(うむ) 千華は、ドアの前でしばし考えたあと、お盆をひざの上に乗せて、ドアノブを回した。
一歩部屋の中に入ると、仁王立ちしている彼氏様に迎えられた。
「え?」
不意打ちで、手からお盆を奪われる。
ミネラルウォーターとコップと適当に盛り付けたスナック菓子とかが乗っていた。
乱暴にベッドの上に置かれる。
「……ありがとう」
いちおう荷物を持ってもらったような気がしたのでお礼を。
伝わるのか分からない眼鏡のレンズの向こう側に向けて。
ぽんと、肩を後ろに押されて、閉まりかけていたドアを背中で閉めた。
なに、と動かそうとした唇に、同じものが押し付けられた。
他人の都合なんてどうでもいい。自分がよければそれでいい。
そんなのすごい、ワガママじゃなかろうか。
けどどうやら一ミリの非難も受け付けてくれない、気らしい。
口の中を好き勝手に動き回るので、足を這い上がってくる手を抑えるのが精一杯。
それがご不満だったのか、眼鏡のフレームを鼻にぶつけられた。痛い。
ずるずるとドアに背中をあずけながら、床まで座り込んだ。
肩を上下させて呼吸する。
心臓がありえない動き方をしていて、酸素が必要だった。
「あの、さぁ……」
地学の勉強はいいのか、と恨みがましく睨みつけて問う。
レンズの向こう側であっさりとかわして、ベッドに腰掛けて、しかもお盆のスナック菓子をほおばり始めた。
彼女の気持ちなんてどうでもいい。
身に染みて分かっていたけど、やっぱりため息だけはついて、ベッドの、彼氏の隣に腰掛けた。
「……弟」
「ああ?」
「弟さんの名前なんだっけ」
どうしてそんなことを聞くのか、とは言わない。
でも不機嫌そうに眉をしかめる分だけ、性質が悪い。
「清く秀でる、きよひで」
「清秀、ねえ。清秀と、吉峯か。……なんか戦国時代の武将みたいな名前だね」
ほぼ無音の室内に、ぱりぱり、とスナック菓子を食べる音だけが聞こえる。
隣に座っていた彼氏は何を思ったのか、スナックのくずで汚れた指で遠慮なしに、肩をぽんと押した。
天井が背景に切り替わった。ひっくり返った視界の中でぼんやりと、なんとなく汗くさいのを気にした。
「吉峯?」
途中で、きちんと、眼鏡を置いてくるのは忘れずに。
上から覆い被さるようにして、天井を背景から引っぺがす。
今度はさっきよりもずっと優しく触れて。
大好きなセーラー服、脇のファスナーを上げる瞬間が一番嬉しそうに見えた。
「……名前で、スイッチ入った?」
入った。と言って、至近距離で、口元だけが笑う。
眼鏡を外すと、やっぱり似てる。同じ血が流れてるんだなと思った。
「あのさぁ」
「なに」
「弟、清秀くん、下にいたよ?」
だからなに。
声に出すのも鬱陶しそうに、行為を進める手は止めないで。
彼女の気持ちも無視なのに、弟のことを考慮するはずは、なかった。
「あのさぁ」
「千華」
名前で、スイッチ入った。
「うるさい。……少し、黙っとけ」
命令系なのにちょっとだけ優しい。
だから、言いかけた言葉をやめて、おとなしく流された。
言ってれば、何か変わったんだろうか。
ふと、そんなことを考えてみる。
何が言いたかったのか、そんな決定打を言うつもりだったのか。
もう、覚えていないけれど。
そもそもどちらからも、積極的に連絡をとるタイプではなく。
学校はいちおう同じ名前のところに通っていたものの、クラスは違っていたし。
受験期のカップルにありがちな、倦怠期に陥って。
別れた、という決定打もなく、自然消滅した。
だけど。
確かに、流されて、成り行きでたどりついた気持ちだったのかもしれないけど。
触られたり、キスされるのが嫌じゃない程度には、好きなんだろうなって思ってたよ。
あなたのお兄さんのことが好きだったよ。
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