+ピアス+ +後

 

 後

 やっぱりダメだ、と思った。
 変わるためには何が足りないんだろう。
 席に座って、机の上に広げた色々なものを見ながら腕組みをして悩んだ。
 今の自分には何が足りないんだろう。

「あれ、八木沢さん」
 朝子以外誰もいなかったはずの教室に、いつのまにか人の気配が増えていた。
「あれれ。町田くん。もしかして今まで勉強してた?」
 授業が終わってからずいぶん時間が経っていた。
 手にした参考書を軽く持ち上げて、図書室でちょっとね。と町田くん。
 町田くんは頭がいい。
 休み時間も惜しまずに勉強していて、どうやらそれは放課後も例外ではなかったらしい。
 でも今はもう、頭がいいだけの人じゃないことが判明していた。
 物事は先人にならえ、と言う。
「あのさー、何が足りないんだと思う?」
 朝子は机の上を指差して、質問してみた。
 町田くんは眉を上げて意外そうな顔をしてから、机の上に目をやった。
 ピアッサー(ピアスの穴をあける機械)、消毒液、消毒液をたらすティッシュ(箱型)、涙が出たときようのミニタオル。
 机の上を全部確認し終えた町田くんは少し笑って、勇気と両親への謝罪の気持ちかな、と言った。
「両親? 謝罪?」
「うん。せっかく元気に産んでくれた体に、傷をつけてゴメンなさい」
 頭いい上に、それだけじゃない人に言われると妙な説得力がある。
 勇気かぁ謝罪かぁ、と朝子は机の上にうなだれた。難しそうだった。
 町田くんはまた少し笑って、教室を出て行った。
 貴重な助言をありがとう、と背中を見送りながら思った。

 

「はい」
 ことん、と机の上に付け足されたもの、久し振りに見た気がするこの赤いラベルはコカ・コーラに間違いなかった。
 缶を置いた手はキレイで、この手についてさっき同じことを思ったなと。
「へ? コーラ?」
 再び教室に戻ってきた町田くんは、朝子の前の席のイスを引いて腰掛けた。
 こういうごく普通っぽいことも町田くんがやると新鮮に映るから不思議だ。
「うん。冷たいもので耳、冷やしておくといいよ。麻痺して痛みが薄れる効果あり」
 朝子は驚きつつもお礼を言って、町田くんの言うことに間違いはないだろうと信用して、左耳の穴をあける予定の個所にコカ・コーラを押し当てる。
「あのさ、そんなに嫌ならさ。あけなきゃいいとオレは思うんだけど、単純に」
 耳を冷やし続けている朝子を見ながら、会社のお得意先のご機嫌伺いみたいな控えめさで町田くんが言った。
「なんで、そこまでしてピアスの穴あけたいかな?」
「え、だって。ピアスってかわいいし。それに、自分に、ちょっとした変化がほしくて、単純に」
「そっか」
 バカにしている感じじゃなくて、悟りきった感じで。
 穴あけて何か変わった? なんてわざわざ聞かなくても、今のそっか、からわかった。
 そんなに単純なものではないらしい。
「あのさなんで、町田くんはピアス、したの?」
「あ、似合わないかな。やっぱり」
 そう言って耳を押さえて照れた仕草が可愛くて、慌ててフルフルと首を横に振って否定した。いろいろ。
「ていうか意外。ピアスしてるのも。それ隠してるのも。やっぱり先生とか親にバレたら困るから?」
「うーん。先生とか親は別にどっちでもいいんだけど。本当は隠してるつもりもないんだけど。……イメージは大切にしたいな、と思って」
 町田くんのイメージというものを想像してみた。
 頭がよくてみんなから信頼されている優等生で、可愛くて。
「……町田くんのイメージ保つのは必要かも。ピアスなんて見たら、みんなびっくりしちゃうと思う」
 だろ? と町田くんが困ってるのか面白がってるのかわからないふうに笑う。
 ピアスした理由、上手くごまかされているのにそこで気がついた。
 答えたくないのかもと思ったから最後にもう一度だけと思って聞いてみたら、案外あっさり教えてくれた。
「誕生日にピアスもらったんだ。だから、それで」
 ……誰からのプレゼントだったんだろう。


「町田くん、ものは相談なんだけど。これ、ばちんって押す役、引き受けてくれないかな」
 ピアッサーは耳たぶにセットして、軽く握るだけで簡単に穴があけられる、ホッチキスを耳にとじるような仕組みになっている。
「オレ?」
「うん。信用に値すると見た」
 いいよ、と少し間を置いて返事がきて、机の上のピアッサーが手にとられた。
 コカ・コーラのおかげでよく冷えた左耳を町田くんに差し出して、朝子はぎゅっと目をつむってその時を待った。
 なんとなく手を、ごちそうさまのポーズにする。
町田くんがかすかに笑う気配がしたけれど、必死なので気にしないことにする。
 ゴメンなさいゴメンなさい、と念仏みたいに繰り返す。
 感覚のない左耳たぶに一瞬熱い温度がかすめて、かなり遅れてそれが手だとわかった。町田くんの手だった。
 ばちんっと、予告もなしに耳の奥に音が響いた。

「…………あれ?」
 痛くない。
 役目を終えたらしいピアッサー本体は机の上にことんと置かれた。
 痛い? と聞かれて、素直に首を振る。
 恐る恐る左の耳たぶに手を伸ばすと、ピアッサーの一部が貫通したまま残されていた。
「それで、これからどうすればいいの? オレ、ピアッサーって使ったことなくて」
「え。じゃあ町田くんは何であけたの?」
「安全ピン」
 怖いこと、平気で言うのはやめてほしかった。
 穴を安定させるために一ヶ月ぐらいこのピアッサー付属のピアスをはめて過ごさなきゃいけないらしい、と友人の助言をそのまま話すと、そうなんだ知らなかったって。
 町田くんでも知らないことがあるんだと思った。

 痛くないのがわかったから、今度はピアスのあるあたりをきちんと触ってみる。
(そっか。こんなもん、なのか)
 朝子はふうっとため息をついた。なんだか力が抜けた。
 身体に穴をあけてまで手に入れたものはたったこれだけで。
 あっさりしすぎで、ちっとも実感がわかないのでしつこく触り続けた。
 これで何か、変わったのか。
「八木沢さん、手……」
 と言った声が、びっくりしていた。
 なんだろう、と思って顔を上げたら、町田くんが目を丸くして続きの言葉を失っていた。
「へ? 手?」
 ぬるっと、あんまりよくない効果音が朝子の耳のそばで鳴った。
 ぎょっとして目の前に持ってきた指の先が、見事に真っ赤になっていた。

 数秒後、うぎゃあぁという悲鳴が教室中に響き渡った。しっぽを踏まれた猫みたいな悲鳴だった。
 じんじんと鈍感な痛みまで広がりだして、もしかしなくてもコカ・コーラ効果が消えかかっているんだと思った。
(痛い痛い痛いっ! 痛いような気がするっ)
 血と痛みで軽いパニックに陥っていると、涙でぼやけた視界のすみを、すっと何かが横切っていくのが見えた。
「……取れちゃったみたいだ」
 そう言って開かれた手のひらの上に、小さな血の池ができていた。その真ん中にぷかぷかと浮かんでいるピアス。
「ど、どどどうしよう」
「待って。あとできるだけ落ち着いて」
 町田くんは落ち着きすぎだよ、と思わず反論したくなる。
 きょろきょろと床を見回したかと思ったら、転がっていたピアスの裏止めを発見した。ティッシュに消毒液を染み込ませて丁寧にそれを拭く。
「ちょっと痛いかもしんないけど、もう一度はめないとかないとせっかくできた穴がふさがっちゃうから……」
 何のことを言われてるのか、よくわからない。
 ろくに反応もできずにいたら、左耳に鈍い痛みが走るのを感じた。
 朝子はもう一度、ごちそうさまのポーズをした。


「ごめん。痛かった?」
 二度と開けたくないと思っていた目をゆっくり開けると、間近に町田くんの気遣わしげな顔があった。
 弾みで零れた涙を拭おうとして、自分の手が汚れていることに気がついた。
 続けて一気に現実を理解した。
「うわぁ町田くんごめんっ血……」
 町田くんの手の有様は、見えない自分の耳より酷いように思えた。
 慌ててティッシュを渡そうとしたら、ああ、って町田くんは何でもない風に、学ランのすそで、手のひらをごしごしとこすった。
 朝子の口はぽかんと大開きになった。
「ダっ」
 そこでいったん大きく息を吸い込んで、肺に空気を入れ直す。
 だ? と町田くんが先を聞いた。首を傾けて。
「ダメだってっ! 汚いって!! ていうかっシミになっちゃうって!!!」
 朝子の悲鳴のような叫びに、町田くんがきょとんとする。
「平気、だよ? 少しだけだし、もともと黒いし裏地だし」
 そういう問題じゃないんだ、町田くん。なんで問題にしないのか、町田くん。
 もう痛みより何よりも、学ランについてしまった血がシミになってしまうことが気になった。
 無駄かもしれんと思いつつ、すそを持ち上げてティッシュを押し当てる。ひたすら当てる。
 自分の血が町田くんの学ランに残って、何かになるなんて恐ろしいことだった。頭のいい人の考えることはまったくもってわからなかった。
「それよりも自分の耳のほうを気にしないと」
 町田くんの手がまた朝子の耳に伸びてきて、まだ乾かない血をすくいとっていく。
 また学ランで拭き取ってしまってはいけないと思って、町田くんの手をつかんで何枚かティッシュを渡す。
 渡そうとして、指の先が赤くなった手を見て、さっき同じことを思ったなと。
「学ラン洗わせてお願いっ、クリーニングに出させてお願い〜」
「……オレって八木沢さんにそんなに嫌われてんの?」
「そうじゃなくてっ」
 なんて都合のいい忘れ方をしていたんだろう。
 ぼろぼろと零れる涙はもう止まってくれる気配がない。
 こんなときのために、と朝子が用意しておいた机の上のミニタオルを町田くんが手渡してくれた。ううう。

「八木沢さん、とりあえず少し落ち着いて。興奮すると血が止まらないよ」
 落ち着いた声に反応して、朝子の顔がみるみる赤く染まり変わった。
 それを見て、町田くんがまたきょとんとした。
 耳に残った変化のしるし、後悔するには遅すぎた。

 

 

 

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