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 なんでそんなに勉強するの?

 そんなの、どんな問題を答えるのよりもむつかしい。

 将来のため、と無難な答えを出すと、露骨に不満顔をされる。
 もっと面白いこと言えないの、そんなの今の流行じゃないよ、という顔をされる。
 今は個性の時代なんだよ?

 そもそも個性ってなんだろう。個人の性格?性質?性癖?
 生真面目に疑問を感じて、辞書なんか引いて見たら、もっとものすごい顔をされるだろうな、たぶん。
 よっぽど息子が勉強するのが気に食わないらしいから、うちの両親は。

 もっとほかに楽しいこと、やりたいことがあるんじゃないの?
 だって一歩外に踏み出して見れば、そこには無限の世界が広がっているんだから。
 お願いだから、つまんない大人になんかならないでよ。

 でも律は、広い広い地球の中でも、日本の、自分の家の、自分の部屋の、自分の椅子の上が一番気に入っていた。

 世界なんてこれ以上広がっていかなくていい。
 これからもずっと、ここだけ、誰にも奪われないならそれでいい。

 幸い、うちの両親は、これも個性の一つだと認めてくれるぐらいの個性はある大人だった。

 だから律は満面の笑みを浮かべて、学校帰りに買って来たばかりの新しい問題集を開き、丁重に1ページ目をめくった。
 最初の折り目が肝心なのだ。心を込めて、体重をかける。

 まだ帰宅したばかりの部屋の温度は氷点下だ。

 律はまずカバンから問題集、それから筆記用具を取り出して、スタンドのスイッチ、そして最後に電気ストーブのスイッチを入れた。
 本当は室温が低いほうが頭の働きがよくなるんだけど。
 馬鹿は風邪をひかないなんて嘘っぱちで、馬鹿だから風邪をひくんであって。
 律は足の先までしっかりと着込んで、黙々と問題集を解き始めた。

 

 ぴんぽーん。

 あ、チャイムが鳴っている、と気づいたのは、ちょうど問題集の第一章が終わったぐらいのときだった。
 どれくらい問題を解き続けていたのか、記憶にない。
 律の部屋には時計がなかったが、代わりにぐーと腹時計が鳴った。どうやら、晩御飯を食べるのには少し遅い時間らしい。
 玄関に出向き、チェーンを外さず、ドアだけを開ける。

「すいませーん、ご注文のピザ、お届けにきました」

 そんなもの頼んだ覚えはない。
 律は邪険にドアを閉じようとして、ふと思いついて聞いてみた。

「どっからのご注文?」
「ええとー、アリス&ビューの高杉さまからですね」

 その変てこな会社名には思い当たりがあった。母親だ。

 母親は、世間の基準を採用すると、仕事人間で、家事はちっともしないしできない、ダメ主婦だ。
 でも息子が一人になると食事を忘れる癖がある、ということはきちんと覚えていて。
 こうやって差し入れを送ってくることがある、ときどき。

(つまり今夜は帰りが遅くなるってことか)

 裏のメッセージまでちゃんと受け取って、確か父親のほうも、今夜は帰れないとか言ってたな、と思い出す。
 ドアを開け、ピザを招き入れる。
 ピザ屋は、下から上まで赤一色の、よく、小さいときに見ていた絵本から飛び出してきたような格好をしていた。頭のぼうしの白いぼんぼんはでかすぎて馬鹿みたいだった。
 現金は使わずにクレジットカードで支払う。
「あ、これサービスです」
 レシートとついでに、ころんと手の上にクラッカーを何個か転がされた。
 律がいらないと言い出す前に、にこっとピザ屋は人の良さそうな笑みを浮かべる。
 そして、ありがとうございました!の代わりにクラッカーのヒモを引っ張ってのけた。
「メリークリスマス!」

(……そっか、今日が世間で噂のクリスマスイヴだったのか)

 律は髪についた赤と白のテープを取り除きながら、さっそく、ピザを1ピースもぎとって、口に運んだ。
 外気温に負けない、まだぬるい感触が舌に乗る。及第点のおいしいを付ける。
 椅子に座り直して、問題集をさらに1ページめくる。いよいよ第二章のスタートだ。

 なんでそんなに勉強するの?

 なんて、聞かないでほしかった。
 だってそれを知りたくて勉強しているのに。
 馬鹿にならないように。つまんない大人にもならないように。
 時間はいくらあっても足りないのに。
 どうしてみんなそんなに悠長に構えていられるだろう。
 あわてたり、しないんだろう。

 

 たたたんたんたん、たんたたたたたん〜

 あ、携帯電話が鳴っている、と気づいたのはちょうど問題集の第三章半ば、一問だけどうしても解説に納得できなくて。
 ちくしょう、馬鹿、くたばれ、失せろ、そして二度と目の前に現れるな。
 という、数々の悪口がむなしく室内に響いていたときだった。
 なんか、妙な音で鳴っているな。思い出せそうで出せないメロディーに、頭の回転速度が明らかに落ちていたことを、律は自覚した。
 もうそろそろベッドに足を踏み入れるべき時間なんだろう。
 親は仲良く二人そろって帰ってきた形跡はなかった。

 カバンに入れたままにしていた携帯に手を伸ばそうとしたら、軽快なメロディーが途切れた。
 どうやらメールらしい。
 はっきり言って確認する前から送り主が誰なのかわかってしまった。
 そもそもこのアドレスに用事があるのなんて一人ぐらいだ。

『ハリーアップで、ベランダにカモンよ!』

 そんなにあわてなくても。
 ほおっておいたってクリスマスはやってくるのに。

 英語に苦手意識はないつもりだったけれど、解読するまで少し時間がかかった。

 律の家は5階建てマンションの5階で、高台に建てられているので、遠い山の稜線までくっきりと見ることができる。
 また、あたりは高級住宅街と名がついていて、冬のイルミネーション期間にはちょっとした観光名所にもなる。
 ので律の部屋のベランダからの眺めはなかなかよいのだが、確かに。

 どれを楽しむにしても夜が更けすぎている。
 律はしっかりとした部屋着にマフラーをプラスして、ベランダに続く窓を開けた。
 案の定、あたりはしーんとして、暗い。空に星は見えず、遠くに見える建物も光をちらほらあるかないかだった。
 律は自分の吐き出した息がのぼっていくのを上目遣いに見送りながら、一歩、踏み出した。

 ざく。

 聞き慣れない、不信な音がした。足元から。
 部屋からスリッパのまま出てきたのだが、今や足首のあたりまで、埋もれている。
 ぎょっとして片足を上げ、その形で固まった。汚れた以上部屋に戻るわけにもいかない。
 意を決して、もう一歩もう一歩と足を進める。
 ざく、ざく、
 しーんとした夜の闇を切り裂く音がする。
 世の中が寝静まった時間に鳴り響くには、厳かで、相応しい音のような気がした。
 律はベランダの隅まで来ると、身を乗り出すように見下ろした。

 幸い、メガネはかけていたものの。
 おそらく真っ白な世界なのだろうというぐらいの認識。どれくらいの積雪量か、などは朝になってみないとわからなかった。
 唯一、マンションの前の道路を照らす街灯だけが、この雪は白いぞ、と証明していた。
 それは未来へと続く道を、明るく照らし出すもので。
 ただし今夜に限り、真っ赤な衣装を身に着けたサンタ専用のスポットライトだった。

 律は念のため、とメガネのレンズをマフラーでこすったが、幻ではないようだった。
 サンタが道路で、大の字になって寝ている。
 仕事に疲れたんだろうか。
 一年に一日働くだけなんだから、もっと頑張れよ、と律は思った。

 たたたんたんたん〜、夜にはまったく相応しくない、近状迷惑な音がポケットで鳴っている。
 今度は電話だった。ワンコールで取る。

「こんばんは、別にあわてんぼうでもないサンタクロースさん」
「うわ、どうしたのりっちゃん?!」

 聞き慣れた声がびっくりしている。
 見れば、大の字が一本欠けていた。どうやらあそこで寝ているサンタからの電話で間違いないらしい。
 いつから自分の着信メロディーはあわてんぼうのサンタクロースになったんだろう。
 容疑者に尋問しようとしたら、身を翻して逃げられた。

「今のはりっちゃんにしてはなかなかナイスなジョークだったね。まさしく今年のまとめにふさわしいかも!
 メリークリスマス&ハッピニューイヤー!」

 そんな誉められ方をしてもちっとも嬉しくなかったけど、いちおうありがとうと言っておく。
 顔の皮がぴりぴりとしてきた。慣れの問題で、しばらくすれば冷えて、感覚がなくなるとは思うんだけど、痛い。 

「で、そこから私は見えてますかな?」
「道路で寝転がってる赤い、変人なら見えてる」
「あ、それ!でも変人さんじゃなくてサンタさんだから!」

 大の字の一のあたりをばたばたとさせて、サンタは道路に積もった雪の中で溺れているみたいだった。水泳部のエースにあるまじき。

「で、なんでサンタさんがそんなとこで寝てるわけ?」
「え?だって、雪積もってたらやっぱり一番乗りしなきゃだよね」
「何を?」
「人文字を作るのだよ!」

 確かに、積もったばかりの雪に一番乗りで足跡をつけるのは爽快だ。
 ただ、日が出る前に実行するのはどうかと思うのだけど。しかも、全身で跡つけなくてもいいと思うのだけど。

「ちなみにこの大の字は、りっちゃん大好き!の大だからね」
「……ふーん、ありがとう」

 内心の動揺を悟られないようそっけなく。その言い方が、気に障ったのか、むしろ障らなかったのか。
 サンタはよいしょという掛け声とともに立ち上がって、ぶるぶると全身の雪を払った。
 よく見ると、サンタの衣装は上だけで、ワンピース、にしてはちょっと中途半端な長さだった。と思ったらやっぱり下には別にスカートをはいている。
「ああそれは、借り物だからだよ、これ」
「借りたの?どっから?」
「気の良さそうなお兄さんから。りっちゃんの家から出てくるのを捕まえて交渉して借りたの」
 ああ、ピザ屋のサンタか。
 よく見てみると、ぼうしの先の白いぼんぼんがでかすぎて馬鹿みたいだった。
 どうやって借りたのかとか、頭の痛くなる所は省いて、律は突きつけられた事実にため息をついた。

「……明美、何時間前からそこにいたの?」
「うーん? 3、4時間くらい前だったかな?」
「そんなことする馬鹿は、風邪をひくんだからな」
「違うよ、りっちゃん。馬鹿は風邪ひかないんだよ」

 いや明らかにそれは嘘っぱちだろう。

「なーんてね。本当はサンタ、あわてたんですよ。きっとりっちゃんは雪降ってても気づいてないだろうなって思ったから」

 えへへという笑い声に、強制的に世界を広げられる。
 かなり無理やり乱暴に、自分の世界を奪われて、めちゃくちゃにされる。
 部屋の中からつれてきた熱はすっかり身体を離れて、律は今、ひとりぼっちだった。

 でも不思議と嫌な気持ちにならない。
 なんで、なんて聞かないでほしかった。
 そんなの、どんな問題を答えるのよりもむつかしくて。
 ずっと知りたくない答えの一つだから。

「……オレんち、あがってく?」
「え。いいの?もう夜だし結構遅いよ」
「いいよ。明美一人ぐらい部屋で転がってても誰も驚かないし」
「わーい」
 喜んだ声とともに通話が切れた。
 続けてマンションの影に入っていったので、姿も見えなくなった。

 律は部屋に戻り、窓をきっちり閉め、濡れたスリッパを脱いだ。
 床に置きっぱなしだったピザの残骸を片付けながら、ころん、と転がったものを見つめた。

 数秒考えてから、なんとなく手にとって、ポケットへとしまった。
 明美にサンタの衣装をはがれたピザ屋の、人の良さそうな笑顔を思い出した。

(メリークリスマス、か)

 ぴんぽーん。

 チャイムが鳴った。
 玄関に出向いて、チェーンを外す。
 どうぞ。と律は愛想なく、いつものようにぶっきらぼうな言い方をした。
 ポケットから取り出した、サンタがくれたクラッカーを、ドアに向かって構えながら。

 

 

 

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 ぱーん!とはじけたクラッカーの先から、煙がもくもくとむなしく、立ちのぼっている。

「…………」

 ゆるやかにウェーブのかかった髪に、赤と白のテープが絡んでいる。
 片手に持ち上げられた、駅前で買ってきたらしい、セールと貼られたケーキの箱。

「たー、ただいま?」

「…………おかえり」

 頭を抱えなかったのは、日頃の努力のたまものだ、と信じたかった。
 だってそれ以外だったらほんとに、報われなさすぎて、かわいそうで、自分が。

 後ろからひょっこり顔を出した明美が、固まってる二人の横をすり抜けて行った。
 楽しげな鼻歌だけを残して。

「あわてん、ぼう、のー、サンタクロースー」

 栓を抜いたごとく、母親が狂ったような大笑いを始めた。
 律は顔を真っ赤にして、涙目になりながらやけになって、メリークリスマスを叫んだ。

 

 

 

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慌てず騒がず、メリークリスマス。

サンタにぴん、ときた人は↓へ。

はっくしゅん