+体温+

*読まれる前に。
 20万打で人気投票だ、のワンツーフィニッシュ記念短編です。
 本編28話以降に読むのがおすすめです。
 番外編 満員電車にて(理実の場合)とセット。どちらから読んでも大丈夫。


  番外編 満員電車にて -灰谷の場合-  

 どうやら、帰宅ラッシュの時間帯に紛れこんでしまったらしい。
 軽く頭を振ると、あたりにわずかな雫が散った。
 周りからすれば、人間乾燥機なんて第一級迷惑犯に違いないので、慌てて止める。
 こめかみの辺りをすーっと雫が伝ったけれど、無理やり気にしないことにした。

 外から湿気を吸い込んだ車内はいつもよりも不快指数が高めで。
 どの顔もいつもよりも厳しいものになっているような気がする。
 こういう手持ち無沙汰な時間があるとつい、人間観察をしてしまいがちだ。
 あんまり褒められた趣味ではないと思って、灰谷は軽いため息を吐いた。
 でも、こんなに人口密度が高いと、本を広げるのも音楽を聞くのも携帯電話を開くのもためらわれるので。
 そういうわけで、なんとなく観察を続けていると、そこに一つの法則を見つけてしまった。
 憂鬱の気持ちはその量を増すばかり。
 次の駅のホームでは、体格のいい団体客ご一行が列を作って電車を待っていた。
 灰谷はさりげなく、人の流れから取り残されるような、離れ小島の位置を確保した。
 

 ドアが開き、ホームから先を競うように客が乗り込んでくる。
 一人一人の身体が大きい分、いつもより早めで車内はぎゅうぎゅう詰め状態になった。
 小耳に挟んだ会話のかけらから推理してみると、この先の駅の近くにあるホールで、プロレスが開催されるらしい。
 なんだか聞き覚えのある対戦カードのようだったが、残念ながら格闘技への知識は乏しく。
 たぶん明日、赤井にでも聞いたら詳しいことがわかるだろう。
 スポーツ全般が好き、というのもあるけれど、この地域のイベントはだいたい網羅しているような男だから。
 がたん、と一度車両を大きく振って、電車が動き出す。
 一斉に傾いた大きな体の隙間から、一瞬、黒い髪が流れ出すのが見えた。気がした。

 灰谷は、ぱちぱちとまばたきを繰り返して、雨粒の浮かぶ車窓の向こう、流れていく景色に目をやった。それからもう一度、同じ場所を見直した。
 大きな身体と大きな身体に挟まれて微妙な角度に傾いている、今にも転倒しそうな姿をしっかりと網膜に焼きつける。
 どうやら錯覚、とかではないらしい。
 運命とか偶然とか、この際面倒なことを考えるのは全部、後回しにしよう。
 灰谷は、離れ小島から一歩を踏み出した。
 顔をしかめる周囲の客にすみませんを繰り返しながら、人の間を歩き、目に入った細い手首を掴まえた。
 そして、ぐいっとかなり強引に引っ張った。

「わ」

 小さな悲鳴とともに、人と人の隙間から想像どおりの姿が現れた。
 勢いをつけすぎてしまったらしく、胸のあたりに軽い衝撃が当たる。
 近くで見ると、髪が、いつもより太めの束状になっていた。夕立の仕業に違いない。
「見覚えのある頭だと思ったら、やっぱり柳原だった」
 声に反応して、顔が持ち上がった。目がまん丸になっている。
 いつものように名前を呼ばれて、灰谷は少しほっとした。
 ただのクラスメイトにしてはやりすぎてしまった自覚はやっぱり少々、あったので。 

 手を離すタイミングを逃したな、と思ったときにはすでに遅く。
 なんとなく不安げな足元を見ているうちに、いっそつり革代わりにでもなればいいかと、灰谷は開き直ることに決めた。
 そもそも手を繋いでいるかどうか、ぐらいでは、この距離に変わりはなさそうだったので。
 見下ろした先、柳原の、髪の先がかかっている肩のあたりのシャツが透けて、肌色になっている。
 うっすらと下着の線が浮かんでいるのを見つけて、灰谷は慌てて視線をそらした。
 いたたまれない気持ちとともに、なるべく見ないように、と自分を戒める。
 正直なところ、周りが男性客ばかりだったので、余計な心配をしたのだ。
 柳原には少し異性に対して不安定なところがあるから、だから少し無理もした。
 でも幸い、今のところ、柳原に特別な変化は見られなかった。ほっとしつつ、どこか淋しいと感じているところもあって。
 もしかしたら、ただのクラスメイトのフリをするのは、恋人のフリをするよりも難しいことなのかもしれない。

 すーっと、また、こめかみの辺りを伝っていくのを感じた。
 その雫は運悪く、ちょうど顔を上げた柳原の頬の上に落ちた。ぽたん、と。
「あ、わりい」
 焦りすぎて、悪いが中途半端な発音になった。
 しかし、タオルを出そうにもカバンは開けないし、例えば、腕を上げようとしただけでも、周りの客に迷惑そうな顔をされるのは目に浮かぶし。 
 どうしようか、と灰谷が悩んだ隙をついて、手が、視界の端を通るのを許した。
 アゴのあたりに、そっと布の感触が押し当てられた。ハンカチよりは少し、固めの生地。
 そのまま跡をたどるように、髪の生え際にまで触られて。
 制服の袖だ、と理解した途端に、灰谷のいたたまれない気持ちが頂点に達した。
 止めようと口を開いて、何と言ったらいいのかわからなくなって、また焦って。
(普通のクラスメイトなら、……しない、よな。たぶん)
 いちおう、当たり前のことを確認するも、当の本人は、いまいち事の重大さを理解していないようだった。
 やっと気がついたと思ったら、耳まで見事な真紅に染め上げたりして。
 まるで鏡のような反応に、灰谷は気まずさを舐める。
 仕方がないので、それから駅に着くまでの間はずっと、ごめんと呟いたきりうつむいてしまった頭の、束状になった髪を数えていた。

 車内放送から柳原が降りる駅の名前が流れるまでが、ずいぶんと長く感じられた。
 こちら側のドアが開くことを確認して、灰谷はつり革の役目を放棄した。
「じゃあ」
 と、最後に持ち上がった顔に手を伸ばした理由は、簡単に言えば、残したくなかったからだ。
 今日の痕跡は、できれば今日のうちに消しておきたかったから。
 触った頬はもう乾いていたけれど、灰谷は、いちおうぬぐうように親指を動かした。

「また明日な」
 なんとか、それだけは言って。
 あいにくと、柳原がどんな顔で降りていったのかまで確認する余裕はなく。
 ドアが閉まった途端に、灰谷は深い深いため息を吐いた。
 結局、次の駅に着くまでの間、灰谷は車内中からの痛い視線を浴び続けなければならなかった。
 ただのクラスメイトにしてもなんでも、さっきのような行為を車内でされるのは、第一級迷惑犯に違いないので。
 いつのまにか、窓をたたく雨粒の量が減っていた。



 他人だとか恋人だとかクラスメイトだとか。
 どんな関係か、なんてちっとも考慮しないで、強制的に人との距離を近づけてしまう。
(満員電車ってとても危険だ……)


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