2 一人の人を前にして、その向こうで違う人のことを考えるのは、失礼だと思った。
けれど、とんとこの目の前の人の名前を思い出せないのだ。
自分の脳みそにとことん愛想が尽きる。
「兄貴元気だよ」
「は」
また考えてることがそのまま顔に出たかと思った。
「いやオレらの共通の話題っつったらこれでしょう。兄貴ね、大学でね、相変わらず難しいこと勉強してる」
「ああ勉強、好きだったもんね」
かなり嫌そうに言ったら、宮路弟が吹き出した。
この弟の兄と昔、お付き合いをしていた。高校生のときに。
そういう繋がりで今、ここにいる。
街灯の少ない田舎道を、とぼとぼと歩いている。
なんだか背中にずっと重たいものが乗っていて、落ち着かない感じがする。
「なんか変な感じ。こんなふうに千華さんと仲良く歩いてて、間にあるのが牛乳一本って」
なんでこう通じ合ってしまうのか、謎だった。
エスパーかと疑った。
でも本当は答えを知っている気がした。たぶん、同じ思考の人を知っているからだ。
「問題。前に、オレと千華さんの間にあったものってなーんだ?」
宮路弟がいきなり言った。
話すネタにつまって、なぞなぞに逃げたらしい。
考えて協力する気になれない。
「分かんない」
「壁だよ」
この人と会ったのは、当たり前のことなんだけど、彼氏の家に、宮路家に遊びに行ったときだけだった。
(兄がこんなんだから、となると弟はこんな感じだろう)
初対面のときにやけに納得して、でもそれ以上は、彼氏の弟ってだけで。特に興味もわかず。
だって別に結婚するわけじゃないし。当時の自分はそんなんだった。
だからこの宮路弟が、千華さんって自分の名前を知ってるのはとても意外だった。
階段を上って、一番手前が父親と母親の寝室、その隣が弟で、奥が俺の部屋。
と、ぶっきらぼうに説明していた彼を思い出す。
彼は弟のこと、あんまり話さなかった気がする。
「私、かなり嫌われてると思ってたんだけど。……宮路弟に」
「は。なんで?」
「私が家行くと速攻で遊びに出かけてたから」
バタバタと廊下を走る音、ばたんとドアの閉まる音だけがリアルに思い出せた。
ああ、とケラケラと弟は笑う。
兄と同じ笑い方、出し惜しみしないところ、兄とは違った。
「それさ、オレと千華さんの間にあった壁が、めちゃ薄くて役立たずのグズだったから」
言ってる意味が分からなくて首を傾げたら、ええっとねと、弟は珍しく考える風にした。
まっすぐ人の目を見て話そうとする。
そういうところも、兄とは違った。
「……オレはね。隣の部屋に一人でいて、兄貴の彼女の幸せそうな甘ったるい声なんか聞こえてきたりしたら、耐えられそうになかったの」
当時のオレはいたいけな傷つきやすい少年だったから。
優秀な兄貴にコンプレックスあったから。
「あと、千華さん可愛くて、マジで好きだったから」
正直に驚いたら、可笑しそうにケラケラと笑う。
歩くたびに足の膝にぶつかる牛乳入り袋が、ざっざっと時間を刻んでいた。
コンビニから家まで、歩いて10分もかからない。
「終わりがけだからお願いなんだけど、千華さんオレの顔見ると兄貴思い出してつらい?」
それはなかったから首を横に振る。
思い出してつらい別れ方ではなかった。
受験期の倦怠期を乗り越えられなかっただけで。
「じゃあケータイの番号教えて」
どこまでマジ、なのかが、分かりづらかった。
わざとごまかしてんじゃないか、金髪に耳にたくさんつけたピアスで。
急にそんなことを思った。
宮路弟で登録はマジ勘弁してください。横からケータイの画面を覗き込んで泣かれる。
いちおう宮路、の部分で入力控えて気を遣ってたんだけど。
手からケータイ攫われて、代わりに続きを入力される。
(宮路清秀)
兄弟揃って、戦国武将みたいな名前だった。そういえばそうだった。
送ってくれてありがとう。
自宅から漏れる温かい灯りに迎えられて、門をくぐる。
「千華さん、たまに掛けてもいい?」
一生の別れみたいに、淋しそうな顔をして。
せっかくケータイが番号で繋がったのに。
もと彼の弟。ってそれ以外の認識になったのに。
それでも不安で足りなくて。
だから、コンビニに行くのかもしれない。
急にそんなことを思った。
「暇で暇で、どうしようもないくらい淋しくなったらいいよ」
|