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仏教講座

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53回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その2  法相宗
A法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)
倶舎宗を併記したのは、法相宗が倶舎宗の発展形だからです。法相宗は倶舎を発展させた宗派なのです。
さて、法相宗の法相とは、どういう意味かといいますと、
「諸法の相を決定することを目的としている。諸法の実なる性質・・・諸法の真実の姿・・・を考察するよりも、相である姿・・・現象・・・を考察すること」
です。簡単に言えば、もろもろの現象の真の姿を知るのではなく、起きたことである現象そのものを知る・・・、あ〜、難しいですね・・・ことなんですが、ま、ぶっちゃけた話、真実の姿を知るのではなく、表面の姿を知りましょう、という考え方ですね。つまり、
一切の現象(諸法)の表面上の姿、現れ(相)を知る教え→法相宗
となるのです。
で、諸法の相とは如何なるものか、と考えたところ、すべては「心」にある、というところに至るんですね。
「すべては心にあり」
ということです。つまり、「唯、心の識のみ」という考えですから、法相宗のことを「唯識(ゆいしき)、唯識学(ゆいしきがく)」ともいいます。この唯識学は、仏教を学問的にとらえた時の基礎になっています。大乗仏教のすべての教学の基本ですね。

唯識という言葉は、聞いたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか?。「唯識」というのは、一言でいえば「心の分析」です。もう少し具体的に言えば、「唯識学とは世界で初めて深層心理の存在を認めた学問」なのです。フロイトやユングが生まれる遥か以前に、仏教では深層心理に至り、人間の心を細かく分析していたんですね。
唯識学は、龍樹のあとにでた無着・世親の兄弟によって確立されました。無着はこの唯識を「弥勒」に学んだ、とされています。
弥勒とは兜卒天の弥勒菩薩のこと、とする説と、実在の人物である弥勒(マイトレーヤ)とする説がありますが、いずれにしても唯識学は弥勒菩薩の境地、とも言われています。
無着は、弥勒に学び、心の分析を5項目75種類(五位七十五法といいます)に分類しました。この時点で出来上がったのが倶舎宗ですね。それをさらに発展させ、唯識学を完成させたのが弟の世親です。最終的には、心の分析を5項目100種類(五位百法といいます)まで発展させています。こうしてできあがったのが、法相宗です。
まあ、倶舎宗にしても法相宗にしても、心の分析学である唯識学を中心にしていることは同じです。ですから、今でいう仏教とはちょっと異なりますね。一般庶民のための仏教である大乗仏教にいれていものかどうか、迷うところもありますよね。まあ、人々の心を分析し、深層心理のなせる行為に至ったところは、庶民のための学問かな、とも言えますが、内容的には、大変細かく、言葉もわかりにくく、面倒臭い宗派でもあります。そんなに細かく分析しなくてもいいでしょ、と思えるくらいです。というか、それってこだわりをなくすはずの仏教の教えから矛盾してない?とも思える教えなんですよね。
まあ、深層心理を知ってこだわりをなくす教え、と言われれば、確かに仏教ではあるのですが、どうも学問に偏る傾向が強く、実践的ではないように思えます。もっと、内容を簡単にし、一般の人でもわかるようにすれば、もっと多くの人々に受け入れられたのではないかと思うのです。いわば、大変マニアックな宗派なのですよ。
とはいえ、仏教学者になろうと思う方は、学んでおくべき教えではあります。仏教学の基本ですから。

さて、無着や世親はどうして心の分析などという学問に走ったのでしょうか?。それには、こんなわけがあります。
仏教の祖であるお釈迦様は「諸法無我」を説きました。これは、この世に存在するものすべてにおいて「我」は存在しない、「我」というものはないのだ、ということですね。我がないということは、「本来の実体がない」ということですから、死んだ後、残るものは何もないはずです。死ねば終わり、ということですよね。我という個はないのですから、死ねばその我を引きずることはないはずです。死んだら終わりなのです。
ところが、我がないとする一方、仏教は輪廻転生を認めています。前世や来世の存在を認めています。これって矛盾していませんか?。
ここを仏教以外の宗派からつつかれたんですね。いわく
「仏教では我はない、と説くが、では何が輪廻しているのか?。前世の影響というが、我はないはずなのに、なぜ前世をこの世に引きずっているのか?。我がないのなら輪廻することもないし、前世での行為(業)がこの世の生に影響するはずがないじゃないか。これはどう考えても矛盾してるがどうなのだ?。」
ということですね。仏教の無我と輪廻転生・前世からの業の矛盾点を突いたわけです。
(このようなことを現代の仏教学者も主張することがあります。
「仏教は我の存在を認めていない。我はない、としているから輪廻転生は認めていない」
と。こうした方は、唯識学を初めから勉強したほうがいいです。唯識学は、「何が輪廻するのか」という問いに答えを示した仏教の学問ですから。)
お釈迦様が存在していたら、そんなことには簡単に答えられたことでしょう。しかし、残念ながらお釈迦様が涅槃に入られてから100年以上の月日が過ぎていました。
そこで、考えたのです。「何が輪廻のもとになっているのか、何が前世から持ち越されているのか」を。
「我」であはりません。我はない、のですからね・・・。
そして、無着によってもたらされた答えが、「深層心理」なのです。この深層心理を「阿頼耶識」(アラヤしき)といいます。
アラヤ識とは、人間が知らず知らずのうちに、人間の行為や欲などに影響を与えている意識のことです。表面には決して現れることのない、深い深いところに存在している意識、それをアラヤ識とよびました。そのアラヤ識こそが、輪廻する元であり前世の業を残す元である、と説いたのです。いわば、魂の根源とでもいいましょうか。魂と言い換えてもいいのではないでしょうか。そのほうがわかりやすいですしね。

こうして、「我はない」けど「アラヤ識」という表面には現れない意識が様々な命令を人間の心にして、いろいろな罪を犯し、あるいは善行をなし、よい業や悪い業を作っていくのですね。そして、その作られた業が輪廻のもととなるのです。ですから、輪廻の根本原因となるのはアラヤ識であり、アラヤ識自体が来世へと引き継がれていくのです。
つまり、転生するのはアラヤ識という深層意識なのですね。それは「我」ではないですから、前世の記憶はないわけです。つまり、「私」という我が生まれ変わるのではなく、単なる意識が引き継がれていくだけなのです。「私」という「我」が生まれ変わるのなら、前世の「私」の記憶があってもいいはずですからね。アラヤ識は「私」という「我」ではなく、「我」を離れた深層意識なのです。ですから「私」という「我・個」はありません。なので、前世の記憶はないわけですね。
そういうことですから、アラヤ識を「魂(たましい)」と呼んでもいいんじゃないか、と私は思うのです。そのほうがわかりやすいですしね・・・・。
とまあ、以上が唯識学・・・法相宗の基本です。

さて、せっかくですから、唯識学の心の分析を少し紹介しておきましょう。あ、内容については詳しくは説きません。興味のある方は、唯識の本は結構出ていますので、読んでみてください。なお、私は読みません。眠くなりますし、面白くありませんから・・・というよりわかりませんからね、読んでも・・・・。
1、心の分析
人間の心を5項目100種類に分類しています。これを五位百法といいます。
@心王(しんのう)・・・8種類あります。この項目だけ、少々詳しく話します。
心の王ですから、この心王が心の働きのすべてを決定しています。心の主体ですね。その最終的な主体が第8阿頼耶(アラヤ)識というのです。
第1識〜第5識は眼耳鼻舌身のことです。第6識は一般的な意識のことです。で、第7識は「我」に執着する意識のことをいい「末奈(マナ)識」といわれます。
そして第8識が深層心理である阿頼耶(アラヤ)識ですね。この意識が、表面には出てきませんが、その意識の持ち主すら気がついていませんが、いろいろな思いや行為、考え、性格に影響を与えているのです。つまり、人間の心・思考の本源こそが阿頼耶識なのですね。
A心所(しんじょ)・・・6項目51種類に分類されます。
心王に従属し、心王に応じておこる精神作用のことです。心の働きですね。善の心や煩悩、思いなどもここに含まれます。
B色法(しきほう)・・・11種類あります。
目・耳・鼻・舌・身体・意識の働きおよび、それらの対象物の働きのことです。
C不相応法(ふそうおうほう)・・・24種類あります。
心王の作用により心が働き、心が働くことによって身体の感覚器官(目耳鼻舌身体)などが働きます。つまり、これらは心王の作用に相応しているわけですね。
ところが、人間の行為には心の働きに相応せず、矛盾的行為を行う場合があります。いわば、その矛盾した働き・・・不相応な心の働きがこの項目に入るのです。
D無為法(むいほう)・・・6種類あります。
因縁から離れた働き、業から離れた働き、何の意識もなく行われる働きのことをいいます。真如のこと、とも言われます。無意識のこと、だと思ってください。
以上、心の分析です。

2、四分(しぶん)・・・心王・心所の認識作用のこといいます。4種類あります。
@相分・・・・・・・客観のことです。
A見分・・・・・・・主観のことです。
B自証分・・・・・主観であることを認知することです。
C証自証分・・・Bの認知を追認することです。
といわれても訳が分からないですよね。要は客観と主観の関係とそれをどうとらえるか、を分析したのです。

3、三類境(さんるいきょう)・・・客観を性境(しょうきょう)・独影境(どくようきょう)・帯質境(たいぜつきょう)の三種に分類したものです。大雑把に言ってしまえば、性境とは識の客観であり、独影境とは客観の幻想であり、帯質境は客観の錯覚のことです。すごく乱暴な言い方ですが・・・・。

4、三性・・・3種類あります。間違った見識を打破するための教えです。
@遍・・・縄を見て蛇と見誤るような間違いをおこすと知る。
A依・・・縄自体の本質を知る。縄は因縁の寄り集まったものであるが故に縄となる、ということを知る。
B円・・・元来、麻があって縄が生じると知るように、真理こそが一切の現象の根拠と知る。
と、まあ、これも極めて乱暴に言ってしまうとこうなります。

5、三無性・・・三性を空の立場から説いたもの。
@相・・・・・遍を空から見れば、見誤りも無となると観ずる。
A生・・・・・因縁によって生じたものであって自然生ではない観ずる。
B勝義・・・真理が一切の根拠と知るという我執を離れたところに、本来の真理は現れると観ずる。
まあ、空観です。分析ばかりではいけませんので、空からの観点を説いたのでしょうね。

6、煩悩の数
ここまで分析されると、元の仏教は一体どこへいってしまったのか、と思います。81種類に分けています。一般的に煩悩の数は108と言われていますが、これはまあ、後付けですね。

ちょっと、いい加減に書き出すのが嫌になってきました。このほかに後の仏教に影響を与えた分析学は「悟りの段階」でしょう。悟った結果別に段階を位わけしたのです。初期仏教では「一来(いちらい)、頻来(ひんらい)、預流(よる)、阿羅漢」などと分けていました。ここに菩薩の段階を入れています。それには10段階あります。いわゆる「菩薩の十地」ですね。また、菩薩の位に至るまでの段階を細かく分析しています。全部で悟りの段階は、70段階ほどになっています。
まったくばかげています。よくもまあ、こんな分析ばかりしてしてましたよね。よほど暇だったんでしょうねぇ。だから、インドでは仏教が衰退していったのでしょうねぇ。もうお釈迦様が説かれた仏教とは似ても似つかないものになってしまっています。分析ばかりしても、何の役にも立ちませんからね。唯識が大乗仏教のように庶民に受け入れられなかった理由がよくわかると思います。こんなことを、坊さんが言っちゃあいけないんですけどね。
ま、一般大衆を忘れた仏教の学問なのですよ、唯識は・・・。
まあ、それでも、一応、実践的な教えもあります。たとえば「五重唯識観」という瞑想の方法ですね。心の分析に従って、瞑想する方法です。このような修行法はあるのですが、中心は心の分析です。それが法相宗なんですよ。

以上のように法相宗は心の分析学である唯識学を確立した宗派です。心の分析という、当時としては画期的な学問に至ったということは大きなことですが、仏教本来の目的である衆生の救済とは離れてしまったようです。まあ、使い方しだいでは、衆生救済もできなくはないのですが、あまりにも難しく、細かすぎたようですね。以上、法相宗でした。
合掌。


54回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その3  律宗
律宗というくらいですから、戒律を中心とした宗派だということは想像ができると思います。
仏教の教えには、大きく分けて「経・律・論」の三種があります(これを三蔵といいます。この三蔵に通じた僧侶のことを三蔵法師といいます)。経はお経のことですね。お釈迦様の教えそのものです。律は戒律のこと。論はお釈迦様の教えの解説書、論書のことです。
前回までに紹介してきた三論宗や法相宗は、論書を拠りどころとして成立した宗派です。お経そのものに立脚しているわけではないのです。
律宗は、ずばり戒律そのものを拠りどころとして成立した宗派です。ですので、教えを説く、というよりも、僧侶の基本的生き方を指導する宗派と言えるでしょう。いや、僧侶だけでなく、出家していない在家の生活も指導します。つまり、いうならば仏教的な生活をするために注意することを教える宗派、といえましょう。ですので、覚りに導くような教えがあるかというと、そうではありません。あるいは、仏教的考え方を分析したのでもなく、空を説く宗派でもありません。そうした教学的なことは説かないのです。
とはいえ、出家者は必ずこの宗派のお世話になります。なぜなら、出家者として守るべき戒律を日本に伝えたのは、この律宗だからです。

律宗は、鑑真によって日本にもたらされました。それまでの日本には正しい戒律が伝わっていませんでした。ですので、正しい授戒作法もなく、中国や高麗からの渡来僧によって、とりあえず出家させてもらっていた、という状況でした。
これでは正しい仏教は日本に根付かない、と危惧した朝廷や僧侶たちは、当時の中国で最も戒律に精通していることで有名だった鑑真和尚を日本に招くことにしました。
鑑真和尚は、喜んで日本に来ることを引き受けてくれますが、何度も嵐に遭います。それでもあきらめずに鑑真和尚は日本に来て下さったのです。正しい授戒作法を伝えんがために・・・です。
鑑真は来日すると、すぐに東大寺に戒壇を設け、正しい出家作法を行い、当時の天皇をはじめ、多くの者に戒律を与え出家させます。そして、東大寺内に戒壇院を開きます。また、地方で出家する僧侶のために下野の薬師寺と筑紫の観世音寺に戒壇院を開くのです。朝廷が認める正式な僧侶・尼僧は、必ず東大寺か下野の薬師寺か観世音寺にて戒を受けなければなりませんでした。さらに鑑真は唐招提寺を開山し、ここに住します。
こうして日本における律宗が確立したのです。

戒律は、一般的に、男性僧侶(比丘・・・びく・・・といいます)は250戒、女性の僧侶・尼僧(比丘尼・・・びくに・・・といいます)は約350戒ある、といわれています。ですが、実は戒律は、この僧侶250戒・尼僧350戒という戒律だけではありません。戒律にもいくつか説・・・・通説では8種類・・・・があるのです。
@四分律(しぶりつ)・・・・・・・・・・・・比丘250戒、比丘尼348戒。日本や中国はこの戒律を採用。
A五分律(ごぶりつ)・・・・・・・・・・・・比丘251戒、比丘尼373戒。
B十誦律(じゅうじゅりつ)・・・・・・・・比丘263戒、比丘尼354戒。
C摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)・・・比丘218戒、比丘尼290戒。
D鼻奈耶(びなや)・・・・・・・・・・・・・比丘263戒、比丘尼不明。
E有部毘奈耶(うぶびなや)・・・・・・比丘249戒、比丘尼358戒。
F南方律(なんぽうりつ)・・・・・・・・比丘227戒、比丘尼311戒。セイロンなど上座部仏教所伝。
Gチベット律・・・・・・・・・・・・・・・・・・比丘257戒、比丘尼371戒。チベット仏教採用。
こうしてみていますと、初期仏教である上座部仏教が採用している戒律は、意外と少ないほうですね。初期仏教のほうが戒律が厳しいように思えますが、そうでもないようです。
とはいえ、概ね僧侶が約250戒、尼僧が約350戒、となっているようです。中国では四分律が流行ったため、日本も四分律になりました。律宗がもたらした戒律は四分律だったのです。

ところで、仏教の修行者は出家者と出家予備軍、在家にわかれます。すなわち、出家者が僧侶・尼僧、出家予備軍が沙弥(しゃみ、男性)・沙弥尼(しゃみに、女性)、在家が優婆塞(うばそく、男性)・優婆夷(うばい、女性)です。これらは、それぞれに受ける戒律が異なります。ちょっと詳しく見ていきましょう。
*僧侶
僧侶の戒律は250戒です。これは8種のグループにわかれます。
@波羅夷(はらい)・・・教団追放という最も重い罪です。姦淫すること、盗むこと、殺生すること、嘘をつくこと、の4種類です。淫盗殺妄といいます。
A僧残(そうざん)・・・@に次ぐ重罪ですが、教団追放にはなりません。懺悔すれば教団に残れます。大衆の面前で犯した罪で13種あります。
B不定・・・取り上げるべきかどうか、どの罪に入るか不明という性に関する罪。2種ある。
C捨堕(しゃだ)・・・衣などを規定枚数以上に所持した場合の罪で、余分を教団に差し出し懺悔すれば許される罪。30種ある。
D単堕(たんだ)・・・ちょっとした嘘、両舌などの軽犯罪で、他人に懺悔すれば許される罪。90種ある。
E提舎尼(だいしゃに)・・・他の比丘に告白し、懺悔する必要がある罪。4種ある。
F衆学(しゅがく)・・・衣食住に関する細かい規定。100種ある。
G滅諍(めつじょう)・・・教団内の紛争の解決を怠った罪。7種ある。

*尼僧
尼僧も僧侶とほぼ同じですが、不定を除いて7種の戒律があります。ただし、それぞれの戒律の数が多少異なります。
@波羅夷8種、A僧残17種、B捨堕30種、C単堕178種、D提舎尼8種、E衆学100種、F滅諍7種
となっており、合計348戒となっています。女性は、身体的な面でどうしても多くなってしまいますね(それだけではありませんが)。

*優婆塞・優婆夷
在家信者が守るべき戒律は少ないです。
@不殺生戒 A不偸盗戒 B不邪淫戒 C不妄語戒 D不飲酒(ふおんじゅ)戒
の5種類です。簡単に言いなおせば、
@生き物を殺さない、A他人のものを盗まない、B浮気をしない、C嘘をつかない、Dお酒を飲まない
となります。Dのお酒を飲まない、というのは、酔って自分を見失うからです。そうなれば、他の罪も犯しやすくなりますから、在家といってもお酒は×なんですね。
在家者が精神修養するのに、八斎戒(はちさいかい)というものがあります。これは毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日にお寺に集まり、斎戒する修行会のことです。今では実践している方はいないんじゃないでしょうか?。昔は、よく行っていたようですが・・・・。
この八斎戒では、在家の五戒のほかに
E不香油塗身戒・・・香りの油(今でいう香水)を塗らない、化粧をしないという戒律。
F不歌舞観聴戒・・・歌舞音曲を聞かないという戒律。
G不高広大床戒・・・広く高い寝床に寝ないという戒律。
という8つの戒律と
不非時食戒・・・決まった時間にしか食しないという斎。これは戒律ではなく、斎(食事に関すること)といわれるもの。
を加え、八斎戒として修行するのです。まあ、月に6日のことですからね。守れるんじゃないかと思います。ちなみに、八斎戒のときの不邪淫戒は、浮気をしてはいけないではなく、夫婦間でも性交渉をしてはいけない、となります。

*沙弥・沙弥尼
在家の修行である八斎戒の9つの決まりに、不捉金銀宝戒を加えて十戒としたものが出家見習い僧・尼僧の戒律です。この不捉金銀宝戒とは、金銀や宝、金銭をたくわえないことです。
以上が、出家者・出家見習い者・在家が守るべき戒律です。

さて、鑑真が命をかけて伝えた出家作法ですが、この出家作法の時に戒律授与が行われるのです。鑑真が日本に来るまでは、この出家作法及び授戒作法が正しくはなかったのです。
律宗がもたらしたところによると、授戒作法とは、三師七証を請じて白四羯磨(びゃくしこんま)によって戒律を受けるのが正しい作法なのです。
三師とは、戒を授ける戒和尚(かいわじょう)、威儀作法(衣などの着方やその他の作法)を教える教授師、表白(作法を行うことを宣言するような言葉)を読む羯磨(こんま)師のことです。
七証とは、出家受戒したことを証明する先輩僧侶のことです。
こうした高僧や諸先輩僧侶に囲まれ、出家作法は行われるんですよ。で、戒律を一つ一つ読み上げ、
「よく保てんや否や(よく守るかどうか)」
と聞かれるんですね。で、
「よく保つ」
と答えるのです。まあ、保ってはいませんが・・・。
もっとも、真言宗の場合は、出家の時は十戒(菩薩十善戒)を受け、正式な受戒の時に250戒を受けます。

ところで、戒律は、出家生活、仏教的生活の規律を示したものです。どちらかというと初期仏教(小乗仏教)的要素が多分にあります。大乗仏教的要素は含まれてはいません。ですが、大乗仏教でも戒を受けます。出家作法は小乗も大乗も関係ないのです。しかし、戒律は大乗的見地から言えば、必ずしも守る必要のない場合もあります。出家者専用の規律は、大乗的ではない場合が多いからです。そういった面から、戒律にも大乗的要素が必要だろう、という思想が生まれてきます。それが「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」です。
三聚浄戒とは、
@摂律儀戒・・・出家者の生活規律に関する戒。伝統的な戒律。
A摂善法戒・・・一切の善行を実践せよという戒。
B摂衆生戒・・・一切衆生を救えという戒。
のことです。つまり、出家者の非行防止のための規律だけではなく、善を行い人々を救え、ということを戒律として決めたわけです。
大乗仏教は、一般の人々を救うことを目的としています。出家者だけではなく、在家の人々をも救うということですね。ですので、在家の人々の救済を忘れぬよう、戒律化したのです。
三聚浄戒はさらに発展をし、@もただ単に従来通りの戒律だけではなく、十重禁戒という大乗独特の波羅夷罪(はらいざい)を採用しました。これは梵網経(ぼんもうきょう)に説いてある戒律です。それは、
@不殺生戒 A不偸盗戒 B不邪淫戒 C不妄語戒 D不コ酒戒(コは酉に古という字、飲酒だけでなく、酒の売買、酒を勧めることの禁止) E不説四衆過戒(ふせつししゅかかい、他人の過失を言いふらさない。他人の自分対する悪口や批判に耐えること) F不自讃毀他戒(ふじさんきたかい、自分を誉め他人を貶してはいけない) G不慳法財戒(ふけんほうざいかい、教えや財産を惜しんではならない) H不瞋恚戒(ふしんにかい、妬みや嫉み羨み怒りを持たない) I不謗三宝戒(仏・法・僧の三宝を謗らない)
というものです。これらは単に出家者の生活規律を説いたのではなく、衆生救済という大乗の精神を取り入れた戒律です。これが元になって、十善戒という戒律ができています。この十善戒は、僧俗共通の戒律です。

*十善戒
@不殺生戒 A不偸盗戒 B不邪淫戒 C不妄語戒 D不奇語戒(正しくない言葉遣い、流行語などを使用しない) E不悪口戒(ふあっくかい、悪口・誹謗中傷をしない) F不両舌戒(二枚舌をしない。誰にでも誠実な態度でいること) G不慳貪戒(ふけんどんかい、貪らない、貪欲にならない、惜しまない、分相応で満足する) H不瞋恚戒(怒らない、愚痴らない、妬まない、羨まない、怨まないなど) I不邪見戒(邪まな考えを起こさない、仏法に対し誤った見解をもたない。邪推しない)
これを菩薩十善戒といい、真言宗では特に重視しています。

また、こうした戒のほかに、宗派によって独自の戒をたてることもあります。
天台宗では、最澄さんが「円頓戒(えんとんかい)」という戒律を提唱しています。これは釈迦如来を戒和尚、文殊菩薩を羯磨(こんま)師、弥勒菩薩を教授師、十方諸仏を証師、一切諸菩薩を同学侶とし、戒師を請じて未来永劫梵網経に説く戒を受持させる授戒作法です。
真言宗では、密教独特の「三昧耶戒(さんまやかい)」を説きます。これは菩薩戒法であり、
@正しい法を捨てない A菩提心を離さない B正しい法を惜しまない C衆生を害しない
という精神で成り立っています。最も厳しく言われるのは、衆生救済・不離菩提心(Aです)ということです。

平安時代は、こうした新仏教により、律宗の説く戒律以外にも独自の戒律が発展しましたが、やがて僧侶の規範が乱れ、堕落した僧侶が台頭するにあたり、律宗の説く戒律に戻るという傾向が表れ始めます。それは、現在にまで至っています。一応、現在でも、律宗が伝えた四分律は、どの宗派(既成仏教教団のみ、ただし浄土系の宗派は受けないようです。新興宗教はない)でも、出家するとき、あるいは授戒のときに受けるのです。守られているかどうかは別として・・・・。
それにしても、いつの時代も、どん場合も、規律は必要なんですね。
合掌。


55回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その4  華厳宗
華厳宗の教えは、結構難しい教えです。なぜならば、お釈迦様が覚りを得たあと14日間に説かれた教えなので、覚りそのものを説いているからです。
華厳経というお経があります。正しくは、「大方広仏華厳経」といいます。これは、お釈迦様の覚りそのままを説き、たとえ話などは一切説いていない、というお経です。他のお経は、比喩や日常に起きた出来事を通して、悩みごとなどをあげて説いた内容が主です。ですので、大変わかりやすいのです。が、華厳経は、内なる覚りそのもののことが書いてあるので、大変わかりにくいのです。
一説には、お釈迦様が初めて説法をした時の内容、とも言われています。お釈迦様が覚りを得て、教えを説かないつもりだったのを、梵天に請われ教えを説くこととなりました。そこで、初めて教えを説いたのが、苦行仲間であった5人の修行者です。お釈迦様は彼らに覚った内容を説きますが、5人の修行者はチンプンカンプン。まったく、理解ができませんでした。それが華厳経の内容にあたるのです。お釈迦様は、5人の修行者が理解できないと知って、たとえ話で話をするようになりました。そこからは、初期経典の内容です。こうしたことから、華厳経は難解である、と言われています。

華厳宗のお寺と言えば、東大寺です。奈良の大仏様、と言ったほうがわかりますね。あの大仏様は、お釈迦様でも阿弥陀様でもありません。華厳経の教主である、盧舎那仏(るしゃなぶつ)です(盧舎那仏は、大日如来ではありません。大日如来の変化身です。大日如来は大毘盧舎那仏・・・だいびるしゃなぶつ・・・です。違いの説明はまたの機会に・・・)。その盧舎那仏がいらっしゃる世界を華厳蔵世界、ともいいます。東大寺は、華厳経に説いてある世界の再現なのです。

さて、教義内容ですが、これが初めにも書きましたように難解です。ざっと説明いたしますが、わからなくても大丈夫です。
1、五教判
お釈迦様の教えを五種類に分類したもの。
@小乗教・・・・阿含経、倶舎論などに説かれる教え。人の空を説くが、一切の空を説かない。
A大乗始教・・・初期の大乗。法相の教え、唯識学、般若経で説く空。
B大乗終教・・・勝鬘経、大乗起信論に説く内容。一切は平等に如来蔵を有するという教え。ただし、次第に悟りへ向かう教えなので、究極ではない。
C頓教・・・・・・速やかに覚る教え。楞伽経(りょうがきょう)、維摩経に説く、一瞬にして覚り顕すという教え。
D円教・・・・・・華厳経に説く教え。すべてが円満に備わっている。現象も教えも欠けることなく、お互いに融通しあっている教え。
これらは、それぞれ独立してあるのではなく、Dから流れ出でたる教えであり、別に教えがあるわけではない、とします。
まあ、どの宗派も同じですが、「おらがいちばん!」ですね。くだらないといえばくだらないです。どの教えだっていいのですが・・・・。

2、十宗判
1の五教判をさらに詳しく分類し、円教である華厳経の説く教えが一番すぐれている、ということを説いたのがこれです。書き連ねようかとも思ったのですが、他の教えがなぜ劣っているか、という説明がよくわからないので、書くのをやめました。
ともかく、華厳経に説くところが最上である、ということです。

3、法界縁起
華厳経の思想は、「海印三昧」といわれます。意味は、「仏陀の覚りは、海のように一つでありながら、すべてを包括している」ということです。すなわち「一真法界」です。一つの真理の中にすべてが含まれる、ということですね。初めからそういえば、わかりやすいんですけどね。
法界とは、一切の存在するもの、またそれらを含む一切の世界、のことです。過去世も現世も未来世もすべて含んだ、時空を超えた世界、と言えばわかりやすいでしょうか。現代人は、この方が理解しやすいでしょうね。
その法界が、仏陀の覚りの中にすべて含まれている、というのが一真法界です。さらに、一の中にすべてがあるから、法界そのものが縁起している、と説きます。また、この法界を四種類に分けて説きあかしています。
@事法界・・・縁起する現象をあるがままに肯定する世界のこと。
A理法界・・・現象の縁起を成り立たせているもと。ただし、事も理も平等である。
B理事無碍法界・・・理と事(論理と現象)は、海と波の関係のように二つであって二つでない、融通無碍に関係している。差別があるようで差別がない、違いがあるようでない、ということ。
C事々無碍法界・・・あらゆる現象も、区別があるわけではなく、お互いに融通無碍に関係しあっているということ。
まあ、この世界、一切の世界は現象も理屈も屁理屈も、すべて自由自在に関わりあっている、ということですね。
お釈迦様の覚りそのものの世界は、時空間を超越しています。過去も未来も現在もありません。自由自在です。この時だけを生きているのではなく、またこの地球上だけを生きているのではありません。宇宙をくまなく、時間を超えて自由自在に飛びまわれるのです。
それを難しく説いたのが、この法界縁起です。現代語で解釈したほうがわかりやすいのは当然ですね。現代人ですから。オタクの方のほうが理解しやすいのではないでしょうか?。時空間を超えた話はたくさんありますからね。

4、十玄縁起
法界縁起を細かく分析したものが、この十玄縁起です。大変わかりにくく、難しいので、大雑把に説明します。簡単に言えば、
同体異質もお互いに関係してるし、時間も空間もお互い依存しあってるし、ケシの実の中に須弥山だってはいるし、ケシの実から一切のお経だって生まれるし、広いとか狭いとかないし、多いとか少ないとかもないし、一即多・多即一だし、一即一切・一切即一だし、隠れているのもあれば顕わなものもあるし、幾重にも重なっている世界もあるし、軽い重いもないし、過去現在未来も自由自在だし、すべては一に納まってしまうのだ・・・、
ということです。すごく乱暴に書きましたが。
こんなこと、分析しても意味はないんですが、今から約2千年以上も前に、時空間を超えた世界を考えていた、というところは驚きですね。仏教の世界観には、際限というものがないのです。

そのほかにも六相円融という教義がありますが、これも縁起を現象面からお互いに関わりあっているということを説明したものですので、内容的には同じようなものです、なので、省略します。

ともかく、華厳宗の教えは、すべて融通無碍である、自由自在である、というところにあります。それは、時間も空間も超越した世界です。SFで説くような世界ですね。過去へ戻ったり、未来に行ったり、現在にいたり・・・。しかも、場所も自由自在で、宇宙の果てから中心まで、どこでもあり、です。さらには、大小の差もなく、多寡の差もなく、一切が自由自在であって、それらがお互いに関わりあっている、と説いているのです。一種のパラレルワールドですね。
仏教って、奥が深いでしょ。
合掌。


56回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その5  天台宗
D天台宗(てんだいしゅう)
天台宗は、最澄さんが中国の天台山にて教えを学び、日本に伝えた宗派です。しかし、最澄さんは、中国天台宗をそのまま継承せず、日本独自の天台宗へと昇華させています。とはいえ、基本は中国天台宗にあります。最澄さんは、それに密教を加えて、総合的仏教を目指したのです。それは、「円・密・禅・菩薩戒」を実践することでした。その教義内容を見ていきましょう。

A、円・・・円教(えんきょう)
中国天台宗は、法華一乗といい、法華経を最高の教えとしました。法華経は円教であり、これ以上の教えはない、ということです。これは化法四教(けほうしきょう)といわれるもので、お釈迦様が説いたすべての教えを「三蔵教、通教、別教、円教」と分類したものです。三蔵教から円教に向かうほど教えは深くなり、円教が最高である、という分類です。
*三蔵教とは、経律論の教えの基本を示しています。これは小乗と呼ばれるものです。出家者専用の教えですね。
*通教とは、大乗の入門的教えのことです。出家者や一人で修行する縁覚、そして大乗の菩薩に共通している教えの部分を示しています。大乗の菩薩の教えの中にも、小乗的教えは含まれていますので、その共通した部分のことです。
*別教とは、華厳宗に説くところの教えです。華厳宗は、小乗から般若空、さらにはすぐに覚る頓教を説いています。華厳宗では、華厳経のことを円教としますが(前回解説済み)、天台宗では小乗から次第に頓教へと至っているので別の教えとして円教とは区別しています。
*円教とは、法華経に説くところの教えとしています。華厳経と違い、法華経は小から次第に大へ移るのではなく、もとより大乗を説き、すべての現象に如来の教えそのものがあるという「諸法実相」を説いているので、完全なる教えという意味の円教を法華経にあてます。
このことから、中国天台宗は、すべての教えの中でも最高の教えである、と自負しています。最澄さんもこれを取りいれています。
したがって、「円」とは円教である法華経を極めることを意味しています。そのために、「摩訶止観(まかしかん)」を修行します。

*「摩訶止観」とは。
止観とは、仏教の実践修行のことです。主に瞑想を意味しています。止観には、浅より深へと次第に悟っていく漸次止観や不定止観と、初めから諸法実相を観想する円頓止観の三種があります。摩訶止観とは、このうちの円頓止観のことをいいます。この世のすべての現象には深い教えが含まれている、あらゆる現象が覚りの実相を顕している、したがって、それを読み取ることが悟りである、とするのが諸法実相の修行です。すなわち、摩訶止観ですね。この世で起きている現象が何を意味しているのか、的確に解釈できるようにすることです。

B、密・・・密教
最澄さんは、比叡山に天台宗を開きましたが、その際、朝廷より年間二名の修行者を持つことを許されました。当時は、国が出家者数を管理していたのです。なぜならば、出家者の生活は国が保証をしていからです。国が認めていない出家者は、自分で勝手に出家した者で「私度僧」と呼ばれ、違法でした(詳しくは、「仏像がわかる」高僧部、最澄編または空海編を参照して下さい)。
総合的仏教を目指していた最澄さんは、二名の弟子を止観業と遮那業に分けました。止観業は法華経を中心に修行をするものです。遮那業は大日経を修行する者のことです。法華経と並列に大日経を修行させたのです。円と密が合わされば、完全な仏教になる、と考えたのでしょう。

C、禅・・・牛頭禅(ごずぜん)
禅には、主に頓悟禅を標榜する南宗禅と漸悟禅と称される北宗禅があります。しかし、最澄さんは、その流れとは異なる牛頭禅という禅を天台山で学んだようです。この禅は、牛頭法融(594〜657)を祖とする中国禅です。最澄さんが学んだときは、盛んだったようですが、宋時代に消滅したそうです。
とはいえ、最澄さんは、円と密のほかに禅も重視しており、修行させました。

D、菩薩戒
奈良仏教では四分律という僧侶250戒、尼僧約350戒の戒律を重視し、出家者はすべてこの戒律を受けることになっていました。しかし、最澄さんは、それとは別に菩薩大乗の戒を受ける必要がある、と考えたのです。
この戒律は、梵網経に説かれる戒律です。詳しくは律宗の項目をご覧ください。

このように最澄さんは、法華経と密教、禅の総合的仏教を目指しましたが、システム化まではできずに亡くなります。世の中は、弘法大師が伝えた密教が主流となっていました。そこで、最澄さんの弟子たちにより、天台宗は密教化されていき、独自の密教が確立されていきます。

*日本天台宗の密教化
弟子の円仁や円珍(仏像がわかる高僧部参照)は、唐に渡り密教を学んできます。その当時の唐の密教は、弘法大師が学んだときとは多少異なっていました。たとえば、不動明王を五色に分けたりしています。高野山や東寺にはない密教でした。しかし、それでもまだ密教化は完成せず、円仁の弟子の安然が円珍の後を引き継いで、天台宗の密教を大成します。密教を最高位とし他の教えは密教の下である、としたのです。こうして、天台宗は密教の宗派となり、台密と呼ばれるようになります(高野山や東寺の密教を東密という)。
そののち、平安時代後期には、千日回峰などの苦行も行われるようになりました。

天台宗は、密教化したとはいえ、それまでの円教や禅も学びましたし、また浄土の教えも学びました。平安後期には、最澄さんの目指した総合仏教はまだ残っていたのです。
ところが、鎌倉時代に入ると、それに変化が生じます。比叡山の浄土門は、比叡山で学んだ法然さんや親鸞さんにより、別の宗派が立てらてしまいます。
同じく禅は、栄西さんや道元さんにより、やはり別の宗派へと発展していきます。法華経に至っては、日蓮上人により、これまた別の宗派が確立されます。
天台宗にあった総合仏教である、円の法華経も、禅も浄土門も、次々と別宗派を開かれてしまいました。こうして、天台には密教だけが残っていくのです。
最澄さんの目指した総合仏教を学ぶ日本天台宗は、皮肉にも多数の宗派を生み出すこととなり、最澄さんが重要視していなかった密教だけが残ることとなったのです。
とはいえ、比叡山では、基本的に仏教を総合的には学んでいるようです。最澄さんの意志は継がれているのです。
合掌。


57回のテーマは

日本仏教 各宗派の教え

その6  真言宗
真言宗は、弘法大師空海さんが開いた、日本で初めての本格的密教です。密教は、仏教とは少々異なる仏教です。秘密仏教を略して密教と言います。
密教は、お大師さんが日本に伝える以前に、実は伝来していました。ただし、それは雑然としたもので、整備されているわけでもなく、しっかりとした教えが伴っているわけでもなく、作法だけが私度僧や修験者の間にひろまっていたのです。不思議な修法として中国や韓国からの渡来僧が伝えたのでしょう。あるいは、密航した者や密入国した者が伝えたということも考えられます。ですので、お大師さんも虚空蔵求聞持法を修法することができたのです。正しい内容はともかく、口伝などで密教の一部が伝わっていたのです。そうした整備されていない密教を雑部密教・・・雑密(ぞうみつ)・・・といいます。これに対し、お大師さんが唐にて正式な密教を学び、日本に伝来した密教を、正純密教・・・純密(じゅんみつ)・・・といいます。
ですので、真言宗は日本初の本格的密教の宗派なのです。
ちなみに、天台宗も後に密教の宗派となりました。密教は、天台宗と真言宗の二通りになったのです。そこで、真言宗の密教を東密(とうみつ、京都の東寺系の密教だから)といい、天台宗の密教を台密(たいみつ、天台の密教という意味)として区別しました。
また、真言宗は、比叡山のように他宗派を生むことはしませんでしたが、派はいくつかにわかれています。特に大きくわけて、新義真言宗と古義真言宗に分かれます。
古義・・・高野山、東寺派、醍醐派、大覚寺派、御室派など
新義・・・根来寺、豊山(ぶざん)派、智山派など
真言宗の派は18に分かれており、十八本山と呼ばれています。
金剛峯寺・・・高野山真言宗   智積院・・・真言宗智山派   仁和寺・・・真言宗御室派
長谷寺・・・真言宗豊山派    醍醐寺・・・・真言宗醍醐派  根来寺・・・新義真言宗
大覚寺・・・真言宗大覚寺派   東寺・・・・東寺真言宗     宝山寺・・・真言律宗大本山
朝護孫子寺・・・信貴山真言宗  勧修寺・・・真言宗山階派   中山寺・・・真言宗中山寺派
西大寺・・・真言律宗総本山   清澄寺・・・真言三宝宗     泉湧寺・・・・真言宗泉湧寺派
善通寺・・・真言宗善通寺派総本山   須磨寺・・・真言宗須磨寺派   随心院・・・真言宗善通寺派大本山
以上が現在の真言宗の各本山です。これらの本山以外で真言宗の派を名乗る宗派は、真言宗とは関係のない怪しい宗派です(たとえば修験真言宗などと名乗っている宗派がありますが・・・TVに出たりしている怪しいおばさんがやっている寺のことです・・・・、この方たちは真言宗と何ら関係はありません。ご注意ください)

何故、このように派が分かれたのかと言いますと、もちろん、教学の解釈の違いもありますが、大きくは権力争いですね。負けた側が高野山や東寺を出て他派を作ったのです。あるいは、高野山内や東寺内での権力争いに嫌気がさして、新たに一派を立てた、という理由です。
まあ、いずれにしても、現在のところ十八の本山に分かれております。

真言宗の教えの根拠となっている経典は、「大日経」、「金剛頂経」、「蘇悉地経」です。これを秘密三部経といいます。また、日常読誦する経典は「理趣経」です。大日経は、胎蔵界系のお経です。金剛頂経は金剛界系のお経ですね。蘇悉地経は読むのではなく、実践系のお経です。
また、弘法大師の著作を学びます。著作はたくさんありますが、主に「弁顕密二教論」、「十住心論」、「即身成仏義」、「般若心経秘鍵」、「吽字義」、「声字実相義」、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」は、大学の授業などで全体もしくは部分を学んだりします。詳しく知りたい方は、現代語訳の「空海全集」という本が出ていますので、読んでみてください。おそらくは、よくわからないと思いますが・・・。

*密教と顕教の違い・・・弁顕密二教論
さて、密教といいますが、他の仏教とはどう違うのでしょうか。ここが真言宗の重要なところです。
真言宗では、仏教を密教と顕教(けんぎょう)とに分けます。一般的大乗仏教と密教の違いを論じたものが「弁顕密二教論」です。その中にのべられている違いを簡単に書いておきます。
@顕教は応化身(おうげしん)である釈迦如来が説いた教え。密教は法身である大日如来が直接説いた教え。
お釈迦様は、宇宙そのものである大日如来の化身・・・というのが仏教の定説です。大日如来が衆生救済のためにお釈迦様を遣わした、ということです。
一般の仏教は、その化身であるお釈迦様が説いた教えです。それが経典になったものを根拠に教えを説いているのです。法華経しかり、涅槃経しかり、阿弥陀経しかり、般若経しかり・・・。どれも教えを説いているのはお釈迦様です。
ところが、密教の経典は、すべて大日如来が説いているのです。主役は大日如来です。ですので、覚りの境地は、覚りそのものですので、大変奥が深いものになっています。譬え話もないので、理解するのが難しいのです。覚りをズバッと説いている、というわけですね。他の経典は、いろいろな譬え話をもって説き明かしているので、絶対的な境地まで言及できていないのです。ここが、密教は難解と言われている部分です。
まずは、経典の教主の違い、です。

A顕経は因分可説・果分不可説だが、密教は果分不可説の境地を説き明かす。
一般の仏教は、原因は説き明かしますが、最終的に至る境地は説くことができない、としています。絶対空は言葉では表現できない、ということですね。ところが、密教は空を超えた不空ですから、絶対的境地を説き明かします。それは曼荼羅の境地です。諸仏諸菩薩と共にある境地、絶対的宇宙、それが密教の覚りそのものですから、説き明かすことができるのです。単なる空に留まらないのが密教なのです。

B顕経は三劫成仏であるが、密教は即身成仏を説く。
一般の仏教は、すべての者は覚ることができる、一切の衆生は仏性があると説きますが、覚りを得て如来になるには三劫という長い長い年月が必要です。誰もが如来になれる、と明確に説き明かした最終形態のお経が法華経ですが、その法華経ですら「誰それは、何億年後のどこどこの世界で如来に成る」と説き、如来になるには長い年月が必要である、としています。
ところが、密教は即身成仏です。この身このまま、この世で成仏・・・如来に成る・・・ができるのです。これは大きな違いです。密教の密教たる所以がここにあります。

大変大まかですが、こうしたことが根拠となり、密教は他の仏教教義と大きく異なるのです。顕教と密教は大きな隔たりがあるのですよ。

*即身成仏・・・即身成仏義
顕教と密教の違いでも述べたように、密教は即身成仏を説きます。他の教えでは、三劫成仏で即身成仏は不可能と説きます。つまり、この世で覚ることは無理、何回も生まれ変わって後に覚ることができる、と説くのです。それが顕教です。
密教は、即身成仏を説きます。この身このまま、この世で覚ることができる、と説くのです。で、そのことを解説したのが即身成仏義です。これは、真言宗の修行者は、ほとんどが学びます。が、よくわかりません、残念ながら・・・。ま、とぼしい理解力で解説することにします。難しい話はすべて割愛して、簡単にわかる部分だけを解説します。本当の即身成仏義が知りたい方は、別に尋ねてください。もしくは、現代語訳本を読んでみてください。
@六大無碍にして常に瑜伽なり・・・金剛不壊の肉体・・・釈迦如来の身体も普通の人の身体も同じ。
お釈迦様であっても、我々であっても同じ人間です。同じ人間が覚ったのだから、同じ人間である我々も覚れるでしょう。あの人にできて自分ができないことはない、ということですね。特殊な技術を要するようなワザを使うわけではないのです。肉体の限界に挑んでいるわけでもありません。座って瞑想するか、教えを復唱しているか、といった誰にでもできることをするわけですから、お釈迦様と同じ人間である我々だって、同じように覚れるはずですよね。
このことを「六大無碍にして常に瑜伽なり」という言葉で表現しています。六大とは、肉体と精神を構成する「地水火風空識」のことです。この六大が金剛不壊の如来と同じで常に融合し、覚りの境地にある、という意味です。
ま、簡単にいえば、お釈迦様も我々も同じ人間じゃあないか、ということです。(かなり乱暴ですが・・・)

A三密加持すれば速疾に顕わる・・・身と口と心を如来と同じにする
三密とは、身と口と心の秘密の部分のことです。何が秘密かというと、如来も我々も同じ身と口と心を持っているのだから、如来のそれと同じように働けば成仏できるじゃないか、ということが秘密なのです。そこが隠された部分、ということですね。秘密だから、今まで誰も気付かなかった、のです。
加持とは、如来の慈悲とそれを信じる衆生とがシンクロした状態のことを加持と言います。
如来の慈悲は、絶えず平等にすべての衆生に降り注いでいます。ところが、誰もがそれを得られるわけではありません。如来の慈悲を得ようと思えば、その慈悲にシンクロしなければいけないのです。如来の慈悲を受け取りたい、と心から願わねばならないわけです。
譬えていうならば、放送局から番組の電波は常に流れています。しかし、受像機がなければその番組を映すことはできません。また、受像機の性能が悪ければ、映った映像は美しくありません。それと同じように、如来の慈悲を受け取るには、受け取る側の性能をよくしなければなりません。否、まず、受け取るだけの準備をしなければなりません。受像機を持たねばいけないのです。それが三密です。すなわち、如来の慈悲を受け取る装置は、三密なのです。
つまり、身と口と心を如来と同じようにすることを心掛ければ、如来の慈悲を受け取ることができるのです。あとは、こちら側の三密の性能をアップさせればいいだけです。
さて、三密をどのようにすれば如来の慈悲を受け取れるのでしょうか。
それは、身は印を結び、口は真言を唱え、心は如来を瞑想するのです。三密とは、印を結び真言を唱え如来を瞑想することなのです。そうすれば、如来の慈悲を受け取れるだけの受像機はできあがるのです。性能アップするには、しっかりと印を結び、真言に集中し、心を統一することです。
そうすれば、やがて、如来の慈悲と己の信心がシンクロを始めます。ばっちりシンクロした瞬間、覚りが得られるというわけです。
これを三密加持といいます。これをすれば、速疾に顕われるのです。すなわち、それは即身成仏できる、ということです。
他にもいろいろ説かれていますが、この程度でやめておきます。難しくなりますので・・・・。以上、即身成仏ができる理由でした。

*十住心論
これは大日経の住心品を元に説かれたものです。心の種類や成長の過程を十種類に分類したもの、と理解していただければ結構です。
十種類とは、9種の顕わな教え(顕教、初期仏教と一般的大乗仏教)と一つの密教の教え、とに分かれています。しかし、密教的立場から言えば、すべては大日如来の現れなのですから、顕教も密教に含まれてしまう、と解釈します。すなわち、九顕ですが十密(九顕十密)なのです。密教は、すべてを包括するのです(これが曼荼羅の精神です。後で述べます)。

具体的に十種の心を簡単ですが説明しておきます。
@異生羝羊心(いしょうていようしん)
異生とは凡夫のことです。ただただ食欲と性欲のみが旺盛な羊のように、本能のみに支配されている心のことです。何も考えず、食欲や性欲だけを満たそうとしている人間のことです。そのためには、悪いことでも何でもするという人間のことなのです。こういう人間の心は最低です。人間とは言えない、ケダモノの心というわけです。こうならないようにご注意ください。

A愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
愚かな子供のような考えの浅い凡夫ではありますが、仏性がほんの少し芽生え、自分をほんの少しコントロールできるようになり、他への配慮・・・道徳心・・・に目覚めた段階です。
いわば、一般的な多くの人間がこの段階に入ります。下から二番目です。普段は、マナーを守り、他人への配慮もして生活していますが、まだまだその精神は不安定で、いつ下の状態に陥るかわからない境地です。
現代の人々は、「誰もが犯罪者になり得る精神状態を持っている」と言われることがあります。ほんのちょっとしたことが切っ掛けで、あるいは何か重大なことが切っ掛けで、欲望が頭をもたげてきたことが切っ掛けで、人々はどう変化していくかわからないのです。
その状態が、この心なのです。儒教的精神がこれにあたるとされています。

B嬰童無畏心(ようどうむいしん)
子供が母親に抱かれているときの安心感を得ようとする心です。しかし、それは簡単に得られるものではありません。そこで人々は宗教に頼るのです。「祈れば罪は許され天界に生まれ変われますよ」と導く宗教を求める心がこれです。単なる道徳心から、宗教的安楽を求める心が目覚めた段階です。
ただし、その宗教的安楽は、罪が許されるとか、天界(天国)に生まれるとか、不老長寿になるのだ、といった、レベルの低い宗教です。己の心のあり方を深く追求するものではありません。
お大師様は、仏教以外の外道の教え(特にキリスト教やヒンドゥー教、イスラム教、道教など)がこれにあたるとしていますが、現代では仏教の中にもこうした教えの宗派が存在します。そうした宗派が誕生したのは、お大師様が入定された後ですので、ここに含まれていないだけです。
まあ、安易に天界や極楽や天国を望むように説く宗教に目覚めた者の心がこれにあたるわけです。

C唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
声聞(しょうもん)の境地です。すなわち、仏陀の教えを聞き、諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静を得る心です。我は空であるという認識はあるが、一切が空であるという真実の空には至ってはいない段階です。
天界へ生まれ変わりたい、というような小さな望みではなく、輪廻から解脱したいという望みを持ち始め、それを目指す境地です。

D抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
縁覚(えんがく)の境地です。縁覚とは自然をよく観察し、因縁の法則を理解した者のことです。一切は原因と結果があり、それは縁で成り立っているのだ、と悟った境地です。しかし、一人で悟り、一人でその境地を楽しんでいるだけで、慈悲心がないため、この段階にとどまっています。「あぁ、無常だ、虚しい世の中だ・・・」と一人納得しているだけ、という段階なのです。
なお、このCとDは、初期仏教の教え・・・すなわち小乗仏教・・・のことです。

E他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
これ以降は大乗仏教の教えにあたります。その教えの深さによって分けられています。この境地は、法相宗の教えで、大乗といえども、まだまだ空にこだわっている段階です。唯識学であり、心の分析に終始している点で次の三論宗の段階よりも劣るとされます。詳しくは、法相宗の解説を読んでください。

F覚心不生心(かくしんふしょうしん)
三論宗の教え。般若空の境地です。八不中道を説くので、真実なる空により一層近くなっています。詳しくは三論宗の解説を読んでください。

G一道無為心(いちどうむいしん)
天台宗の教えがこれにあたります。ただし、日本の天台宗ではなく、中国天台宗です。日本の天台宗は、今は密教化されていますから。つまり、本来の天台の教えですね。法華経や涅槃経に説く教えで、すべての衆生は如来になる種を持っていることを説きます(如来蔵の教え)。声聞乗も縁覚乗もすべては、この法華・涅槃の教えに集約されてしまうが故に一乗といいます。詳しくは天台宗の教えを読んでください。

H極無自性心(ごくむじしょうしん)
大乗の教えの極まった境地です。無自性の境地に至った段階です。華厳宗の教えがこれにあたります。一切の時空を超え、自由自在・無我と我、一切の境界がない状態、です。真の空に至った状態ですね。詳しくは華厳宗の教えを読んでください。

I秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
即身成仏ができる境地です。すべてを包括し、生み出すエネルギーを自ら持っているということに至った境地です。すなわち、大日如来と不二一体となった世界に至った状態です。自らが宇宙そのものになれば、この境地に至ることができるのです。
それは実体験を伴うため、秘密なのですよ。荘厳とは、如来のすべての徳で自らの境地を荘厳するため、この名前があります。

以上が十住心論に説かれていることを簡単に(乱暴なる省略)説明しておきました。
@は地獄・餓鬼・畜生の心を持った者です。一向行悪行、といいます。
Aは人間らしさを得た段階ですね。人乗といいます。
Bは宗教心に目覚めた段階です。天乗といいます。
Cは声聞の教えで、小乗です。
Dは縁覚の教えで、これも小乗です。
Eは法相宗の教え。
Fは三論宗の教え。
Gは天台宗の教え。
Hは華厳宗の教えです。
E〜Hは大乗仏教です。菩薩の教えですね。
Iは真言密教となります。これは大乗仏教ではなく、@〜Hをすべて漏らさず包括した教えですから、大乗仏教の枠には入らないのです。
つまり、密教の中に、他の仏教も小乗仏教も他国の宗教もすべてが含まれている、ということですね。こうした密教の考えこそが、真実の仏教なのです。
それを人々にわかるように指示したのが曼荼羅なのですよ。それについては、次回にお話しましょう。

*曼荼羅
曼荼羅を見たことがある方は、どれくらいの人がいるでしょうか。実物は見たことはないが、曼荼羅という言葉を聞いたことはある人は多いのではないでしょうか。
曼荼羅とは、簡単に言えば、「如来や菩薩、明王、神々を描いた絵画」のことです。が、しかし、実は曼荼羅にはたくさんの種類があるのです。
曼荼羅は、大きくわけて大曼荼羅、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨(かつま)曼荼羅の四種類に分かれます。
大曼荼羅とは、一般的に見られる絵画に描かれた曼荼羅のことです。基本的な曼荼羅ですね。曼荼羅といえば、この大曼荼羅のことを示します。
三昧耶曼荼羅とは、仏様をシンボライズした仏具によって描かれた曼荼羅です。如来の智慧を仏具で表現しているのです。それを絵画で描いたのが三昧耶曼荼羅です。また、真言宗のお寺にある壇の上に乗っている仏具は、一種の三昧耶曼荼羅を示していると言ってもいいでしょう。
法曼荼羅とは、梵字で描かれた曼荼羅です。如来や菩薩、明王、神々にはその御仏たちを示す梵字があります。いわば、仏様のイニシャルですね。そのイニシャルの梵字で書いた曼荼羅を法曼荼羅といいます。梵字はすなわち、その御仏のご真言でもあります。たとえば、バーンといえば金剛界の大日如来ですし、サといえば聖観世音菩薩、カーンといえば不動明王・・・・ということです。ですから、法曼荼羅は、各御仏の真言でできた曼荼羅と言えるのです。ですから、教えである「法」の文字をあてているのです。
羯磨(かつま)曼荼羅とは、立体曼荼羅といえばわかりやすいでしょう。簡単にいえば、大曼荼羅などの絵画の曼荼羅を実際に仏像で造ったのが羯磨曼荼羅なのです。有名な羯磨曼荼羅は、東寺の講堂で見ることができます。広い意味で言えば、お寺に祀られている仏像は、羯磨曼荼羅です。ですから、どのお寺も御本尊様や脇の仏様がいるのであれば、羯磨曼荼羅である、といえます。また、家庭に御仏壇があり、掛け軸ではなく像による本尊様が祀ってある場合は、その仏壇も一種の羯磨曼荼羅といえましょう。

さて、曼荼羅とはいったい何を表しているのでしょうか。
覚りの世界を我々は見ることができません。感じることも難しいでしょう。いったい、覚った人間はどのような世界に精神を漂わせているのか、どのような世界に生きているのか、それは知ることができないのです。その世界は、覚ったものでなければわからない世界です。
しかし、それではつまらないですよね。人間は欲張りです。ぜひ、覚った人の見ている世界も見てみたい、知りたいものです。そう思うのが人間です。
そこで、そのリクエストに答えたのが、実は曼荼羅なのです。したがって、曼荼羅とは、覚った者が存在する世界を誰にでもわかるように絵画で表現したものなのです。覚った者は、あのような世界の中に存在できるのですよ。それを体感できるように絵画にしたのですね。ですから、曼荼羅を見たら、ただ見るのではなく、その中に自分も存在しているのだ、とイメージして欲しいですね。あの、曼荼羅に描かれている世界のどこかに自分も住んでいる、と想像してみるのです。もちろん、大日如来が鎮座する中央に自分が座ってもいいでしょう。あるいは、大日如来の横でもいいでしょう。または、不動明王の位置に自分がいてもいいし、観音様がいるところに混ざってもいい・・・・。そんな如来や菩薩、明王のいらっしゃる世界はとてもとても自分には無理だと思う方は、端っこの神々や魔神が住まう世界にこっそりはいってもいでしょう。で、そこから曼荼羅上の仏様たちを見ている自分を想像するのです。
自分は、魔神の横で御仏様たちを眺めています。みんな奈良の大仏のように大きな存在です。空気が違います。静かです。譬えようのないくらいい匂いがしています。あぁ、上空から蓮の花びらが降ってきました。天女が撒いているのです。仏様が教えを説き始めます。あなた自身の存在を認めよ、と・・・・。
如何でしょうか。想像できたでしょうか。曼荼羅の世界に存在できたでしょうか。こうした想像の世界、瞑想の世界に入りやすいようにしたのが曼荼羅なのです。

大曼荼羅には、大きく分けて二種類の曼荼羅があります。胎蔵界(正式には胎蔵法)曼荼羅と金剛界曼荼羅です。
胎蔵界曼荼羅は、大日経を元とした曼荼羅で、慈悲を表しているといわれています。また、すべてを生み出す母体を表すとも言われています。ですから、胎蔵界曼荼羅を瞑想するときは、すべての生命が中央の大日如来から生まれてくるのだ、とイメージします。あるいは、その中に自分も存在できるようになれば、すべてを生み出している大日如来に自分自身がなるか、隣から眺めているかを想像します。そうして、この世界すべてを慈しみの心で包むことをイメージするのですね。これが胎蔵界曼荼羅の世界です。
金剛界曼荼羅は、金剛頂経を元にしていて、智慧を表しているといわれています。理路整然とした真理の世界を表現しているのです。ですから、その画は九マスにきれいに分かれて描かれています。覚りの順を示し、逆に大日如来から人々への教えを順に説いている、とも言われています。そこには、くだらない屁理屈や議論は含まれません。感情的でなく、ただただ真理に至る理論をストレートに表現しているのです。ですので、実に難しいです。金剛界曼荼羅が「わかる」人はなかなかいないでしょうし、その世界を体感できる人は少ないことでしょう。イメージするにも難しいものがあります。
慈悲を表す胎蔵界曼荼羅と真理を表す金剛界曼荼羅は、二つですがワンセットです。二つで一つです。どちらがなくても成立しません。二個一ですね。これを「不二一体」といいます。
慈悲だけではだめです。教え導かないと。教えだけではだめです。慈悲がないと。慈しみや他人の悲しみがわかる心がなくては、いくら正しい教えを説いても人々はついてきません。
また、慈しみや他人の悲しみがわかっても、それだけでは人々を救うことはできません。同情だけでは救いは得られないのです。教え導くことができないとね。また、教えや理屈だけでは、人々の心には響きません。
「慈悲と智慧」、いわば、「感情と理論」です。この両者が正しく成り立たないと、真理へ導くことはできないのです。感情と理論とは、時に相反する関係にあります。頭ではわかるが感情ではわからない、といったよいうに・・・・。ですから、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅は、その両者が正しく成立するよう指し示しているのです。

曼荼羅には、胎蔵界曼荼羅や金剛界曼荼羅のほかにも、星曼荼羅、理趣経曼荼羅、六字曼荼羅、如意輪曼荼羅、八字文殊曼荼羅などのように特別に造られた曼荼羅もあります。それぞれ、元となった経典があります。その目的は、その曼荼羅に描かれた御仏の覚りを得るためのものです。たとえば、理趣経曼荼羅ならば、理趣経に説かれていることを曼荼羅に示し、理趣経の意味を視覚的に得ようとするものです。また、星曼荼羅は宇宙を示し、宇宙と一体化し、星に吉運を祈ることをイメージさせるための曼荼羅です。

なお、曼荼羅は集合体という意味もあります。したがって、たとえば、学校の教室は一種の曼荼羅となります。先生が大日如来ですね(とうていレベルは違いますが・・・・)。生徒たちは、先生である大日如来に教え導かれる菩薩であり、明王であり、神々であり、魔神であるのです。ですから、いろいろな個性があっていいのです。真面目に先生の話を聞くものから、さぼっているもの、他の生徒にちょっかいを出す者、暴れん坊なもの、やさしく親切であるもの、皆を笑わせるような陽気なもの、よくできるものからできのよくないものまで、いろいろな個性がそこには存在するのです。そこは、先生を中心とした曼荼羅の世界ですので、そうした個性が認められるのです。
したがって、できが悪くても、暗くても、意地悪でも、頭がよくても、優等生でも、やさしく親切でも、やんちゃでも、ぼーっとしていても、先生はその存在を認めてあげねばなりません。一つの教室が一つの曼荼羅だからです。
そう考えれば、もしその教室に問題があるとするならば、それは大日如来役である先生の責任でもあるのです。それを広げて考えれば、学校も曼荼羅なのです。もっと広げれば、社会そのものが曼荼羅なのです。
曼荼羅とは、小は個人・自分自信の内在(すなわち精神、心)から、大は宇宙そのものまでのことなのです。そうしてイメージしてみれば、曼荼羅に接した時、理解しやすいのではないでしょうか。
私たちは、いつでも曼荼羅の世界に生きているのです。いつも、曼荼羅の中に存在しているのですよ。それを知ることが実は大変重要なことなのです。

曼荼羅とは、ありとあらゆるものを包括して平等性を認める世界です。誰もが曼荼羅内に生きているのです。その世界には差別はありません。個性を認めます。あらゆる存在を認めます。ですから、争いはありません。私もあなたもいていいのですよ、生きていいのですよ、お互いに生命を脅かすような争い事はやめましょうね、というのが曼荼羅の精神なのです。
これを理解すれば、世の中から紛争や争い事、人種差別はなくなってしまうことでしょう。曼荼羅の精神は世界に広めるべきなのでしょうね。まずは、日本人からその精神を理解してほしいですね。


*真言宗の修行
真言宗の教義は、事相(じそう)と教相(きょうそう)とに分かれます。
事相は実践行・・・すなわち修行のことです。教相は教えのことですね。密教は、この事相と教相がバランスよく取れていないと理解できません。それは、古くから車の両輪と譬えられます。両方の輪が均等に回っていないと真っ直ぐ前には進めない、ということです。
最近では、密教マニアのような方がいまして、教えについてはやたら詳しく知っているんです。密教の細かい教えを随分とご存知なんですね。
が、これでは前には進めないんです。実践が伴わないからです。いくら教えに詳しくても、修行をしなければ密教は理解できません。ただ、密教に詳しい、密教の知識がある、というだけでは、真の密教者にはなれないのです。
いや、むしろ実践行・修行を通してみないと、密教の教えは真実のところで理解は不能でしょう。修行を通してみて初めて教えが生きてくるのです。経験しないと教えが身につかないんですね。

で、その修行です。これは四度加行(しどけぎょう)と言われています。この四度加行を終え、伝法灌頂(でんぽうかんじょう、灌頂については後ほど述べます)を受けると、真言宗の僧侶として認められるのです。四度加行を受けていない(従って伝法灌頂も受けていない)者は、正式な真言宗の僧侶ではありません。たまに、四度加行も行っていないあやしい真言宗の僧侶らしき方がいますので、ご注意ください。

*四度加行
四度・・・というくらいですから、4種類に分かれています。派によって順序は多少異なりますが、高野山真言宗では
@十八道、A金剛界、B胎蔵界、C護摩、という順に進みます。
なお、四度加行にはいる前に、理趣経加行や護身法加行という予備の修行があります。これは理趣経を授かるための修行及び護身法(修行の基本です)を授かるための修行です。

護身法についてお話ししておきます。
読んで字のごとく、これは自分の身を守るための作法です。何から身を守るかといえば、「魔」ですね。他には「毒虫」、「害をなす生き物」などです。
真言宗の修行は一種の瞑想です。一般には供養法と言われていますが、仏様と自分が一体化するための修行なので、一種の瞑想でもあるのです。
この瞑想をしているときというのは、実は大変危険なのです。なぜなら、精神を統一しているので魔が近づいてきてもわからないことがあるからです。
供養法の修行中、我が心中に感応していただける対象が御仏であるという保証はありません。悪魔の化身かも知れないのです。悪魔と自分が一体化してしまうと、大変なことになってしまいます。
また、正しい修行をしようとすると、多くの場合、邪魔が入ります。修行の妨げをするんですね。
こうした悪魔や邪魔から身を守るために行うのが「護身法」なのです。真言宗の僧侶は、お経を読む前、必ずこの護身法をします。毎日します。しないと、魔が入るからです。毎日していても、護身法を極めていないと魔が入ってしまいます。護身法は、すべての修行の基本であり、最も重要な作法なのです。護身法ができなければ、次の修行には進めないのです。
で、この護身法をとりあえず覚えます。マスターするには、実体験を通してでないと不可能でしょう。何度も魔に魅入られたりしながら、護身法を次第に強くしていくのですよ。

さて、護身法も習いました。その次は十八道と言われる供養法の基本を学びます。十八道というのは、手で結ぶ印が18種あるからです。これを覚えたならば、次の金剛界に進みます。
金剛界は、金剛界曼荼羅の諸尊を供養する作法です。本尊は金剛界曼荼羅、すなわち金剛界の大日如来ですね。
続いて胎蔵界に進みます。これは胎蔵界曼荼羅の諸尊を供養する作法です。本尊は胎蔵界の大日如来になります。
で、最後が護摩です。護摩は本尊は不動明王です。
護摩とは、不動明王を本尊とし、火をたいて祈願と供養をする作法です。供養法をつけて、省略なしで行うと、習いたての頃は3時間以上かかってしまいます。慣れれば、1時間半から2時間ほどでできます。
四度加行での護摩は、省略できないので、初めは皆さん大変です。時間がかかってかかって・・・。一度行を始めたらトイレにはいけません。(基本的に。どうしても仕方がない場合もありますからね)
結構つらいものがあります。修行は大変なのです。

この四度加行、終了するまでに約100日かかります。ですので、通称で百日行とも言います。修業期間中は、社会とは断絶されます。新聞もないし、もちろんTVもありません。携帯電話などもってのほかでしょう。完全に缶詰め生活です。
ただし、修行の一つとして高野山では高野山内の塔や堂をお参りして廻ることがあります。諸堂巡拝です。外出はこれだけです。あとは100日間、籠り切りですね。
なお、高野山大学の学生さんは、学生加行と称しまして、前半と後半と50日ずつに分けます。夏休みや春休みを利用して、「十八道と金剛界」・「胎蔵界と護摩」、というように分けるのです。ですから、高野山大学で四度加行をしたほうが多少は楽ですね。
四度加行が終わりますと、次は灌頂です。

*灌頂
灌頂には、主に「結縁灌頂」、「受明灌頂」、「伝法灌頂」の三種があります。これに高野山では「学修灌頂(がくしゅかんじょう)」を加えます。
灌頂の作法を簡単に説明しておきます。灌頂には金剛界と胎蔵界があります。
まず灌頂を受けるものは目隠しをされます。で、手にある印を結び、その印の先(両手中指)に五葉の樒(しきみ)を挟みます。で、目隠しされたまま、大壇の前に立たされます。壇の上には曼荼羅が敷いてあります。これを敷き曼荼羅といいます。金剛界の場合は金剛界曼荼羅が、胎蔵界の場合には胎蔵界曼荼羅が敷いてあります。
灌頂を受けるものは、目隠しをされたまま壇の前に立ち、手に挟んだ樒を落とします(ひょいっと投げてもいい)。
すると壇の上に樒が落ちます。落ちた先の仏様が灌頂を受けるものと縁のある仏様、となります。
これが灌頂の基本作法です。

@結縁灌頂(けちえんかんじょう)
これは在家用の灌頂です。とはいえ、灌頂の儀式としては、他の灌頂と同じです。
密教の教えを学ぶものとして、まず御仏と縁を結んでおこう、というのが結縁灌頂です。これも、金剛界・胎蔵界の2回あります。

A受明灌頂
そもそもは、密教を学ぶ正式な弟子になるとき受けた灌頂です。つまり、弟子になってもよいという許可のための灌頂ですね。
作法は結縁灌頂と同じです。異なるのは、樒が落ちた先の御仏様の印と真言を教えられ、その印と真言を受持し、学習するというところです。
現在の高野山では、この灌頂は正式な僧侶ではないが、加持祈祷はやってもよいという僧侶の一歩手前の資格を得るものが受けています(大師教会支部を開くための資格)。

B伝法灌頂
作法はほぼ同じです。が、上記の灌頂は一日で終わるのですが、この灌頂は3日間かかります。正式な僧侶となるための灌頂で、四度加行を終了した者だけが受けられる灌頂です。
この灌頂を受けると、一流伝授が受けられます。また、理趣法という秘密の供養法が伝授されます。
この灌頂を受けたものは「阿闍梨(あじゃり)」になります。

C学修灌頂
正式な僧侶のみが受けられる特別の灌頂です。高野山の流派(中院流)のみに伝わる灌頂です。
正式な僧侶・・・すなわち阿闍梨だけが受けられるので、阿闍梨灌頂ともいうそうです。この灌頂を受けたものは、大阿闍梨となります。
この灌頂を受けるには、高野山内の勧学院にて約1か月間、教学を受けます。これを3年続けます。で、約十年を経て灌頂を受けます。
この灌頂の特色は、なんといっても高野山大伽藍の御影堂(みえどう)の中に入ることができ、そこに祀られているお大師様のお姿に触れることができる、ということでしょう。単なる阿闍梨では、そこまでは入れないのです。
なお、そのほかに大阿闍梨ならではの特色がありますが、皆さんには関係がないので省略します。
以上、灌頂でした。

*その他の修行
その他の修行法としましては、瞑想法があります。月輪観(がちりんかん)、阿字観(あじかん)ですね。
月輪観とは、満月に見立てた掛け軸の前に座り、満月に己の心が全て映し出される、と瞑想します。これは「如実知自心(自分自身の心を実の如く知る)」のために行う瞑想です。自分のいい面、嫌な面、美しい心、醜い心・・・をすべてさらけ出し、それを認めることが月輪観です。
阿字観はそれをさらに奥深く行うものです。梵字で書かれた阿字を前にして、本来の覚りの世界に入っていきます。
これら月輪観・阿字観は指導者の下でないとできません。深い瞑想に入ってしまい、出てこれなくなることもあるからです。
ですので、そこまでに至る瞑想法があります。それについてはこのHPの「瞑想への入口」をご覧ください。

その他にも修行はいろいろありますが(求聞持法・・・ぐもんじほう・・・など)、ここで紹介しても意味がありませんので、省略いたします。
修行したいのでしたら、まずは結縁灌頂から始まり、高野山内のお寺の弟子となり、四度加行を受けてください。そこからがスタートです。
密教は、いくら知識が豊富でも修行が伴わねば、その価値は半減してしまいます。車の両輪の如く、事相・教相を共に学ぶことが大切です。それが無理な方は、あまり密教の教えにのめり込まないことです。偏った解釈になってしまいますからね。ほどほどがいいのですよ。密教は知識ではないのですから。
合掌。



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