ばっくなんばぁあ〜14

第 六 章

「いろいろなお経」

前回の続きで、法句経の3回目です。

A法句経(ほっくきょう)の4
第14章 目ざめた者の章
目覚めた者とは、仏陀のことです。ここでは、仏陀がどのような立場であり、どんなことを説いているかを簡単に説いています。
「瞑想に専念し、賢明で、(欲望からの)解放の安静を喜び、正しく目覚めて思慮深い賢い者は、神々すらもこれを羨やむ。」(第181句)
仏陀とは、瞑想に専念することができ、賢明であり、あらゆる欲望から解放され、心はいつも穏やかで、思慮深い者のことです。こうした人を「目覚めた人=仏陀」というのです。
この仏陀になれば、それは神々さえも羨ましい、と思うのです。つまり、覚りを得た者は、神々から羨望のまなざしで見られるのです。神と言えども仏陀にはなれません。仏陀は、神々さえも憧れる存在なのです。

「人間として生を受けることは困難である。死すべきもの(=人間)が生きることはむずかしい。正しい教えは聞きにくいものであり、もろもろの目覚めた人(=諸仏)の世に出たもうことは得難いことである。」(第182句)
この世に人間として生まれてくることは、実は大変難しいことです。どのくらい難しいかというと、人間に生まれる確立は、
「大海原の海面に大きな板が浮かんでいるとしよう。その板には丸い穴が開いている。ちょうど亀の頭が入るくらいの穴だ。さて、その海には100年に一度、呼吸のために海面に顔を出す亀が一匹いる。その亀が海面に浮かんでいる板の穴に、顔を突っ込む確立」
と同じくらいの確立なのだそうです。これは、お釈迦様が説かれたことです。
100年一度、亀が浮かんでいる板の穴に顔を突っ込む確立って・・・・想像できませんよね。何を大げさな!、と思いますよね。
しかし、最近の遺伝学や生物学の研究では、人間に生まれてくる確立は数十兆分の1である、ということがわかっているそうです。
まず、人として生まれます。その子が成長する確立があります。成長して恋愛する確立があります。そして性行為をする確立があります。性行為をして子供ができる確立がまた大変です。精子と卵子の出会う確立、精子が生き残る確立、卵子が正常である確立、精子が正常である確立・・・などなど。さらには、妊娠して無事出産までに至る確立があります。
こうした確立をあわせていくと、人間が生まれてくる確立というのは、とてつもなく小さいものになるのだそうです。案外、お釈迦様の喩えは的を得たものだったのかもしれません。人間に生まれてくることは難しいことなのですよ。
その人間が生きるのは大変なことです。それは説明は要りませんよね。誰もが生きることの大変さを知っていることでしょう。
さらに、正しい教えはなかなか耳に入らないものです。「金言耳に逆らいやすし」ですよね。いいことはし難いし、やってはいけないことはついついやりたくなってしまう。正しい言葉は耳に入りにくいけど、悪い言葉はすぐに覚える・・・。いつの時代も変らないです。
ましてや、目覚めた者がこの世に出ると事など、そんなにないことです。というか、有り得ません。お釈迦様以降、次の目覚めた者・・・仏陀・・・が現れるのは、お釈迦様が涅槃に入られてより56億7千万年後ですからね。それまでは、目覚めた者はいないのですよ。
それほど、仏陀という存在は貴重なのです。つまり、仏陀がこの世に出現する確立は、
(人間として生まれる確立)×(人間として生きる確立)×(正しい教えを聞く確立)×(正しい教えを受け入れる確立)×(覚りを得る確立)
となるのです。
これだけの条件を経て、仏陀は誕生するのです。一生出会わないほうが当たり前なんですよ。
なので、「私は解脱した」とか、「覚りを得た」などという者は、ニセモノに決まっているのですよ。覚りを得た者、解脱者は「目覚めた者」なのですから、そんな者がこの世にゴロゴロいるわけがないでしょう。目ざめた者は、そう簡単には出会えないのです。

では、その真実の「目覚めた者」とは、いったいどのような人なのでしょうか?。そして、どのような教えを説くのでしょうか?。
「すべて悪しきことをせず、善きことを実行し、自身の心を清らかにすること、これが目覚めた人たちの教えである。」(第183句)
この時点で、この世に「目覚めた者」がいないということがわかるでしょう。悪いことをせず、善いことをし、心清らか・・・。これを説くものは、当然自分自身もそうでなくてはなりません。まあ、悪いことはしない、善いことはするにしても、心清らかというのは・・・。難しいですね。さらに、
「耐え忍ぶことは最上の苦行であり、耐えることは最高の安らぎ(=涅槃)であると、目覚めた者たちは説く。他の者を損なう者は出家者ではない。他の者を妨げる者は修行者ではない。」(第184句)
「他人の悪口を言わず、損なわず、戒律を厳守し、食事の節度を知り、孤独に坐臥し、最高の思惟に専念すること、これが目覚めた者たちの教えである。」(第185句)
とお釈迦様は説くのです。
耐えることは最高の安らぎと思えますか?。無理でしょ。私も無理です。耐えることは、やはり耐えることであり、我慢であり、ストレスがたまることですよね。安らぎとは思えません。が、しかし、目覚めたものは、耐えることが安らぎと感じるんですよ。これは、目覚めた者でないと、わからないでしょう。
184句の「他の者を損なうな、妨げるな」と185句の「他人の悪口を言わず、損なわず」は同じですね。この2句は、簡単に言えば、戒律を守って、礼儀正しくマナーを守り、他人の邪魔をせず、一人で覚りの境地を楽しんでなさい、と説いているのです。これを「自受法楽(じじゅほうらく)」といいます。すなわち、「自分で覚りの内容を確認しながら、あるいは、諸仏諸菩薩と心を通わしながら、最高の安楽の境地に漂う」ことをいいます。そんな世界を味わえる者が「目覚めた者」なんですね。

目覚めた者の境地は、迷いの世界にどっぷりと浸かっている我々には想像できない世界のようです。しかし、そこは安楽の世界であることは間違いありません。また、目覚めた者の行動や言葉は、清く正しいものであるのです。そうしたことをこの章では説いているのです。この章を読むと、現代の坊さんは・・・・ため息が出てしまいますね。反省・・・です。
なお、この章には17句あります。


第15章 静安の章
この章は、「心が安楽に、心が静かにあるように生きよう」と言うことを説いています。
「われわれは怨みをもつ者たちの間にあって怨みを抱かず、よく心安らかに生きよう。われわれは怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう。」(第197句)
「われわれは悩める人びとの間にあって悩みなく、よく安らかに生活しよう。われわれは悩める人びとの間にあって、悩みなく生活しよう。」(第198句)
「われわれは貪る人びとの間にあって貪りなく、よく安らかに生活しよう。われわれは貪る人びとの間にあって、貪りなく生活しよう。」
心安らかに、心静かに生きるにはどうすればよいのでしょうか。それには、決して怨まず、悩みなく、貪ることなく生きることです。
怨めば怨み返されます。怨み返されれば、また怨みます。怨みの連鎖ですね。キリがありません。ならば、初めから怨まないほうがいいんです。怨みを抱かず生活すること、それが心安らぐ生き方なんですね。
悩みがあればつらくなります。生きにくくなります。ならば、悩みを抱かないように生きれば、生きやすいでしょう。悩むことなく生きることができれば、そんな楽なことはありません。しかし、悩まないで生きることは、大変難しいことです。ではどうすればいいのか。悩みを抱かないようにすることがまず大事です。悩んでもいいのですが、それを抱かないことです。つまり、悩みを抱え込まないことですね。そうするためには、悩んだら、すぐに誰かに相談することです。で、素直にそれに従うことですね。そうすれば、悩みを抱くことはなくなります。悩みを抱かなければ安心が得られます。また、悩んだらすぐに相談すればいい・・・とわかれば、悩みに対し恐れを抱くこともなくなりましょう。すると、心は安らぎ、静かになっていくのです。
貪りが強ければ、生きにくい世の中です。欲望が強い者は、それだけその欲望を達成するために頑張らなければなりません。あるいは、犯罪を犯さねばなりません。そんな生活をしているものには、安らぎも平穏も訪れないでしょう。望むものが少なければ、あるいは高望みなどしなければ、焦ることもなく、マイペースで生きられます。貪りがなければ、心安定して生きられるのですよ。貪らない、多くを望まない生き方は、案外楽な生き方なのです。
これらが、できれば、毎日が平穏、心安楽、心静かに生きられるのです。まあ、わかってはいるのですが、難しいですよね。尤も、簡単にできれば、覚りも得られますけどね・・・。

この章には、「最上の幸せ」とは何か、について説かれています。お釈迦様は最上の幸せをこう説きました。
「飢餓は最大の病気、肉体的な存在は最大の苦悩である。このことをありのままに知るならば、最上の幸福である心の安らぎ(=涅槃)がある。」(第203句)
「健康は最上の利益、満足は最上の財産、信頼は最上の縁者、心の安らぎは最上の幸福である。」(第204句)
どちらの句も、「最上の幸福とは心の安らぎである」と説いています。
この世に肉体があることは、苦を生む元でもあります。だからといって、肉体をなくせば幸福かと言えば、そうでもありません。死ねばいい、というものではないのです。それは、心があるからです。つまり、心が残ってしまうからですね。
いくら肉体を滅ぼしても、怨みや欲望、迷い、怨念といった「心の思い、想い」は残ってしまいます。そうしたものが残ってしまえば、その思いを残した者は幸福とはいえません。輪廻から逃れることはできないからです。
ですので、生きているうちに心に何の思いも残さないようにすることが大事なのです。つまり、心が安らいで、安楽であることが幸せなのです。
健康であることが幸せでしょうか?。よく「健康が一番。病気さえしなければ幸せだわ」といっている方がいますが、果たしてそうでしょうか?。確かに、健康は大事です。健康であれば悩みのいくらかは減ることは間違いありません。しかし、健康でも不幸な人はたくさんいます。健康であるにもかかわらず、多くの悩みを抱え込んで、さ迷っている方はたくさんいますよね。健康は、必ずしも幸福をもたらしてはくれないものです。また、逆に、病気であっても楽しく生きている人もいます。したがって、「健康=幸福」とはいえないのです。
お金をたくさん持っていれば幸せでしょうか?。財産がたくさんあれば幸福なのでしょうか?。確かに、お金はいくらあっても邪魔にはなりません、ないよりはあったほうがいいに決まっています。しかし、だからといってお金持ちが絶対に幸福か、と尋ねられれば、答えは「NO」でしょう。不幸なお金持ちは歴史上も、現代もいっぱいいます。いくらお金があっても、悩みがなくなることはないのですよ。苦から逃れることはできないのです。ですから、「お金=幸福」とはならないのです。
また、少しお金があればもっと欲しくなりますよね。自分では使い切れないほどお金を持っていても、さらに得ようとするのが人間です。貪れば貪るほど、悩みや苦は付きまとうのです。財産を増やそうとすればするほど、苦はやってくるのです。
それよりも、「これでいいや。自分にはこの程度で十分だ。増やそうなどと思わないようにしよう」と、満足を知ったならどうでしょう。そうなれば、貪りは消え、悩みはなくなっていくでしょう。最上の財産家は、「満足を知るもの」なのです。ですから、昔から「足るを知るものは常に富む」といわれるのです。「自分にはこれで十分だ」といえるならば、これほど強い者はいません。最高の財産家となるでしょう。
信頼はなくてはならないものです。信頼がなければ、この世界では生きてはいけません。孤独に、一人ぼっちで生きていくならばいいでしょうけど。信頼がある、信頼される、信頼をしている・・・・。そうした関係は、大変喜ばしい関係なのです。信頼のない関係、信頼できない関係とは、虚しいものですし、寂しい関係といわざるを得ないでしょう。人は信頼の中でこそ生きていけるのです。人と人との関わり合い、縁のある者との関係の中で、信頼を得ること、信頼しあえることは大変重要なことなのです。したがって、信頼とはまさしく良縁です。よき縁者、最上の縁者なのです。ただし、信頼があれば幸福か、といわれると、そうでもありません。いくら信頼があっても、他の恐怖や不安からは逃れられないからです。したがって、信頼があれば善き縁はあるのですが、幸福とは断言できません。
では、幸福とは何か。それは、何があっても揺るがない心を持っていることです。何も恐れない、何の誘惑にも負けない、動揺しない、いつも安定している静かなる心、そうした心を持ったものこそが本当の幸せをつかんだものなのでしょう。
お金がなくても、心が安定していれば何の憂いもありません。病気であっても、心が安定していれば病魔も苦しめることはないでしょう。複雑な人間関係の中で、心が安定していれば信頼は自ずと得られるでしょうし、またトラブルに巻き込まれることもないでしょう。たとえ、トラブルに巻き込まれても、心が安定していれば、何の憂いもなく、心配もなく、恐れもなく過ごすことができるでしょう。
すなわち、心の安定こそが真の幸福なのです。いつも心穏やかでいられることこそが、本当の幸せといえるのです。
この204句は、短い言葉ですけど、真実の幸せに目覚めるための言葉です。よく知っておいて欲しいと思います。
なお、この章には12句あります。


第16章 逸楽の章
この章では、好きなことに没頭し、怠けて生きるものを戒めています。読んでいきますと、「え〜、そんな厳しいこと、できないよ」というくらいの内容です。「いいじゃん、少しくらい好きなことをしても」と思ってしまいます。まあ、これは主に出家者に対して説かれた句ですから、一般の方には受け入れられない内容になっていても仕方がないですけどね。とはいえ、現代の出家者にとってもつらい内容ですが・・・。
「みずから散漫にもっぱらで、瞑想することなく、ためになることを捨て、逸楽を捕らえる者は、みずから瞑想に専念する者を羨む。」(第209句)
この内容は勉強やスポーツの練習、仕事に置き換えればよく判ると思います。
「ただ遊びほうけて、仕事も勉強も、あるいはスポーツの練習もしないで、自らに役立つことをせず、遊んでばかりいる者は、勉強しているもの、仕事をバリバリやっているもの、スポーツの練習をしっかりやっているものを羨ましく思い、妬むものだ」
こう読み解けばわかりやすいでしょ。
先日、家の中で爆弾を作っているものが逮捕されました。その爆弾で通勤電車を爆破しようとしたのです。動機は、仕事をしている人たちが妬ましかった・・・・のだそうです。まさしくこの句の通りです。
学校でも、よく勉強している者は、悪口を言われたりバカにされたりしますよね。テスト勉強なんてしてないよ、なんて言っているほうがいい、みたいな風潮があります。実際、勉強をやっているのにやってないような振りをする人は多いんじゃないですか。本当は、一生懸命に勉強も仕事も練習も訓練もやったほうがいいに決まっている、っていうことはわかっているんですよね。でも、サボってしまう自分がいて、そういう自分を正当化するために人は、一生懸命やっている人の悪口をいったりするんですね。悪く言うくらいなら、自分もやればいいんですけどね。きっと、続けられる自信がないのと、努力した結果が悪い場合のショックに耐えられないんでしょう。気が小さく弱いんですね。そういう者は、一生懸命に努力している人のことを羨み、妬むんです。で、逸楽に親しむんですね。本当は、心の奥底では、いけないことだとわかっているんでしょうけどね。
あなたには、そういうところありませんか?。

「好ましいものより憂いが生じ、好ましいものより恐れが生じる。好ましいものを離れるならば、憂いがない。どうして恐れがあるか。」(第212句)
自分の好きなこと・好きなもの・好きな人を持つと、その好きなこと・好きなもの・好きな人を手に入れたい、と願います。さらに、それらを手に入れると次には、それらを自分のそばにとどめておきたい、と思うようになります。さらに、自分の自由にしたい、と考えます。またさらに、失いたくない、と願います。そうした数々の欲望がわいてくるのです。
その欲望が満たされれば結構なことです。何の憂いもないでしょう。しかし、そうは世の中甘くはありません。手に入らない、自分のところにとどめおくことができない、自由にならない、手放さなければならない、別れなければならない・・・。そのように、いろいろな憂いが生じます。そして、その憂いは、人を悩ませ、苦しめるのです。
その憂いをなくすにはどうすればいいのか・・・。答えは簡単です。好きなこと・好きなもの・好きな人をつくらなければいいのです。そう、好きなことやもの、人から離れればいいのです。そうすれば、何の憂いもなく、恐れもなく、過ごせるでしょう。
しかし、私はこの句が好きではありません。確かに、真実はそうなんですが、でも、私はなんだか嫌ですね。好きなことができないくらいなら、修行なんて・・・・と思ってしまいます。好きなことはしたいし、好きなものは得たいし、好きな人と過ごしたいですよね。
よくこういうことを言う若者がいます。
「もう傷つきたくないから、好きな人は作らない。恋なんかしない・・・。」
こういう言葉を聞くと、許せないですね。若いくせに!、と思ってしまいます。いいじゃん、傷つけば、とも思います。大いに恋をして大いに悩んで、大いに憂い苦しんで傷つきなさい、と思います。でないと、人の痛みや心の痛み、苦しみなんてわからないですからね。自分さえよければいい、って人間になってしまいます。傷つきたくないから恋をしない、なんて・・・。勝手過ぎるでしょう。
失ってもいいんですよ、憂いてもいいんです。憂い、恐れ、悩み・・・でも好きなことだから、好きなものだから、好きな人だから、自分は苦しんでもかまわない・・・・。そういう覚悟を持つなら、好きなことをすればいいのです。好きなものを望めばいいのです。好きな人をつくればいいのです。とことん、悩み苦しんで、その果てにこの212句に行きつかなければ、この句の意味はわからないかな、と思います。
傷つく前に、憂う前に、悩む前に逃げてしまってはいけません。そういう意味で、この句は、理解するには早すぎる、と思ってしまいます。なので、私は好きになれないんですよ。はっきりいえば、
「もっと楽しみたい」
のでしょうね。なので、この章自体、受け入れがたい内容なんです。ちなみに、212句と同様の句が4句続きます。「好ましいもの」のところに、「情愛」・「喜悦」・「情欲」・「渇望」が入ります。入れ替えて読んでみてください。なるほど、とは思いますが、若い方にはまだまだ理解して欲しくないですね。
そのほかの句もあわせて、全部で12句あります。


法句経(ほっくきょう)の5
第17章 怒りの章
お釈迦様は、怒りについていつでもこれを止めよ、と説きます。なぜなら、怒りは禍のもととなるものだからです。
「怒りを止めよ。高ぶりを止めよ。すべての絆を乗り越えよ。名と物とに執われず、無所有となった者は、もろもろの苦悩が従うことがない。」(第221句)
怒りというものは、何も善きものを生み出しません。怒ればイラつき、怒りの対象にあたることになります。あたればその対象者はまた怒るでしょう。それが物ならば壊れます。壊れれば、落ち着いたとき後悔の念に悩むことになります。
相手が人ならば、その人も怒り返したり、怨んだりすることでしょう。怒りは、相手の怒りを生み、復讐を生み、怨みを生むのです。ロクなことはありません。ですから、怒りを止めよ、と説くのです。
なぜ怒るのか・・・・。それは、プライドがあるからです。高ぶりの心があるからです。プライドを傷つけられた時、人は怒るのです。ですから、怒りを止めるには、プライド・・・・高ぶり・・・・を止めることです。
尤も、止めるべきプライドとあったほうがいいプライドとがあります。捨てられない砦、とでもいいましょうか。いい意味でのプライドは持たないといけません。ここで説く高ぶりとは、名誉や物・人に執着したがために生まれたプライドのことを言います。つまらないプライドですね。
先日、あるボクシングの選手が世間からの怒りを買う行為をしました。おかげで世間から排除されてしまいましたね。彼は、彼なりにプライドがあったのでしょうが、そのプライドはとてもつまらないプライドでした。中身のない、空威張りの、恰好だけのプライド。一方、チャンピョン側は、チャンピョンらしい大人の落ち着いたプライドをもって戦いました。そのプライドは静かなる王者のプライドとも言えましょう。ですから、彼は決して怒ってはいません。注意をしただけです。諭しただけです。怒っていた、怒り狂っていたのは挑戦者側だけだったのです。挑戦者側も、何物にもとらわれず、名誉も名を売ることも格好にも執着することなく闘っていたならば、あんな無様な結果にはならなかったことでしょう。初めから「無」の状態で闘えば、その後の苦悩はなかったのです。まさしく、お釈迦様の言葉通りですね。

「ひとは怒ることなくして怒りに打ち勝ち、善によって不善に打ち勝ち、与えることによって物惜しみに打ち勝ち、真実をもって虚言に打ち勝つがよい。」(第223句)
怒っている相手に勝つには怒らないことです。自分が悪いのなら、さっさと頭を下げればいいのです。怒っている相手には、まず頭を下げ、それから話をする・・・・それが最善の方法です。怒っている相手に怒りで返したら、揉めるだけです。また、自分自身の心の中でも同じです。自分の怒りを鎮めたいのなら、まず怒るのを止めることです。そして、何に・なぜ怒っているのか、を考えるのです。で、その怒りが正当ならば、怒るのではなく話をするのです。そうすれば、余分な禍を作ることはなくなりましょう。
不善な行為をするものには、その前で善なる行為をすればいいのです。そうすれば、不善者は、後ろめたさを感じることでしょう。イヤミな行為、ととられることもありますが、善なる行為を続けるならば、誤解も解けるでしょう。また、己の心に不善をしたいという思いがあるなら、積極的に善行をすることです。善行をすることにより、不善の心を消してゆけるのです。
あなたが物惜しみをするタイプの人なら、積極的に与えることをしましょう。他に与えることにより、喜びが必ず生じます。そうなれば、物惜しみをする心は、次第に消えていくでしょう。餓鬼にならずにすみますね。物を惜しめば、餓鬼への道ですから。
虚言を言うものには、真実を語ることです。TVなどに出ているくだらない占い師や霊能者などの虚言には、それを消そうとしても無駄ですから、真実を知る者がその真実を語ればいいのです。虚言を発するものに怒る必要はありません。ただただ、真実のみを述べればいいのです。
虚言癖があるものは、真実のみを語るように努力をしましょう。ウソはつかないよう、己に言い聞かすのですね。それが、虚言に打ち勝つ方法なのですから。

「(前部分省略)沈黙する者は非難され、多く語るものは非難され、少し語る者も非難される。世の中で非難されない者はいない。」(第227句)
この句の後に「だから、非難されたくらいでいちいち怒るな」と付け加えればわかりやすいのではないでしょうか。この句は、アトゥラという在家信者が人々に非難され、「なんで自分ばかりが・・・」とお釈迦様に訴えた時に説かれた言葉です。
まさに、この世に非難されない者はいません。どんな者でも非難される対象になり得るのです。今は、周りがちやほやしてくれるかもしれませんが、一つ間違えば、瞬く間に非難の対象とされるのです。
先ほど言ったボクシングの選手もそうですね。試合前までは、某マスコミが持ち上げに持ち上げていました。中には、早くから批判していた慧眼の方もいましたが、某マスコミはそんな言葉を聞き入れず、持ち上げまくっていたのですね。が、一転して今や彼ら一家は非難の嵐です。
世の中そんなものです。何をどう言おうと、何をどう語ろうと、非難されるものは非難されるし、誰もがその批難の対象となり得るのです。大事なのは、「なぜ非難されたか」なのです。ですから、非難に対していちいち怒っていてはいけないのです。怒りの反論などしようものなら、瞬く間に非難の嵐は大きくなってしまうでしょう。怒りは怒りを呼ぶのですよ。
だからこそ、怒りは静めるべきものなのです。
この怒りの章には、14句説かれています。どれも、怒りは結局禍を呼ぶもの、だから怒りを鎮めよ、怒りを止めよ、怒りに打ち勝て、と説いています。

第18章 汚れの章
汚れとは、心の汚れのことだけではありません。人間の肉体も汚れたもの・・・という認識を仏教では持ちます。肉体も心も汚れている人間に、なぜそれほど執着するのか・・・・こう説くのが仏教なのです。
「あなたは枯葉のようなものである。しかも死王の使者たちはそこに近づいた。あなたは死の門出に立つ。しかもあなたは旅路の糧すらもない。」(第235句)
大変、厳しいというか、ひどいというか、ちょっとキツイ言葉です。これから亡くなろうというご老人にかける言葉ではありませんよね。しかし、あえてお釈迦様は、この言葉を発したのです。死が近付いたものへ、死を恐れぬよう、死を拒まないように・・・・。
この肉体は、汚れたものです。年をとれば皺は増え、目ヤニはでる、歯は抜ける、腰は曲がる、悪臭は放つ・・・・。そんな身体に執着しても仕方がありません。年をとれば、身体がダメになっていくのは当たり前のことです。また、我々の心はいろいろな欲望によって汚れています。とても清浄ではありません。
さぁ、年をとり、いよいよ死神がそこまでやってきています。あなたは真実を知らず、己の、異性の肉体に執着し、欲望の趣くまま生きてきました。汚れた世界で、汚れた体と心を汚れるに任せてきました。そんな者には死の世界へ向かう旅路・・・・あの世の旅・・・・を無事に行けるだけの糧はありません。さぁ、どうする?、どうするのだ・・・・とお釈迦様は問いかけるのです。そして
「あなたはみずから自身の依り所をつくれ。あなたは速やかに努力せよ。あなたは賢くあれ。汚れを取り除き、罪過なければ、あなたは天上界の聖(きよ)き地に至るであろう。」(第236句)
と説きます。つまり、これから死に向かうものへ
「真理を見よ、自らの汚れを告白せよ、反省せよ、自分自身が犯してきた罪とがをここで懺悔せよ」
と説いているのです。そうすれば、天界へ生まれる変わることができるであろう、と説いているのです。
欲望にまみれ、真理を学ぼうともせず、善行を行うことなく生きてきたものでも、死の間際に懺悔し、罪を認め、自身の汚れた心を認めたならば、その汚れは落ち、清浄となって行くのです。そうすれば、苦の世界へ生まれ変わることなく、天界へと往けるのです。
しかし、懺悔なき者、反省なき者、自身の罪を認められぬものは、死への旅路の糧はないのです。それは、苦の世界への旅立ちなのです。苦の世界へ行きたくなければ、この世で己の汚れを清算しておきなさい、ということですね。

「鉄よりのみ生じた錆が、鉄より生じて鉄を損なうように、罪をなす者たちは自身のなした行為のために地獄に導かれる。」(第240句)
いわゆる「身から出た錆」です。錆が汚れであり罪ですね。自業自得ということです。これについては、特に説明はいりませんね。よくあることですから。

「恥を知らずに安易に生活し、カラスのように勇ましく、傲慢で、大胆で、厚かましく、汚されて生きる者は、生活し易い。」(第244句)
まさしくその通りだと思いませんか。すごい皮肉ですけどね。でも、世の中見ていると、図々しく、周りの人のことなど考えずに、傍若無人・厚顔無恥な振る舞いをしているものの方が生きやすいんですよね。こういうヤカラは、何を言っても聞きません。批判されてもへこたれません。注意されてもなんとも思わない。まるで、どこかの国の政治家や官僚のような人々ですね。あ、誰ですか、近所のおばさん達だ、な〜んていってるのは。こういう人たちは確かに生きやすいんです。
「恥を知り、常に清きを求め、執われなく、へりくだり、清く生きる正見者は、生活し難い。」(第245句)
当然ながら、正直に生きている者は生き難いんです。清く正しく生きよう・・・・そういう生き方は苦しい生き方になってしまいます。損する生き方になってしまいます。だから、こうした生き方をする者は少なくなってしまうんですね。
でも、その中間あたりにいればいいんですよ。あまりにもでかい態度、恥知らずな行為はいけませんが、バカ正直になる必要もないでしょう。多少ずるくても仕方がないんです。そういう世の中だから。間違っていることを間違っている、と声高に叫ぶことも大事ですが、それは時と場合にもよるでしょう。そこを間違うと、逆に非難されることになります。
ならば、時には黙って見過ごすことも必要なのではないでしょうか。生きにくい世の中を少しでも生きやすく生きるには、多少の図々しさも持たないといけないのでしょう。だからといって、汚れているわけではないのですからね。

この章は汚れの章ではありますが、直接的に汚れという表現を使っている句は少ないです。時に罪と言ったり、過失と言ったり、自制がないといったり、快楽に耽るといったり、表現は様々です。ですが、それらは、すべて己の勝手な欲望によるものですから、そうした欲望や罪に従っている以上、汚れは増えていくのです。たとえば、
「他人の過失を探し出し、常に苦情をいう者に、かれの汚れは増し加わる。かれは汚れの消滅から程遠い。」(第253句)
というように。
他人のことばかり非難したり批判した入りしている者は、己を見ません。そういう者は、益々自分自身の汚れが増えるのです。すなわち、自分のことは棚にあげ他人ことばかりとやかく言う者に安楽は来ないのです。これは、よくあることですから、注意したいですね。他人のことよりもまず自分です。
この章の句は多く、21句あります。全文掲載できないのが残念です。


第19章 公正な人の章
公正な人とはいかなる人を言うのか、それをここでは説いています。
「性急ならず、法と公正とをもって他の者たちを導き、法を守り、智慧ある者が、公正な人と呼ばれる。」(第257句)
急がず、冷静で、社会のルールと平等の考えにより人々を導いていくものこそが「公正な人」なのです。そんな人はなかなかいません。なぜなら、平等に見ることが難しいからです。
平等に見ようと思えば、感情を交えてはいけません。絶対的客観という立場にたたなくてはいけないのです。それはすごく難しいことなんですよ。たとえ、裁判官であっても、公平に見ているかといえばそうでもないことがありますからね。
ですから、公正な人、というのは、今の世の中存在しない、と思っていたほうがいいかもしれませんね。まあ、裁判官や弁護士、検事などは、そうあって欲しいと思いますが、そういうわけにはいかないようですなぁ・・・・。

「多く語ることだけで、それゆえに、賢い者となるのではない。安穏で、怨みがなく、恐れのない者をば、賢い者と呼ばれる。」(第258句)
物事をよく知っている、頭がよい、勉強ができる、語り口調がうまい・・・という人が真の賢き者ではありません。真の賢い者とは、いつも安穏で穏やかで怒ったり怨んだりせず、何の恐怖のない者のことを言うのです。それこそが、賢者と称されるのですね。勉強ができたり、物事をよく知っていたりしても、賢者とは言えないのですよ。
逆に、ものを知らなくても、勉強ができなくても、いつも落ち着いて、冷静に判断ができ、怒ることなく怨むことなく、恐怖なく生きている者がいれば、その人が賢者なのです。
同様に
「白髪をいただくから長老(=年老いて尊敬に値する人)であるのではない。かれの齢はふけただけのことで、かれはいたずらに年老いた者といわれる。」(第260句)
現代のお年寄りには耳が痛い言葉なのではないかと思いますね。最近では「老害」なんて言葉もあるくらいです。それほど、勝手な振る舞いや勝手なことをいう老人が増えてきたのでしょう。
ご老人を大切に・・・・と言われるのはよくわかります。でも、中には大切にしたくない老人もいます。憎たらしい老人もいるんですよ。ことごとく妨害す老人とかね。田舎に行くと結構多くいたります。傍若無人な老人が・・・・。
年をとったから偉いんじゃありません。年寄りだから尊敬されるのではありません。尊敬されるに値するから尊敬されるんです。「年寄りは偉い」なんてことはありません。ですから、お年寄りのみなさん、自分の言動にはよ〜っく注意して、嫌われないようにしましょうね。

この章では、どんな者が尊敬されるのかを多く説いていますが、その多くの句は出家者や修行者に対してのものです。出家者や修行者の行為によって尊敬されるか否かが決まるのであり、出家者だから修行者だから、という理由で尊敬されるにではない、と説いています。老人のことと同じですね。尊敬されるには尊敬されるような人物にならないといけないのです。
尤も、尊敬されたい・・・と思った時点で、尊敬に値する人物ではなくなっているのですが・・・・。
ということで、出家者に対して痛烈な言葉がありますので、自戒の意味を込めて紹介しておきます。
「頭を剃っても、慎みなく、嘘をいっている者は、修行者ではない。欲望と貪りとを有して、どうして修行者となろうか。」(第264句)
世の中のお坊さん、出家者のみなさん、否、それだけでなく新興宗教の代表者や教祖様、あなたたちは修行者ではありません。出家者でもありません。教祖?、ちゃんちゃらおかしいですね。み〜んな、欲望の具現者でしかないのですよ。

この章には、17句あります。半分以上が出家者や修行者への警句です。ということは、お釈迦さまがいらしたころから、欲望の塊のような出家者や修行者がいたのでしょう。そう思うと、今の坊さんや宗教者の姿が納得できますかねぇ。
いやいや、納得しちゃあいけませんよね。


法句経(ほっくきょう)の6
第20章 道の章
道とは、「悟りに至る道」の道です。すなわち、修行方法のことですね。「悟りに至る修行法」ということです。どの道が最善か、ということをここでは説き明かしています。
「もろもろの道のうちでは八つの部分より成るものが最勝であり、もろもろの真理のうちでは四つのことば(が最勝)である。もろもろの理法のうちでは離欲が、また人びとのうちでは具眼者(が最勝)である。」(第273句)
「もろもろの道」とは「いろいろな修行方法」という意味ですね。そうした様々な修行法のなかでは「八つの部分」=「八正道」が最も優れていると説いています。
「八正道」とは、「正しくものを見る正見、正しく思考する正思惟、正しい言葉を使う正語、正しい行いをする正業、正しい生活を送る正命、正しく努力する正精進、正しい思慮である正念、正しく瞑想する正定」のことです(詳しくは「お気楽!、仏教講座バックナンバー2の10回目をご覧ください)。この八つの道を行けば、悟りと至るわけです。
お釈迦さまがいらした当時(まあ、今でもそうなんですが)、多くの聖者(宗教家)がいました。で、いろいろな教えを説いていました。しかし、そのどれもが「悟り」に至れる教えではなかったのです。せいぜい「空を知る」もしくは「空であることにこだわらない」という段階までが限度でした。お釈迦様は、それでは悟りを得られないと悟り、苦行ののちに7日間の瞑想を経て悟りにいたります。そうして見つけた悟りへの道(修行方法)が「八正道」だったのです(詳しくは「お釈迦様物語」のバックナンバーを読んでみてください。)ですので、悟りに至ることができる唯一の道は「八正道」なのです。したがって、その道は最勝であるのです。
「もろもろの真理のうちでは四つのことばが最勝」という句の「四つ」とは「四諦(したい)」と言われる真理のことです。
「四諦」とは「苦諦、集諦、滅諦、道諦」のことです。「苦諦」とは「この世は苦の世界である」と知ることです。「集諦」とは「その苦しみの原因は欲にある」と知ることです。「滅諦」とは「苦しみから解放されるには欲のもとを滅することである」と知ることです。「道諦」とは「その欲を滅する方法が八正道である」と知ることです(詳しくは「お気楽!、仏教講座」を読んでください)。これは、仏教の基本ですね。仏教はまず「この世は苦の世界である」と認識することから始まるのです。これを説いたのは、お釈迦様以外いないので、この四つの真理は最勝なのです。
また、いろいろな理法が説かれている中では、「離欲」・・・欲から心を離す・・・ことが最も勝れている、と説きます。多くの宗教家・・・・今も昔も・・・・この「離欲」が実践できていない、と思います。というか、確実にできていませんよね。できているのは過去の「高僧」と言われた仏教の修行者だけなのではないでしょうか。それでも、完全な「離欲」ではないでしょう。
言葉では簡単ですが、実践となると最も難しいことが「離欲」でしょう。人間が最も手の届かないところでありますから、最勝であることは間違いあいりません。
四諦を理解し、八正道を成し遂げ、離欲できた者をブッダ・・・目覚めた者・・・といいます。別の言い方では「具眼者」とも言います。「すぐれた眼を具えたる者」という意味ですね。人々の中でブッダが最も勝れていることは、いうまでもありませんね。
道とは、ブッダがブッダに成れるために・・・この身このままブッダになるために・・・・説いた修行方法なのです。ですから、最勝であるのは当然ですね。

「あなたがたはなさねばならぬことを熱心に(せよ)。如来たちは告知者(にすぎぬもの)である。瞑想する者たちは実践することによって死王の束縛を脱がれる。」(第276句)
「なさねばならぬこと」とは修行・・・・道・・・・ですね。八正道のことです。如来とはブッダのことです。最上の覚りを得た者は如来となります。その如来は、悟りに至る道を告知する者にすぎないのです。悟りを得るには、正しく瞑想し、道を実践しなければなりません。そうすれば、生死の繰り返しである輪廻から脱出することができるのです。

「語(ことば)にきをつけ、心をよく制御し、体で悪をなさないという、この三つの行為の道を清らかにするならば、聖仙(しょうせん・・・イシ)によって説かれた道を得るであろう。」(第281句)
「賢い者はこの道理のあるところを知って、徳行を守り、心の安らぎに至る道を速やかにまさに清めるがよい。」(第289句)
八正道の基本は、口と心と行動を正しくすることに集約されます。これは、仏教の基本ですね。私たち真言宗・・・密教・・・では、特にこの「身と口と心」を重要視します。身と口と心を正しくする=仏様と同じ状態にする、ことで即身成仏できると説くのが密教なのですから。
つまり、身と口と心をよく制御できれば、これらの三つを清らかにすることができれば、悟りを得る=仏陀になることができるのです。
「聖仙」とは、聖なる仙人、すなわちブッダのことです。初期仏教では、お釈迦様のことを聖なる仙人と呼ぶことがあります。サンスクリット語で仙人のことを「イシ」といいますが、初期経典では、お釈迦様のことを単なるイシと称した部分があり、漢訳の時に他の仙人と区別するため「聖仙」と訳しました。
さて、賢い者は、智慧のある者は、修行法があることを知って、心の安らぎ・・・・すなわち悟り・・・・に至る道を実行するのがよいのです。
ともかく実行しないことには始まらないんですよ、何事もね。この章では、そのことを説いています。なお、この章には17句あります。


第21章 種々なるものの章
この章は、どこの章にも分類されない、どこの章へ入れていいかわからない句を集めた章といわれています。または、様々な者たちについて説かれた章ともいわれています。
いずれにせよ、内容は統一されてはいないようです。いろいろな句が混在しています。わかりやすい句だけを紹介しておきます。
「わずかな安楽を捨てて広大な安楽を望むならば、賢い者は広大の安楽を望み、わずかな安楽を捨てたがよい。」(第290句)
日常の安楽・・・家庭の平和や安定した生活・・・を望まず、もっと大きな安楽を望め、と説いています。もっと大きな安楽とは、当然ながら悟りの境地です。一切の恐怖、迷い、苦しみから解放された世界ですね。
小さな安楽の場合は、簡単にその安楽が崩れる可能性があります。昨日までの平和な家庭が今日になったら不幸のどん底に落ちた・・・・という話はよく聞きますよね。小さな安楽は、不安定なものなのです。
ところが大きな安楽を得ていれば、どんな苦しみや災難に見舞われたとしても、それを苦と感じることなく、平穏でいられるのです。なので、賢き者は大きな安楽を望め、と説くのです。
まあ、一般の方には、まずは小さな安楽から・・・と思いますけどね。そのうえで、大きな安楽へ進む・・・という方が現実的ではありますよね。いきなり、大きな安楽を目指すよりも・・・・。

「他人を苦しめて、自分の安楽を望む者は怨みの絆に結ばれて、かれは怨みより脱れられない。」(第291句)
他人を苦しめて得た安楽・・・それはおそらく小さな安楽なのでしょう・・・は、怨みを買うだけで長続きはしません。当然のことです。他人を陥れておいて、自分だけが幸せになろうなんて、それは「人でなし」が考えることですよね。
しかし、世の中には、他人を不幸にして自分が幸せになった、他人を陥れて自分が助かった、他人を苦しめて自分が楽になった、という話は多々あります。そうした者のの中には、平気な顔をして幸せそうに暮らしている者も少なくはないでしょう。ですが、怨みは残っています。この怨みは怖いです。
よく、「先祖は大金持ちだったのですが・・・」とか「先祖は名士だったのですが・・・」という話を聞きます。先祖はよかったのにだんだんと落ちぶれていってしまった・・・・という家ですね。よくある話です。そうした家の過去をたどると、意外と他人を苦しめた上で金持ちになった、名士になった、あるいは、他人を不幸にしたうえに成り立っている家だった、ということがあります。結局は、怨みに負けてしまうんですね。で、家が没落していくんです。
今は、何もないかもしれません。他人を陥れた報いは来ていないかもしれません。しかし、いずれ怨みは増大し、報いはやってくるのです。怨みからは逃れられないんです。
だからこそ、他人を不幸にしてまでも、自分の安楽を得ようとしてはならないのです。
この二句は、ともに安楽について述べているようですが、その内容はまったく異なります。290句は、本当の安楽について説いてますが、291句は怨みを買うな、という意味が強いですね。同じような言葉が並んでいますが、内容は異なるのです。したがって、分類が難しかったのだろうと思われます。

「信念があり、徳行がそなわり、名声と財産とを有する者は、どんな土地に行っても、それぞれのところで必ず尊敬される。」(第303句)
この句はどちらかというと俗っぽいような気がしませんか?。いままででしたら「名声や財産があっても尊敬されるとは限らない」というように説いていましたよね。本当に尊敬されるものは、その者の行動が正しくないといけない、と説いていたはずです。名声や財産など関係ない、と。
ところがここでは、名声や財産がある者で、信念と徳行があれば、どこへ行っても尊敬される、と説いています。まあ、当然な内容ですけどね。いくら地位や名声、財産があっても尊敬されるとは限らないことくらいは誰でも知っています。それプラス人物の出来具合が左右することくらい、我々は知っています。また、地位や名声、財産がなくとも、尊敬される人間が多々いることを知っています。そんなことは、はるか昔から誰もが知っていることですよね。それなのに、あえてお釈迦様は説かれた。しかも、名声や財産がある者は、などと金持ちを優遇するような言い方で。
この句の意味は、逆に取ってもらいたいです。嫌味ですね。すなわち、名声や財産があっても、信念がなく、徳行が備わってない者・・・多くの者がそうであるように・・・は尊敬されないのだ、ということが説きたかったのでしょう。
人は、地位や名声、財産を得ると、威張りたくなるものです。徳行なんてどこへ行ったやら、ちょっと前までの謙虚な態度はどこへ飛んで行ってしまったのか・・・。偉い人間と言われるようになったら、途端に威張りだしたよ・・・・。な〜んて話はよく聞きますよね。そんな者は、尊敬などされません。陰口をたたかれるだけです。いくら地位や名声、財産を得ても、正しい信念を持ち、徳行が備わって、謙虚でいるならば、どこへ行っても尊敬されるのです。
そのことが説きたかったのでしょう。嫌味の一言、ですね。なので、どの章に入れていいか分からなかったようです。

このように、この章では、どこへ分類すべきか迷う句が集められています。なので、種々の内容の句があります。この章には、そうした句が16あります。


第22章 地獄の章
「こうしたものは地獄へ行く」ということを説いた章です。この章の句を読んで心当たりのある方は、早めに行動を改めたほうがいいでしょう。でないと、地獄へ行くことになるかもしれません・・・。
「誰も虚偽を語る者、また行ったのちに、『わたしはしない』という者は、地獄に行く。この両者はまた相ひとしく、他の世で賤しい行為をなす人びととなる。」(第306句)
嘘をつくもの、やったのにやってないというもの、こういう者は地獄へ行きます。某国の官僚の方、政治家の方、覚悟しておいたほうがいいですね。地獄行きは決定です。
それだけではありません。「他の世」・・・ですから、生まれ変わってから、必ず賤しい行為をする者になる、というのです。長い年月の間地獄で苦しみ、その次の生まれ変わった世界ではいやしい行いをするものへと生まれ変わる、と説いているのです。これでは、救いがありません。ですから、ウソはつかないほうがいいですね。

「多くの者は袈裟を頸にしながらも、性悪で、自制がなく、悪しき者である。かれらは悪しき行為によって地獄に行くにちがいない。」(第307句)
現代の多くのお坊さん、地獄行き決定ですね。出家者が取るべき道は厳しいですから、ちょっとした贅沢も悪しき行為に入ってしまいます。忘年会などもってのほか。ましてや酒を飲むなんて・・・、女性と戯れるなんて・・・、高級車を乗り回すなんて・・・・・。地獄の口が大きくあいて待ってますよ。
でもね、何も悲観することはありません。この句が説かれたのは、お釈迦さまがいらっしゃったころです。お釈迦さまがいらっしゃったころから、袈裟を身につけた修行者の多くが自制がなく欲にまみれ、よろしくない行為をしていたのですから。地獄には、仲間が多いのですよ、出家者の皆さま、私も含めて・・・・。地獄もみんなで行けば怖くないでしょう。みんな出家者という仲間ですからね。
でも、地獄が嫌なら、生活を改めましょうね、出家者のみなさん。
お釈迦さまがいらしたころから、修行者でも不真面目な者が多くいたようです。欲に勝つということは、いかに難しいか・・・ですね。

「してはならないことはしないほうがよい。悪いことをすれば、後に苦しむ。だが、善いことをするのはよい。行って後に苦しむことがない。」(第314句)
やっちゃいけないことは、しないほうがいいに決まっています。してはいけないことをすれば、後悔が残るばかりですね。「なんであんなことをしてしまったんだろう」と。しかも、それですまない場合も多いから、大変です。死後は地獄が待っていますしね。後々まで苦しむことになるのです。しかし、善いことはサッサとしたほうがいいです。後には、何とも言えない充実感がやってきます。してよかった・・・と。
ですが、悪いこと、してはいけないことって、妙な誘惑をするんですよね。やってはいけないこと、とは、多くの場合魅力的に見えるものです。気をつけましょう。つまらない誘惑に引っ掛からないように、自分をしっかり持ちましょうね。

この地獄の章には、14句あります。そのどれもが「こういうことをすれば地獄へ落ちる」と説かれています。しかし、集約してしまえば、314句になってしまいます。そう、「やってはいけないことをすれば、地獄へ落ちる」というわけですね。
社会のルールを守って生きましょう。大変なことになってからでは遅いですからね。小さな油断が命取りです。


法句経(ほっくきょう)の7
第23章 象の章
インドにおいて、象は人気のある動物です。インドでは、特に牛を神聖視しますが、象も時に神々の使いとして、あるいは森の聖なる動物として、または優秀な動物として、しばしばインド神話などにも登場します。お経にも登場することもあります。この章では、教えを象の姿に譬えた句がまとめられています。
「戦場で弓より放たれた矢を象が忍ぶように、わたしは(非難を)耐え忍ぼう。なぜなら、多くの者は不徳だから。」(第320句)
仏教教団は、言うまでもなくお釈迦様の教えを学び、悟りたいと願ったものたちの集まりです。当時のインドでは、お釈迦様の教団・・・仏教教団・・・の勢いはすさまじく、他宗派の教団や聖者たちの弟子たちが、仏教教団へと移ることがしばしばありました。そのため、他の宗派や聖者たちはお釈迦様や高弟を妬み、公然と仏教教団を非難する者やお釈迦様や弟子たちの悪口を言う者が多くいました。そうした非難の声に反論しないのか、という声が仏教信者から出ました。それに対してのお釈迦様の答えが、この句です。
いくら非難に反論しても、それは後を絶ちません。一つの非難が消えたら、次の非難が生まれるものです。なので、お釈迦様は、どんな非難に対しても耐え忍ぶという道を選んだのです。しかも、非難する者は、その根本にあるのは妬みなのですから、黙っていればどちらが正しいか、自ずとわかるものなのです。己が正しい行動をしているのではあれば、
「言いたいヤツには言わせておけばいいさ。自分は気にしないよ。」
ということですね。疾しいところがなければ、象のように堂々としていればいいのです。

「愚か者を連れとせず、独りで行くほうがよい。そして、もろもろの悪をなさず、林の中の象のように少欲で、独り行くがよい。」(第330句)
友人や配偶者は大切です。周囲の人たちは、自分に大きな影響を与えます。ですから、「友人は選べ」と言われます。悪い仲間と付き合えば悪の道へと進むでしょうし、悪い配偶者は不幸のもとです。周囲の人間が悪ければ、その悪さに染まってしまうものです。人は弱い生き物ですからね。
そんな悪の道に染まるくらいなら、悪い友人しかいないのなら、一人でいるほうが本当はいいのですよ。悪い者たち、愚かな者たちと交わるくらいなら、独りでいて悪をなさず、ひっそりと生きていたほうがいいのです。悪い友人は、真の友人ではありません。悪い行為を止めてくれる者が真の友人なのです。悪の道に引き込むような人間と付き合うくらいなら、独りでいるほうがいいのです。林の中でひっそりと暮らす象のように・・・。

象の例えは、よい譬えばかりではありません。
「この心は以前には、好むまま、欲するがままに、楽しいままに、振舞った。今やわたしはこれを徹底的に抑制するであろう。(象師が)発情期の象を鉤で捕らえるように。」(第326句)
お釈迦さまも悟りを得る以前は、自分の好きなことをし、自分が欲するままに行動し、快楽を味わったのです。しかし、出家し、修行を経て悟りを得てからは、そうした欲望の心を徹底的にコントロールできるようになったのです。それはあたかも、発情期の象を象師が暴れないように操るようなものなのだ、と説いているのです。発情期の象を、悟る以前の自分の心に譬えたのですね。

象の章なんですが、象がまったく登場しない句も入っています。第331〜333句がそうです。
「事が起こるときに連れがあるのは楽しい。満足するのは、いずれにしても、楽しい。善をなせば、命終わるときに楽しい。あらゆる苦悩を滅ぼすことは楽しい。」(第331句)
「この世の中で母を敬うことは楽しく、また父を敬うことも楽しい。この世の中に修行者たることは楽しく、聖職者(バラモン)たることも楽しい。」(第332句)
「年老いるまで徳行あることは楽しい。信念が確立されることは楽しい。さとりの智慧を得ることは楽しい。もろもろの悪をなさないことは楽しい。」(第333句)
331句は、友人があること、満足を知ること、善をなすこと、迷いや苦しみを滅ぼすことを楽しい、と説いています。
332句は、母や父を敬うこと、修行者であること、知識人であり祭司であるバラモンであることが楽しい、と説いています。
333句は、命ある限り徳を積み修行すること、信念がしっかりしていること、悟りを得ること、悪行をしないことが楽しい、と説いています。
いずれも楽しいことです。苦しみではありません。正しい友人がいて、満足を知り、善いことをし、苦しみや悩みを消し去り、母や父を敬い、精神的修行をし、知識を得て祭りごとを指揮し、徳積みを欠かさず、信念があり、悪いことをしないで、悟りや智慧さえも得る・・・・。
それは楽しいでしょう。こんな楽しいことはありません。安楽の境地、安楽の極みですね。こうしたことは、快楽とは違います。快楽はほんの一時的なものです。しかし、ここであげた楽しいことは、生きているうち続くものです。だからこそ、「楽しい」のです。ほんの一時だけ楽しく、あとはまた苦るしみや悩みの世界・・・というのでは、本当の「楽しいこと」ではないのです。
ですから、一時的な快楽を求めず、持続性のある「楽しいこと」を求めるべきなのだ、と説いているのです。
それなのに、なぜか象の章に入っているんですね。理由は不明です。
象に関係のない句も入っていますが、この象の章には14句あります。


第24章 渇望の章
渇望の章というくらいですから、人間の欲について説いてある句を集めた章です。説明はいりませんね。
「気ままに振舞う人に、渇望はあたかもつる草のようにはびこる。かれは森の中で果実を求めている猿のように転々とさまよう。」(第334句)
雑草のツル草って、本当にうっとうしいですよね。切っても切っても絡んできます。何とかならないのかと思いますが、なかなかどうして・・・。根っこから引き抜いてもいつの間にか伸びています。根気よく抜かないとすぐに伸びてしまうんです。
それと同じように、人間の欲もスルスルと伸びてきて、人間の正しい心を蝕んでいきます。特に、勝手気ままにふるまう人は、欲がはびこりやすいですね。そういう欲張った人物は、いつも「何かいいものはないかな」と眼をギラギラさせて餌を求めている動物のようです。欲丸出し・・・・っていうのもいただけませんね。
この句を読んで、ドキッとした方、お気をつけください。欲の根っこはしつこいですからね。本体である正しき心が枯れないよう、注意してほしいものです。まさに、
「もし強い根を断ち切らなければ、たとえ樹木が切られても、きっと再び生長するように、同様にまた渇望の(根源となる)潜勢力が滅ぼさなければ、この苦悩はくりかえしくりかえし生ずる。」(第338句)
なのです。渇望のもと、欲の根源を滅ぼさないと、何度も欲で苦しむことになるんですね。それは、この身が滅んだあと・・・つまり死後も・・・・続くのです。
弘法大師様は、「死んで死んで死んで死の終わりに暗し」と説きましたが、まさにその通りで、渇望の根、欲望の根源を消し去らねば、死に生まれ変わり、また死に生まれ変わり・・・・しながら苦を受けることになるのでしょう。
いつ、それを断ち切って御仏の光を見るのでしょうか・・・・。
それをお釈迦様は、こう説きました。
「人の快楽ははびこるもので、かつ執着が強い。かれらは歓楽に耽り、快楽を求め、これらの人びとはまさに生と死とを受ける。」(第341句)
確かに、快楽は捨てがたく、歓楽に親しんでます。深く反省・・・・ですね。

しかし、お釈迦様の時代のように完全に歓楽の世界から遠ざかるということは、現代においては不可能に近いですね。一人、孤独に誰とも接することなく、山中で生活するならばできないこともないでしょうが、そうなれば布教は難しいものになってしまいます。現代の世の中のことがらが分からなければ、人々を導くことも難しいでしょう。引き籠ってばかりでは、人々の心は理解できないものです。多くの人や世間と接しなければ、人を導くこともままならない・・・のも事実です。
大事なのは、執着しない、ということなのです。欲望の世界において、その中に生活しても欲望に染まらない、その精神が大切なのでしょう。欲に負けない、ということは、欲に染まらない、ということです。欲の世界で、民衆と同じように生活しても、その欲に執着しないこと、それが重要なのでしょう。いかに、欲望・誘惑に惑わされないか・・・・ですね。

「生存の彼岸に行く者は、以前(=過去)を離れ、以後(=未来)を離れ、中間(=現在)を離れよ。すべてのところで心が解き放たれるならば、あなたは再び生と老とを受けることがない。」(第348句)
彼岸とは、「あの世」のことではありません。「お彼岸」というと、亡くなった方がいく世界のように思いがちですが、本来の意味は「悟りの世界」のことです。迷いの世界が「此岸(しがん)」です。ですので、悟りの世界を得ることを
「此の岸から彼の岸へいく」
とも言います。
さて、その悟りの世界へ行くには、過去からも未来からも現在からも解放されなければいけません。
「あのとき、ああだったな」 「あのとき、ああすればよかった」 「あのとき、あいつがあんなことをしたから俺は不幸だ」・・・。
などと、過去にこだわって愚痴ばかりの方がたまにいます。いつまでも過去のことをくよくよしたり、怒ったり、怨んだりしている方、いますよね。そういう方は、彼岸には至れません。過去に起きたことはどうしようもありません。変えることは不可能なのです。ですので、そんなことにこだわっていてはいけません。過去は捨て去ればいいものです。
では、未来はどうでしょうか?。未来に起こることなんてわかりません。わかっているのは、「いずれ死ぬ」ということだけです。未来は、刻々と変化するものです。現在の自分の行動によって、未来は変わってしまうのです。そんな不確定な未来を心配する必要はありません。どうなるかは、誰にもわからないのですから。まだ、起こってもいないことを不安がっても愚かなだけです。ただ、いつ何が起きてもいいように心の準備だけをしておけばいいのです。何が起きても冷静でいられるように、精神を鍛えておけばいいのです。未来にこだわるのではなく・・・・。
ならば、現在はどうでしょうか?。現在とは、思った瞬間、過去になるものです。実際のところ、現在という瞬間はありません。「現在は・・・・」といった瞬間に過去になるのです。そんな存在もしない現在にこだわっても仕方がないでしょう。現在は、過去に入るのですから、過去同様こだわってはならないものなのです。
過去・現在・未来から解放された境地にいたって、生と死からも解放されるのです。難しいですけどね。しかし、過去にとらわれることだけは止めたいですね。

「もろもろの財富は、彼岸を求めない無知な者を滅ぼす。無知な者は財富を欲するために、他の者たちをも自身をも滅ぼす。」(第355句)
財産は、確かにあったほうがいいかも知れませんが、その財産で苦悩から救われるかといえば、そんなことはありません。むしろ、財産は苦悩を生むものでもあります。
昔から「美田を残さず」といいますが、財産を残された者の行く末というのは、往々にして哀れなものです。「放蕩息子」しかり、「財産争い」しかり、「妬み羨み怨み」を買うこともあり、「盗られる」とう心配がつきもので、人を信用しなくなったりもします。
また、財を求め、金欲に走ったあげく、みじめに滅んで行ってしまったものも多くいます。愚かな者は、使い切れないような財を求め、金欲に走り、自ら滅んで行くのです。いや、それだけではありません。周りをも巻き込むから恐ろしいのです。たった一人で財を求め、その挙句、独り滅んで行くのなら「バカなやつ」ですむのですが、周りも巻き込むからやっかいなんです。
財や富は、使う分だけあればいいのです。余分にあっても苦労が増えるだけです。心配が、争いが増えるだけです。愚かな者ほど、多くの財や富を求めるものなのです。分相応であればいいのです。

さて、この渇望の章は以上のように「人間の愚かな欲望」について痛烈に批判した句を集めています。なかなか耳に痛い句ばかりです。全部で26句もあります。全部を紹介できないのがとても残念ですが、自己嫌悪に陥りそうなので、これぐらいがちょうどいいかも知れませんね。


第25章 托鉢者の章
托鉢者とは、托鉢で食を得ている者たち・・・すなわち出家者や修行者たちのこと言います。当時のインドでは、仏教修行者だけでなく、他の宗派で修行をする者も、修行者はすべて托鉢で食を得ていました。しかし、ここでいう托鉢者とは、仏教教団で修行する修行者のことです。
「目を制御することは善い。耳を制御することは善い。鼻を制御することは善い。舌を制御することは善い。」(第360句)
「身を制御することは善い。語(ことば)を制御することは善い。すべてにおける制御は善い。すべてについて制御した托鉢者は、あらゆる苦悩より解放される。」(第361句)
「手が制御され、足が制御され、語が制御され、きわめてよく制御され、内に喜びあり、心定まり、独りあって満ち足りた者、かれをわたしは托鉢者という。」(第362句)
360句と361句は対になっています。というよりも、本来は一つの句であったほうがいいのではないか、と思われる句ですね。そのほうが意味がわかりやすいでしょう。362句は補足のようなものです。
さて、目を制御するとは、見ることをコントロールすることです。正しく見る、ということです。外見に惑わされないで、本質を見ることです。ブスだとか美人だとか、ダサいとかイケメンだとかにとらわれず、その人自身を見ることです。また、のぞき見をしたり、欲望の目で見たりしないことです。
耳を制御するとは、正しく耳を使うことです。聞きたい言葉だけを聞くのではなく、注意や忠告にも耳を傾けることです。人は、自分にとって心地よい言葉や音楽、音しか耳にしたくありません。そうではなく、平等に聞き入れることです。
鼻を制御することも同じですね。クサイ・・・といって差別をしないようにすることです。すべて平等に、いい香りもよくない香りも同じに扱うことです。
舌を制御するとは、味にこだわらないことです。不味いからいらない、ではなく美味しいものも不味いものも平等に食べることです。
身を制御するとは、行動をコントロールすることです。殺生しない、盗まない、邪淫を犯さない・・・ということですね。正しい行動、たち振る舞いが立派であることです。
語・・・ことば・・・を制御するとは、嘘をつかない、悪口を言わない、おかしな言葉を使わない、二枚舌を使わない、いつも弁舌さわやかに無駄な言葉を発せず、語ることをいいます。
このように、自己をコントロールすることができる托鉢者=修行者は、あらゆる苦悩から解放され、悟りを得ることができるのです。
また、このように自己をしっかりコントロールできるものを托鉢者と呼ぶのです。ということは、お釈迦様がいた当時から、ニセの托鉢者が結構いたのでしょう。自己をコントロールできない、不平不満を垂れ、盗みをしたり、のぞき見をしたり、邪淫を犯したりした悪い托鉢者がいたのでしょう。そうしたニセの托鉢者に対する批判もあっての362句なのでしょう。
いつの時代も、真面目なものとそうでない者がいるのです。

「自分の所得を買いかぶるな。他の者たちをねたむな。他の者たちをねたむ托鉢者は、心の安まることがない。」(第365句)
「托鉢者」を単に「者」と言い換えたほうがわかりやすいですね。何も、托鉢者だけに言えることではないですから。
自分のことを買いかぶる者は昔もいたようです。こうした者は、伸びないんですね。で、自滅します。できもしない癖にエラソーなことを言っている者たちです。そういうものは、得てして他の者を妬みます。妬んでいては、結局のところ自分が損をするだけなんですけどね。妬ましいなら、その者に追いつくよう努力すればいいんですよ。あるいは、その者とは別のことで張り合えばいいのです。何も同じ土俵で競争することはないでしょう。他の者には他の者のよさがありますし、自分には自分のよさがあるでしょう。そこで伸びればいいのですから、何も妬む必要はないんですよね。しっかり自己を見つめ、自分にとって妬ましい相手と、はり合うだけの能力はないことを認めたほうがよいのです。で、他のことで頑張ればいいのですよ。自分に合ったことをすればいいのです。妬む必要はありません。妬むだけ愚かですね。

「慈愛をもって行動し、目覚めた人の教えを信ずる托鉢者は、静安にして(身体の)存在の静まった安楽の位置に達するであろう。」(第368句)
ここも「托鉢者」を「者」に置き換えて読むといいでしょう。
ツンツンした態度でなく、やさしい態度で他人に接し、目覚めた者=仏陀の教えを信じている人は、心がいつも安定していて、イライラしないものです。それは安楽の境地にいるからです。
我々も仏陀の教えは信じています。しかし、なかなか安楽の境地には至れません。ついつい、怒ったりもします。それは、慈愛をもった行動をしていないからですね。うまくおのれ自身をコントロールできていないんですね。なかなか自身を制御するということは、難しいことです。すこしでも慈愛のある行動ができるといいですね。
托鉢者という言葉はでてきませんが、この自分自身をコントロールするということに関しての句をこの章の最後に紹介しておきます。
「己こそ自身の主(あるじ)、己こそ自身の依り所である。それゆえ、(馬)商人が良馬を(制御する)ように、己を制するがよい。」(第380句)
自分自身の行動・言葉は、自分自身から生まれたものです。したがって、自己責任です。他人のせいにしてはいけません。己の主体は自分自身なのですから。迷うのも自分、怒るのも自分、さぼるのも自分、努力するのも自分、快楽に耽るのも自分、悪口を言うのも自分・・・・。己の言動すべて、己によるものなのです。だからこそ、誤った行動をしないよう、つまらない言葉を発しないよう、己自身をよくコントロールしなければなりません。
己こそ、己の主なのです。誰かからコントロールされているわけではありません。自分でよく考え、自分で行い、話すのです。他人のせいにしてはいけないのですよ。厳しい言葉ですが・・・。

この章も多くの句があります。全部で22句ですね。いずれも自分自身をよくコントロールせよ、ということを中心に説いています。


第26章 聖職者(バラモン)の章
法句経の最後の章です。聖職者とありますが、原文は「バラモン」と書かれています。バラモンとは、神職のようなもので、インドの身分制度であるカースト制度の頂点にある存在です。知識人であり、あらゆる宗教儀式の長を担う身分です。したがって、バラモンは偉いのです。威張っています。となれば、行動や言葉が悪辣なバラモンもでてきます。当然ですね。身分が頂点にある以上、だれも逆らうことはしません。そうなれば、威張るのは当然です。
ですので、お釈迦様がいらした時代のバラモンは、乱れていました。本来、聖職者であるはずのバラモンが聖職者でなくなっていたのです。
そこで、お釈迦様は聖職者とはどんな存在であるか、を説いたのです。バラモンが聖職者なのではなく、その人の行動や言葉によって聖職者になるのだ、バラモンになるのだ、と説いたのです。そうした句が集められたのがこの章です。
「体により、語(ことば)により、意(こころ)によって悪しきことをなさず、この三つのものを抑制した者、かれをわたしは聖職者と呼ぶ。」(第391句)
まさにその通りですね。解説はいらないでしょう。
現代でも、聖職者と呼ばれる職業の方はいますよね。宗教家はもちろんのこと、先生や医者もそうですね。いわゆる聖職者です。ところが、現代でも聖職者と言われる人の言動は、聖職者たるものかどうかと問われると怪しいものです。はたして、聖職者と呼べるのでしょうか?。
真の聖職者は、いないとはいいませんが、少ないんじゃないかなと思います。もちろん、私も外れているでしょう。結構、言葉がね、毒を吐きますから・・・。
聖職者になることはできても、聖職者であることは難しいことです。

「生まれによるがゆえに、(すぐれた)母系のゆえに、聖職者であると、わたしはいわない。彼は実に傲慢で、裕福な者である。無一物で所有なき者、かれをわたしは聖職者と呼ぶ。」(第396句)
当時のバラモンは、世襲式でした。したがって、バラモンの子はバラモンなのです。バラモンは身分制度の頂点でしたから、裕福です。どんな時代でも、どこの国でも、頂点にいる者は裕福なのです。また、その子供は傲慢と相場は決まっています。世襲式の悪いところですね。
え〜、内輪話ですが、大寺の息子はたいてい威張っています。傲慢ですね。わがままです。全部が全部とは言いませんが、そういう方が多いですね。世襲式の悪いところです。
生まれがいいから、家が裕福だから、血筋がいいからといって、人間性がいいとは限りません。現代でも、家柄云々する家がありますが、いい家柄の出身だからと言って、尊敬できる人物とは限りませんよね。むしろ、家柄にこだわる家の人は、嫌な感じの人が多いようです。人間の価値は家柄や血筋で決まるものじゃないんですけどね。
その人の価値とは、その人の言動によるものでしょう。価値のない人間は、この世には存在しませんが、価値を高めたいのなら、言動を正しくすることですよね。決して金持ちになることでもなく、有名になることでもありません。正しい言動、尊敬できるたち振る舞い、こだわりなく平等に対応する者、そうした者こそが立派な者と言われる人なのです。すなわち、真の聖職者なのでしょう。

お釈迦様がいらしたころから、聖職者の中には、正しい聖職者もいれば、名ばかりの聖職者もいたのです。時代は変わっても中身は変わりません。何年たっても人は同じ過ちを繰り返しているのです。何と愚かなのでしょうか・・・・。

この章の句は実は最も多く、全部で43句あります。ということは、いかに聖職者が乱れていたか・・・・ということがわかりますね。それは、単にバラモンだけでなく、仏教教団の出家者も含め、また他の宗派の聖者と呼ばれる修行者も含んでのことです。お釈迦様がいらした時代には、そうした道を誤った修行者が多くいたのです。エセ修行者ですね。
この章は、現代の宗教家、お坊さん、新興宗教の教祖、拝み屋さん、医者、先生、政治家、官僚などが読むといい内容です。一般の方が読めば、
「お釈迦様が言われる通りなら、この世には聖職者いないな」
という感想を持つことでしょう。
お釈迦様から見れば、
「今の時代、聖職者と呼べるものは・・・・いないなぁ・・・。」
となることでしょう。それほど、厳しいことが書いてあるのですよ。興味のある方は、ぜひぜひ原本を読んでください。


さて、長い間、法句経の内容をお話してきましたが、今回で最後です。ここで紹介した句は、ほんの一部です。全部が読みたい、面白そうだ、と興味を持った方は、ぜひ全句読んでみてください。でも、自己嫌悪に陥らないように、またお坊さんをバカにしないように、ご注意ください。至らないけど、お坊さんも頑張って修行しているのですからね。
なお、ここで紹介した句は、筑摩書房「現代人の仏教2 真理の花たば 法句経  宮坂宥勝著」によりました。
合掌。



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