聖徳太子架空人物説
読後雑感の第5回と第6回で大山誠一『聖徳太子と日本人』(風媒社2001年)を取り上げ、そこで聖徳太子架空人物説についての自分の見解も述べたが、改めて整理してここで述べていきたい。
読後雑感の第5回と第6回で述べたように、私は大山氏の聖徳太子架空人物説に概ね同意している。偉大な人物としての聖徳太子の実在を証明する証拠は、どれも怪しいものばかりである。では、聖徳太子が架空の人物で廐戸王が偉大な人物ではなかったとして、廐戸王が聖人として描かれたのは何故だろうか。第5回で述べたように、大山説ではこの点が明快に述べられておらず、説得力の欠けるところである。この疑問が明快に説明されない限り、大山説が研究者にも一般にも広く支持されることは難しいように思われる。とはいえ、だからといって聖徳太子を「実在」の人物として推古朝の歴史を叙述するのには大いに無理があり、どうすべきか、難問であると言えよう。
廐戸王は『日本書紀』において既に聖人として描かれているが、大山氏によると、藤原不比等と長屋王と道慈が『日本書紀』において初めて廐戸王に様々な偉業を仮託して聖人として描き、聖徳太子を創出したということになる。つまり、聖徳太子信仰の成立は『日本書紀』の成立以降であるというのが大山氏の見解である。
大山説には概ね同意している私だが、この点は少々納得がいかない。美術史では、聖徳太子信仰が始まったのは7世紀後半とされている。これに対する大山氏の反論は、そもそも美術史の編年自体が聖徳太子の実在を前提に作成されたものなので根拠たり得ない、というものである。美術史に疎い私には何とも言えないところだが、聖徳太子信仰が一部で『日本書紀』成立以前より行なわれていた可能性は高いように思う。
その根拠はというと、美術史からの指摘以外にはこれといって説得力のあるものはないのだが、廐戸王が美化の対象となったのは、『日本書紀』成立以前に既に廐戸王が崇拝の対象となっていたことを想定しなければ理解しにくいのではないか、と考えているのである。無論これは、第31回で私が批判した結果論的解釈に非常に近いものがあり、私自身も自信はあまりないのだが、美術史からの証明も一応はあるし、『日本書紀』において廐戸王が異常なまでに美化されている事実の説明としては、それなりの可能性はあるように思う。
美術史の観点からは、聖徳太子信仰は先ず仏教関連で発生したように思われるが、これは案外、廐戸王の実像に迫る手掛かりとなるのではなかろうか。『日本書紀』において確実な廐戸王の政治的業績というと、殆どないと言ってよく、政治家としての廐戸王が特に優れたとの証明は困難である。では文化面ではどうかというと、こちらも『日本書紀』には確実な業績はないが、後の法隆寺を創建したことは間違いないだろう。つまり、仏教興隆において少なからぬ役割を果たした有力王族というのが、廐戸王の実像だったと思われる。
7世紀後半の天武・持統朝となると、「国家」の仏教信仰が益々盛んになっていった。この時、仏教信仰者の間で、「日本」にとって外来宗教である仏教を定着させ興隆させることに多大な貢献をなした人物に対する畏敬・崇拝の念が生まれてきたことだろう。では、「日本」における仏教定着・興隆の最大の貢献者は誰なのであろうか。恐らくそれは、「日本」初の大伽藍を築かせた蘇我馬子だったのだろう。『日本書紀』においても、蘇我馬子は仏法を敬ったとあるが、恐らく7世紀後半の時点では、蘇我馬子こそ仏教定着・興隆の最大の貢献者と考えられていたのだろう。
だが、蘇我馬子は蘇我蝦夷の父であり蘇我入鹿の直系祖父である。持統と元明(従って、文武も聖武もということになるが)が蘇我馬子の血を受けているだけに、馬子は蝦夷や入鹿と違って、『日本書紀』において極端に悪し様に描かれることはなく、それどころか、性格は武略備わり政務にも優れていた、と高く評価されているくらいだが、これは美化されたのではなく、実際に馬子は人物が優れていたのだろう。とはいえ、馬子は逆臣である蝦夷と入鹿の父・祖父であり、王族でもないだけに、特に偉大な興隆者として崇拝するわけにはいかなかった。
そこで注目されたのが、馬子には及ばないにしても、ほぼ同じ時代(とはいっても、廐戸王の方が活躍開始時期が随分と遅かった筈だが)に大伽藍を建てるなど、馬子と同じく仏教の定着・興隆に熱心だった廐戸王で、仏教信仰者の間で、様々な仏教関連の業績が廐戸王に仮託されていったのではなかろうか。こうして仏教信仰者の間で崇拝されていた廐戸王に着目したのが『日本書紀』編纂に関わった人達で、ここにおいて廐戸王は、仏教のみならず儒教や道教にも通じた優れた政治家・知識人として描かれるようになったものと思われる。