マスコミが報道するのは人命や社会・経済に大きく影響する部分が殆どだろう。被災地外に住む人はそれで終わりと思ってしまうのが普通。しかしちょっと興味を持って地域を覗くと知り及ばない多くの被害に接する。これらは特に農林業に携わる皆さんには深刻だ。しかしマスコミはそうした処までは興味が及ばない様に思えるがどうだろう。 気になっていたので当地山切から奥、即ち杉山・戸倉・梅島・大峰辺に足を運んだ。台風通過後暫く通行止めになっていたので心配していたが、道路には撤去した土砂や倒木の跡。そして川には流れ着いた皮の剥けた大木。さらに対岸には尾根近くから始まるがけ崩れ。根こそぎ倒れた大木が土砂と共にガードレールをへし折り川に流れ込んでいる。もし民家があったらひとたまりも無い状況だ。 写真は梅島地区第二東名先で崩れた林。尾根付近から植林した檜が一気に沢に流れ込みガードレールを押し倒している。オンマウスは杉山自治会館の裏山。こちらも同様だが樹木は雑木や竹など様々。何れも生活道路だ。こうしたところが随所にあり、台風15号の雨と台風のもの凄さを物語っている。 災害は忘れた頃にやってくると言うが、時々地域を歩いて土地を知る事も大切だと感じている。 |
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単身赴任解消で、実家のR-390A・51S-1BにTRA3755・KWM-2/2Aが加わった。これまではR-390A/51S-1Bを切り替えるだけで良かった。増えた事で暫くケーブル・パッチで凌いでいたがやはり面倒。そこで福井時代に作った1:4の同軸SWを取り出しANT切替を構築した。ところが電源投入するとR-390Aのみ音が出ない。ケーブルやSW類のポジションを疑ったが問題ない。直ぐ終わる筈の作業は、R-390Aの修理と言う泥沼へ迷い込んでしまった。ラックから取外し様子をみる。RF-GAINでノイズレベルが変わるが、ANTをつないでもウンでもスンでもない・・・てことはMixかOsc?。真空管のヒーターを確認すると灯っていない奴が1本あった。V204/6C4(3rdMix)これだ!。交換すると見事復活。真空管機器が全くNGになる時は、経験的にヒーター断の場合が多い。このR-390Aは、購入後29年経つがヒーター断は今回が3回目。それ以外の障害で音が出なくなった事はない。しかし今朝まで聴いていたのに面白く、何とタイミングが良い事か。なお事のついでに、電源SW連動のマイクロSW接点の復帰不良を修理。これにはフロントパネルを外す必要があり大騒ぎになった。おかげでカミサンのリクエストに答えられず肩身の狭い一日になってしまった。 |
15日所用のため1泊で上京。その帰路16日、9年振りに恵比寿のファインアンテナを尋ねた。6日3.5MHzで上京する旨をオーナーN氏にお伝えすると、場所が変わったと注意を促がされた。CQ誌広告の地図を頭に入れていたつもりだったが、数百m歩いても目標のソバ屋がみつからず、こんな筈はないと電話でヘルプ。何と恵比寿駅を北西へ歩くとある5差路を渡った角(線路側)がソバ屋でその先に目的のビル。随分先まで歩いてしまったが、つまづきもまた良い思い出と妙に納得。4年前のハムフェアでお逢いして以来のN氏はお年(失礼!)を感じさせない元気さで終始熱弁をふるわれた。TL-922の安定運用、デジタル処理の限界、便利優先本質後回しの風潮、米国生活時代、業界裏話、モノ作りの効用…等々、次々に話題が展開。昼食にソバをご馳走になりながら2時間半も居座ってしまった。私よりン10年も先輩なのに、その元気さには圧倒される。そして今の自分はどうだろうと密かに反省の念。その後秋葉東京ラジオデパート1Fの桜屋電機の親父さん、ご主人が逝去された3Fの斉藤電気を訪ね挨拶。そして同B1のノグチトランスとネジの西川電子部品他数店を回り帰路に就く。メイドギャル達に駆逐さず、馴染みの店が元気でいるのは嬉しい。 |
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毒荏(ドクエ)と言う木をご存じだろうか。当地では明治の頃まで、この毒荏の実から油を搾り出し、それを売って生活の糧にしていた。ところが明治途中から石油が導入されると、毒荏の油は石油に需要を奪われ生産も急落して行った。そして今、毒荏の木は数える程に減り地区に点在している。写真は、清水区杉山地区の旧青年夜学校の庭先に生息する毒荏から落ちた実。朝Hanaの散歩中に見つけ10数個を拾い集めてみた。実はこれらは台風12号による風雨で落下したもの。本来ならクルミの様に自然に落下し、皮が腐食して茶色の実が姿を現す筈だから今はちと早い。当地と水系がひと山東側の波多打川沿いにある広瀬地区の有志が、2003年10月毒荏の実から油を搾るイベントを行い新聞で話題になった。 ちなみに毒荏の実では生活が成り立たなくなった当地では、その後温州ミカンとお茶の栽培が行われるようになり全国有数の産地に発展する。前述の夜学校は今流に言うと地域の社会教育の場で、戦前まで青年たちが夜ごと集い勉学に励んだ学び舎。戦後は青年団や老人会の集会場として久しく使われていた。写真は朝の散歩で毒荏の実に戯れるHana。オンマウスは夜学校前の杉山バス停留所からのショット。 |
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早いもので2011年ももう9月。当HomePageは9月4日で10周年、歳をとるわけです。ところで写真は最近読み終えた「モールス電信士のアメリカ史」。「ドレスを着た電信士マ・カイリー」も良かったが、こちらも同じ著者松田裕之氏が膨大な内外資料を紐解きまとめ上げたもの。モールス電信の黎明期からどのような人達が関わり、そして発展してきたのか資料を基に克明に記されている。松田氏の軽快なタッチが面白さを倍化させている。私はアマチュア無線で45年近く電信を愛好しているが新しい発見が幾つもあった。明治維新より遥か昔の米国南北戦争当時、既に有線電信による情報合戦が暗号で行われていたこと、また多くの女性電信士が存在したこと、さらに我々の知るモールス・コードの発案者は実は当のモールスではないこと、そして現在のIT時代に通ずる課題や示唆・・・。電信ファンのみならず是非ご一読をお勧めしたい。隆盛を極めた有線電信も電話や無線電信の台頭で100年足らずで役割を終え、現在はアマチュア無線や一部業務通信にその技能が受け継がれている。これを回顧主義と見る向きもあるが、実はSimpl is Best。この技能は修羅場(最新 メディアの停止)において最も威力を発揮するのではないかと密に思っている。 |