年以上経ってのことである。ネアンデルターレンシスの解剖学的指標は、現代人よりもやや大きな脳(平均容量1500cc)・寒冷適応体型・強い眼窩上隆起・後ろから見ると丸い形の頭蓋冠・前方へ移動した歯列・臼歯後隙などで、後三者はネアンデルターレンシス固有の形質である(諏訪.,2006、Lewin.,2002,P164-165)。
 文化的側面からは中部旧石器文化とネアンデルタール人との関連が強調され、中部旧石器時代はネアンデルタール人の時代ともされたが、レヴァントのサピエンスの中には中部旧石器文化を持つ集団がおり(大津他.,1997,P31)、ネアンデルターレンシスのなかに上部旧石器的な文化を有する集団がいたことが判明したので(この問題についての最近までの論争が、河合.,2007,6章に簡潔にまとめられている)、ネアンデルターレンシスと中部旧石器文化とを単純に結びつけるわけにはいかなくなった。
 ネアンデルターレンシスの分布域は、西はポルトガル、北はブリテン島、南はイスラエル、東はウズベキスタンまでと考えられてきた(Lewin.,2002,P170)。これだけでもかなり広く、ネアンデルターレンシスは大雑把に言えばユーラシア西部に拡散した人類ということになるが、2007年になって、ネアンデルターレンシスがウズベキスタンよりもさらに東方のモンゴルの近くにまで進出していたことが判明した
Krause et al.,2007A関連記事

 

発見〜20世紀半ばまで
 発見当初ネアンデルターレンシスは病変の現代人とも考えられたが、20世紀初頭までには太古に存在した人類ということでほぼ見解が一致した(Trinkaus et al.,1998,P98-99,P208)。そうすると次に問題となるのは、人類進化史におけるネアンデルターレンシスの位置づけである。
 19〜20世紀の変わり目の頃、ドイツのグスタフ=シュヴァルヴェは、エレクトス(いわゆるジャワ原人のことで、当時はピテカントロプス属とされた)→ネアンデルターレンシス(シュヴァルヴェはプリミゲニウスと呼んだ)→サピエンスという系統を考えたが、一方ではエレクトス→サピエンスという系統も想定しており、ネアンデルターレンシスが絶滅した可能性も考えていた。シュヴァルヴェは当初前者を好んでおり、後には後者のほうがやや可能性が高いと考えたが、その場合でも動物学的意味において、ネアンデルターレンシスはサピエンスとエレクトスとの中間的存在である、と述べた(Trinkaus et al.,1998,P212-213)。
 だがその後、ネアンデルターレンシスにたいしては野獣的で半人的だという印象が強くなり、現代人の祖先からは外されるようになってしまった。その契機となったのは、1908〜1913年にかけてフランスのマルセル=ブールによって発表されたネアンデルターレンシスの復元にかんする論文であった。ブールは前かがみの姿勢などネアンデルターレンシスの類人猿的特徴を強調し、欧州にはネアンデルターレンシスと同時代にサピエンスの直接の祖先が存在していたとするプレサピエンス説の基礎を築き、プレサピエンス説は長く強い影響力を保った。また、捏造されたピルトダウン人(正式な分類名称はエオアントロプス=ダウソニー)が本物と認定されたことも、ネアンデルターレンシスを現代人の系統から追放する根拠となった(Trinkaus et al.,1998,P244-273)。

ピルトダウン人とプレ=サピエンス説に異議を唱えたのは、チェコからアメリカへ移住したアレシュ=ヘリチカであった。ヘリチカは、エレクトスからネアンデルターレンシスの段階を経てサピエンスが登場したとする、シュヴァルヴェと似たような人類の単系統進化説を20世紀前半に提示したが、ほとんど支持されなかった(Trinkaus et al.,1998,P269-270,P287-289,P304-307)。
 ナチス政権の成立によりドイツを去ったユダヤ人のフランツ=ヴァイデンライヒも、プレ=サピエンス説に同意しなかった一人であった。1947年にヴァイデンライヒが発表した人類の系統図では、オーストラリア・アジア・アフリカ・欧州という四つの地域ごとの進化の流れが重視されるとともに、各地域間の遺伝的交流も想定され、人類は各地域において、エレクトスのような段階とネアンデルターレンシスのような段階を経て、サピエンスに至るとされた。現代の人種の起源をたいへん古くに想定し、人類の多地域的な進化を説いたヴァイデンライヒの見解は、発表当初は賛同者が少なかったのだが、1960年代以降おもに米国でひじょうに大きな影響力を持つようになった(Trinkaus et al.,1998,P314-316,P349-355)。

 

現代人の祖先としてのネアンデルタール人
 20世紀半ばの進化総合説の成立によって種内変異が重視されるようになり、ネアンデルターレンシスの復元が見直されてサピエンスとの類似性が強調され、ネアンデルターレンシスはサピエンスの亜種ホモ=サピエンス=ネアンデルターレンシスとされた。また1953年にピルトダウン人の捏造が確定したこともあり、プレ=サピエンス説はしだいに影響力を失っていき、新たな人類進化説の提示が求められるようになった(Trinkaus et al.,1998,7-8章)。
 進化総合説の急速な成立と影響力の拡大という時代背景を前提として提唱された仮説に、プレ=ネアンデルタール説がある。レヴァントでは、ネアンデルターレンシス的な人骨・サピエンス的な人骨・中間的な人骨が出土している。このことから、西アジアには特殊化していないネアンデルターレンシスがいて、サピエンスと特殊化したいわゆる古典的ネアンデルタール人との直近の祖先になった、と米国のクラーク=ハウエル
関連記事などが1950年代に提唱した(Trinkaus et al.,1998,P366-371)。

同じく進化総合説を大前提とし、ネアンデルターレンシスがサピエンスの祖先であることを強調したのが、米国のローリング=ブレイスの提唱した人類単一種説だった。ブレイスはプレサピエンス説を批判し、ヘリチカとヴァイデンライヒの見解に注目した。ブレイスは、文化を持つ人類はどの時代においても単一種であり続け、アウストラロピテクス属の猿人→エレクトスの原人→ネアンデルターレンシスの旧人→サピエンスの新人と進化した、という人類単一種説を主張した(Lewin.,1999,P56)。ブレイスは人類進化において文化の果たした役割を強調し、頑丈なネアンデルターレンシスが華奢なサピエンスへと進化したのは、道具の発達により身体への負担が軽減されたからだとしたが(Stringer et al.,1997,P35-36)、今ではこの説はほとんど支持されておらず、両者の頭骨の違いは遺伝的要因によるとの見解が提示されているWeaver et al., 2007関連記事
 進化総合説を大前提とした人類単一種説は統合派的性格の強いものであり、同時代の各地域の人類の解剖学的差異は種内変異の範囲内におさまるものであるとされた(Trinkaus et al.,1998,P417-424、Lewin.,1999,P56-57)。しかし、1975年にケニアのトゥルカナ湖岸において、アウストラロピテクス=ボイセイの人骨がすでに発見されているのと同時代(150万年前頃)の地層からエレクトスの人骨が発見されたことで、人類単一種説は否定された(Lewin.,1999,P56-57)。

ブレイスとともに人類単一種説を強く主張していたミルフォード=ウォルポフは、大きな転換を余儀なくされた。同時代における人類の同一性を強調していたウォルポフは、各地域間の差異は人類進化における些細な問題であるとしており、人類史における地域間の変異とその連続性に注目していたオーストラリアのアラン=ソーンの見解を軽視していた。しかし、ウォルポフはエレクトス化石の修復中に、ジャワのエレクトスとオーストラリア先住民のアボリジニーとの形態的類似性というソーンの見解が正しいと確信し、ソーンに謝罪して共同研究を始めた(Shreeve.,1996,P124-126)。
 二人の研究成果は1981年に明確な形で公表され、多地域進化説と呼ばれている。これは、アフリカから世界各地に進出したエレクトスが世界各地で派生形質を獲得してその特徴を維持しつつも、各地域間で遺伝子交換を続けることにより、たとえば欧州ではエレクトスからネアンデルターレンシスのような段階を経て、世界全体でサピエンスへと進化したというものである。ソーンの考えを基盤としつつ、人類単一種説の否定されていない点(文化を人類進化の主因とすることなど)を継承して確立された説といえる。後に、中国の呉新智も多地域進化説の陣営に加わり、多地域進化説は地域的な広がりをみせたが、ヴァイデンライヒ説の焼き直しといった側面が多分にあるように思われる(Shreeve.,1996,P127-128、
Stringer et al.,2001,P77-81)。

地域ごとの継続性を重視し、世界各地に拡散したエレクトスがサピエンスに進化したとする多地域進化説の弱点は、平行進化を認めることになるのではないか?というものである。これにたいする多地域進化説からの回答は、各地域間で一定以上の遺伝子交換があったため別種に分化せず、同一種としてのまとまりを維持し続けた、というものである。しかし、多地域進化説で主張されているような、100万年以上にわたって広大な地域の人類を一つの種に維持しておくだけの遺伝子交換を想定するのは無理だ、と集団遺伝学者からは否定されている(Shreeve.,1996,P134-136)。
 苦しくなったウォルポフは、1990年代半ば以降、ホモ=サピエンスは150万年以上前から存在していると見解を変えた。エレクトス以降のホモ属の違いは、単一種内の些細な変異にすぎないというわけである。平行進化との批判をかわし、何とか多地域進化説を生き残らせようとするための苦肉の策なのだろうが、研究者たちからはほとんど支持されてない(Hawks et al.,2000
Stringer et al.,2001,P80-81)。

アフリカの初期エレクトスと現代人とが同一種であるというのは、とても受け入れられそうにない見解であるが、サピエンスとユーラシア各地の先住人類との混血を認めるとすると、ホモ属単一種説が妥当だともいえる。種区分の難しさを逆手にとった見解だともいえるが、序章で述べたように、サピエンスとネアンデルターレンシスを別種とする見解をとるならば、エレクトスとサピエンスも別種とするのが妥当だろう。
 各地域の連続性を重視する多地域進化説では、欧州におけるネアンデルターレンシスからサピエンスへの進化が主張された(
Stringer et al.,2001,P79)。第二次大戦後、ネアンデルターレンシスの復元についてブールの研究を否定した見解が提示されたことと(Trinkaus et al.,1998,P384-389)、ラルフ=ソレツキらによるイラクのシャニダール洞窟の発掘・研究の結果とにより、ネアンデルターレンシスの現代性が強調されたので、ネアンデルターレンシスを我々サピエンスの祖先であるとする見解は、説得力をもって受け入れられるようになった(Trinkaus et al.,1998,P384-389,430-433)。
 しかし近年では、多地域進化説の代表的論者のウォルポフでさえ、数的に圧倒的に優勢な外来集団(一般にいうところのサピエンス)が外部から欧州に流入してきたことにより、ネアンデルターレンシスは混血という形で外来集団に吸収されて消滅した、というように見解を変えた
(馬場.,2005,P82-91)。次に、多地域進化説にこのような変容を強いた経緯について述べることにする。

 

遺伝学からの視点
 1980年代に、サピエンスの起源を説明する見解として多地域進化説とともに有力になったのがアフリカ単一起源説で、クリストファー=ストリンガーが代表的論者である。これは、サピエンスの唯一の起源地はアフリカであり、アフリカで誕生したサピエンスが10万年前以降に世界各地に拡散した、というものである(Fagan.,1997,P28-31)。
 このアフリカ単一起源説を支持し、多地域進化説に大打撃を与えたのが分子遺伝学の諸研究であり、その嚆矢となったのが、1987年に公表されたレベッカ=キャン
とマーク=ストーキングとアラン=ウィルソンによるミトコンドリアDNAの研究だったCann et al.,1987。現代人のミトコンドリアDNAを調べると、現代人最後の共通母系祖先(ミトコンドリア=イヴ)は20万年前頃にアフリカにいたと推測される、という内容は衝撃的だった。キャンらの研究は『ニューズウィーク』誌に取り上げられ、世間一般でもこのイヴ仮説(サピエンスのアフリカ単一起源説)への注目が高まった(河合.,1999,P61)。

 第9章で述べる偶発系統損失により、現代人にとってのミトコンドリア=イヴ自体は、過去のどこかの時点に求めることができる。その意味で、100万年前頃よりアフリカとユーラシア全体で遺伝子交換をしつつも、各地域で独自に人類集団が進化してきたとする多地域進化説にとっても、ミトコンドリア=イヴという概念自体は認められるものだった。しかし、その年代は100万年以上前であることが望ましく、現代人にとって最後の共通母系祖先が20万年前頃にアフリカにいたとなると、多地域進化説にはたいへん都合が悪かった。
 ストーンキングらはその後もミトコンドリアDNAの研究を進め、サピエンスのアフリカ起源説を強力に主張したが、これら初期の研究には試料選択とソフトの使用法の問題があり、1992年までに基本的には否定された(Shreeve.,1996,P98,312-314)。しかし、ミトコンドリア=イヴが人類史においてわりと新しい年代のアフリカにいたという結論自体は、その後のほとんどすべてのミトコンドリアDNAの研究において大枠では支持された(
斎藤他.,2006)。さらにY染色体の研究でも、現代人の最後の共通父系祖先の年代がミトコンドリア=イヴよりも若くなるとはいえ、サピエンスのアフリカ起源が示され、多地域進化説はいっそう苦しくなった(篠田.,2007,P191)。
 1997年以降ネアンデルターレンシスのDNA研究も進み、第9章で述べるように、これまでに複数のミトコンドリアDNAの分析が公表されている。その結果、現代人や更新世欧州のサピエンスとネアンデルターレンシスとの遺伝的違いが大きいことが判明した。両者の分岐年代は諸研究によって異なるが、853000〜365000年前の間に位置づけられ、これまでの化石記録からの推定とも矛盾しなかった
(河合.,2007,P113-120)。こうして、種レベルの違いかどうかはともかくとして、ネアンデルターレンシスとサピエンスとは少なくとも遺伝子レベルで異なる集団であることが確実となり、ネアンデルターレンシスからサピエンスへと進化した可能性も否定された。

 

考古学・形質人類学からの視点
 多地域進化説が劣勢となり、ネアンデルターレンシスがサピエンスの祖先ではないと考えられるようになった契機として、以上のような分子遺伝学の諸研究が挙げられることが多いのだが、考古学や形質人類学の成果も重要な役割を果たした。
 ネアンデルターレンシスは、アフリカから欧州に進出したハイデルベルゲンシスより進化したと思われるが、進化は連続的なので、どの時点に境界を定めるのか判断が難しい。40〜20万年前頃の欧州には、英国のスウォンズクーム・ドイツのシュタインハイムとエーリングスドルフ・スペインのアタプエルカなど、ハイデルベルゲンシスとネアンデルターレンシスとの中間形態とも考えられる人骨が出土しているが、これらとネアンデルターレンシスとの関係は必ずしも明確ではない
Tattersall.,1999,7章)。今後も断定するのは難しいだろうが、とりあえずここでは、ネアンデルターレンシスの登場を20万年前頃としておく(諏訪.,2006)。
 ネアンデルターレンシスは寒冷な欧州においてさらに特殊化を強め、10万年前頃の欧州にいわゆる古典的ネアンデルタール人が登場する(諏訪.,2006)。ネアンデルターレンシスは時代が下るにつれて特殊化していったのであり、形態面でもネアンデルターレンシスからサピエンスへの進化は想定しにくい。

上述したように、レヴァントではネアンデルターレンシス的な人骨・サピエンス的な人骨・中間的な人骨が出土したため、さまざまな解釈が提示された。このうち、スフールとカフゼーの人骨群はサピエンス、アムッドとタブンとケバラの人骨群はネアンデルターレンシスとされているが(大津他.,1997,P31-33)、じっさいには区別のつきにくいものも少なくない(片山他.,1998)。これらネアンデルターレンシスとサピエンスはともに中部旧石器文化をもち、文化面で基本的な違いはなかったとされるが、サピエンスのほうが頻繁に移動しており、ネアンデルターレンシスのほうが定住性は強かったとの指摘もある(Shreeve.,1996,P98,235-240)。
 以前は、サピエンスとされたスフールとカフゼーの人骨群はアムッドとタブンとケバラよりも新しいとされており、ネアンデルターレンシスからサピエンスへと進化した根拠ともされていた。しかし1980年代後半〜1990年代半ばにかけて、アムッドが5万年前頃、ケバラが6万年前頃、タブンが17万年前頃とされたのにたいして、スフールとカフゼーは10万年前頃とされるようになり、レヴァントではネアンデルターレンシス→サピエンス→ネアンデルターレンシス→サピエンスの順に人類が出現した、と解釈されるようになった(大津他.,1997,P31-33)。

これは、ネアンデルターレンシス→サピエンスという進化図式を提示していた当時の多地域進化説にとって大打撃となり、レヴァントの古人類群はどれも中部旧石器文化を有するのだから、変異幅の大きい一つの人類集団と考えるべきだとウォルポフらは反論したが、ほとんど支持は得られなかった(Shreeve.,1996,P239、Lewin.,2002,P176-178)。
 これらレヴァントの人骨群についてはいぜんとして謎が多い。あえて推測すると、20〜5万年前頃のレヴァントにおいて、アフリカから来た熱帯適応体型のサピエンスと、欧州から来た寒冷適応体型ネアンデルターレンシスとは、すでにはっきりと異なる集団に分岐していたが、ともにハイデルベルゲンシスから進化して混血があったため、両者の中間的な形態の人骨もあるのではないかと思われる。

 

参考文献
Cann RL. et al.(1987): Mitochondrial DNA and human evolution. Nature, 325, 31-36.

Fagan BM.著(1997)、河合信和訳『現代人の起源論争』(どうぶつ社、原書の刊行は1990年)

Hawks J. et al.(2000): Population Bottlenecks and Pleistocene Human Evolution. Molecular Biology and Evolution, 17, 1, 2-22.

Krause J. et al.(2007A): Neanderthals in central Asia and Siberia. Nature, 449, 902-904.関連記事

Lewin R.著(1999)、渡辺毅訳『現生人類の起源』(東京化学同人社、原書の刊行は1993年)

Lewin R.著(2002)、保志宏訳『ここまでわかった人類の起源と進化』(てらぺいあ、原書の刊行は1999年)

Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

Stringer CB, and Clive G.著(1997)、河合信和訳『ネアンデルタール人とは誰か』(朝日新聞社、原書の刊行は1993年)

Stringer CB, and McKie R.著(2001)、河合信和訳『出アフリカ記 人類の起源』(岩波書店、原書の刊行は1996年)

Tattersall I.著(1999)、高山博訳『別冊日経サイエンス 最後のネアンデルタール』(日経サイエンス社、1999年、原書の刊行は1995年)

Trinkaus E, and Shipman P.著(1998)、中島健訳『ネアンデルタール人』(青土社、原書の刊行は1992年)

Weaver TD. et al.(2007): Were neandertal and modern human cranial differences produced by natural selection or genetic drift? Journal of Human Evolution, 53, 2, 135-145.関連記事

大津忠彦、常木晃、西秋良宏(1997)『世界の考古学5 西アジアの考古学』(同成社)関連記事(1)関連記事(2)

片山一道、山極寿一(1998)「直立歩行と言語をつなぐもの」『大航海』22号(新書館)

河合信和(1999)『ネアンデルタール人と現代人』(文藝春秋社)

河合信和(2007)『ホモ・サピエンスの誕生』(同成社)関連記事

斎藤成也、颯田葉子(2006)「遺伝子からみたヒトの進化」『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(岩波書店)関連記事

篠田謙一(2007)『日本人になった祖先たち』(日本放送出版協会)関連記事

諏訪元(2006)「化石からみた人類の進化」『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(岩波書店)関連記事

馬場悠男編(2005)『別冊日経サイエンス 人間性の進化』(日経サイエンス社)

 

 

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