*読まれる前に。
20万打で人気投票だ、のワンツーフィニッシュ記念短編です。
本編28話以降に読むのがおすすめです。
番外編 満員電車にて(灰谷の場合)とセット。どちらから読んでも大丈夫。
番外編 満員電車にて -理実の場合-
どうやら、帰宅ラッシュの時間帯に紛れこんでしまったらしい。
車内を見渡し、自分の立ち位置を確認してから、理実はふうっと息を吐き出した。
電車の窓にはたくさんの水滴が浮かんでいる。
突然の夕立に油断して、濡らしてしまった肩のあたりが、少し気になったけれど、ハンカチで拭く、というのもなんだかためらわれた。
人と人との距離が近い分、気恥ずかしい気持ちが勝った。
カサの分、なのだろうか。
晴れの日よりも混んでいるような気がする。体格のいい男の人の姿が目につく。
もしかして何かイベントでもあるのかな。理実がそんな推理をしたときに、ちょうど次の駅に着いた。
ホームに溢れんばかりの人が待ち受けていて、理実はぎょっとした。
軽く、車両の許容量は超えてしまいそうだ。
ドアが開き、どっと音を立てて車内に流れ込んでくる。
理実はつかの間、抵抗するのも忘れて、車両の奥へ奥へと詰め込まれていった。
どうしよう、と思った時はすでに遅し、で。
近くにつかまる場所を見つける前に、出発の合図が鳴ってしまった。
がたん、という第一撃は、足を踏ん張ってなんとか、倒れるのは避けられた。
耳に入ってくる会話をいくつか盗み聞きしたところ、どうやらこの先の駅の近くにあるホールで、プロレスがあるみたいだった。どおりで、身体の大きい人が多いはずだ。
理実は今、身体と身体の間に挟まれて、やや足が浮いている、かなり不自然な体勢になっていた。
周りより背が低いせいで酸素がうまく吸い込めず、男の人独特のにおいにも思わずめまいがして、視界がふらりと揺れた。幸い、揺れる隙間もなかったけれど。
でも、例えば、あともう一回、大きな揺れが来たら簡単に倒れるかもしれない。
情けないことを考えた瞬間、手首を強い力でつかまれた。そして、そのまま引っ張られた。
「わ」
思いがけない方向からの力に、まったく踏ん張りがきかず。
勢いよく人の間から飛び出した理実は、ちょうど進行方向に立っていた人の胸のあたりに思い切りぶつかってしまった。
ごめんなさい、と謝罪の言葉を口にしようとして、ふと雨のにおいをかいだ。
鼻の頭に湿った感触。
「見覚えのある頭だと思ったら」
からかい調の、親しみを感じる声は、すぐ真上から。
「やっぱり柳原だった」
理実はできるだけ後ろに頭をそらしてやっと、声の出所を確認することができた。
名前を呼ぶと、いつものように返されて。
錯覚、しそうになった。
その距離は、ただのクラスメイトにしては、近すぎたので。
痛みは感じないけれど、不自然な方向に手が折れ曲がっているような。
(手を、離せばいいんだろうけど……)
ちらりと上の様子を伺うと、ちょうど窓の方向を見ていて、視線が合うことはなかった。
手はちょうど人の影に入っていて、理実の位置からではどうなっているのかが見えない。
本当に繋がっているのか疑って、少し力を入れてみると、確かな感触が当たった。
離すタイミングとか、理由とか、探している間に、駅に着いてしまうような気がした。
目の前にあるシャツはところどころ、肌色に透けていて。
結構、降られてしまったのだとわかる。
今日の天気予報、降水確率10%ぐらいは、残念ながら外れてしまった
湿度が高いから、シャツが乾くまで時間がかかりそうだとか、風邪をひかなければいいなとか。
理実がいろいろ思っていたときに、ぽたん、と上から雫が落ちてきた。
え、と一瞬自分のいる場所を見失って、顔を上げた頬に、もう一粒。
理実の視線の先に気づいて、灰谷が焦ったように顔を赤くした。
「あ、わりい」
と、身を引いた灰谷が、すぐに後ろの人にぶつかってしまって、できなくて。
どうしたものか、と悩むのが伝わってきたので、理実は何気なく、繋いでいないほうの手を伸ばした。
制服の袖をつまんで、今まさに落ちそうになっている雫を拭き取る。
そのまま、雫のあとを追いかけるようにして、顔のラインをたどっていった。
視界の端っこで、灰谷が何度かまばたきを繰り返して、何か言おうとして口を閉じたのが見えた。
その耳が、不自然なほど赤くなっていて。
途端、理解した。
「ご、ごめん!」
(制服の袖なんて汚いのに、何してるの!)
でもハンカチを取り出せる隙間は満員電車の中にはなくて、だから、拭くものがほかに見つけられなくて。だから、
言い訳は、理実の中にだけ降り積もる。
そのあとはとても顔を上げられず、ずっとシャツの湿ったにおいをかいでいた。
どこか汗や土の混じったにおい。周りの男の人たちのとあまり変わらないはずなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
いつも通っているはずの道のりが、今日はとても長く感じられる。
すっかり踏ん張りのきかなくなった足は、繋いでいる手に支えられて、なんとか最後まで立っていることができた。
車内放送が、理実の降りる駅を告げている。
プロレス会場のホールがあるのは、この次の駅だから、そこを過ぎれば、この混雑もなくなるだろう。
いちおう、さよならぐらいは言わなくてはいけない。クラスメイトとしては。
理実はもう一度気合を入れて顔を上げると、灰谷の耳はもういつもの色に戻っていた。
今度の駅では、理実たちが立っている側のドアが開くので、降りることもできそうだ。
「じゃあ」
別れの言葉を口にすると、灰谷は繋いでいた手を離して、少し考えるふうにしてから、そのまま理実の頬に触れた。
親指でこするようにして、さっき濡れたあたりをぬぐう。
ほんの一秒のこと、だったと思う。
「また明日な」
灰谷の声に押し出されるように、なんとか電車を降りることはできた。
一人ぼっちになったホームで、理実はふらふらと倒れそうになる足をなんとか踏ん張らせて立った。
あいにく、もうつり革代わりの手はなかったので。
いつのまにか、電車と一緒に雨音も遠ざかっていた。
他人だとか恋人だとかクラスメイトだとか。
どんな関係か、なんてちっとも考慮しないで、強制的に人との距離を近づけてしまう。
(満員電車ってとても危険だ……)