地球を歩こう: トルコ

面積、78万580平方km。人口、7,481万6,000人、GDP 9,151億ドル(1人当たり 13,138ドル)。 国土は 95% がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。 首都アンカラはアジア側に位置し、最大の都市であるイスタンブルはアジアとヨーロッパに跨る海峡都市である。 日本の公式見解では、中東の国として分類されている。また、歴史的にもセルジューク朝をはじめイラン(ペルシャ)やイラクの影響が強かった。 欧米の多くの公用語がインドヨーロッパ語族であるのに対し、公用語であるトルコ語は、 インドヨーロッパ語族ではなく東アジアでみられるアルタイ系言語である。国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と トルコ最大の都市であるヨーロッパ側のは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。 11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)の トルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。 彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、 東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。 19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、 帝国は第一次世界大戦の敗北により完全に解体された。しかしこのとき、戦勝国の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立した ムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。 1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、 西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。第二次世界大戦後、 ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟する。国父アタテュルク以来、 トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、 西洋化を邁進してきたヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止など)が、 その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、アルメニア人虐殺問題、 ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっている。

(ウイキペデイアより編集 4/Aug/'12)


Date Country Title
Feb/'16 Turkey  ボスホラス
Aug/'12 Turkey  イスタンブル




































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背景はガラタ橋から見るボスホラス海峡