+体温+
*読まれる前に。
本編38話までの内容を含みます。
灰谷の隣の席の男子生徒の観察日記です。
番外編 隣の席から
柔能く剛を制す、とは言うけれど。
180°世界が回って、また地面の上へ。ばたん、と背中から落っこちる。
これで何度目なのか、とうに数えるのを諦めてしまったからわからない。
とりあえず、授業が始まってから組んだ相手の数と一致することだけは確かだった。
次ー、A班、と先生からやっと次の指令がおり、転がったままでいたら蹴飛ばされた。
(理不尽だ)
身体が大きいだけが取り得の運動部員がここぞとばかりに日頃から溜め込んでいる力を発散している。山下のような、文化部の、される側とすれば、たまったものではなかった。
蹴られ、壁際にまで追いやられて、ちっぽけな屍となる。
額に引っついた畳からは、ずどーんずどーんという鈍い音が響いてくる。
軽い、トラウマになりそうだった。
受け身がうまくとれていないのか、腰や肘が痛かった。というか、あちこち痛い。全部痛い。
うるっと来た眼球の中、壁に背を投げ出すようにして座り込んできた姿があった。
学校から貸し出された、薄汚れた柔道着が乱れて、ほとんど脱げかけている。けれど直す余力もないのか、肩で荒い呼吸を繰り返していた。
袖をめくったら、腕に赤いみみず腫れのようなものができていて、他人のことながら知らず顔が歪んだ。
普段の、隙のないというか、みんなの平均を上手にこなしていて、あまり目立つことのない彼にしては、珍しい姿だと思う。
「……大丈夫?」
山下は、思わずの声を掛けていた。
珍しい角度からの問いに少し驚きながら、彼はちらりと倒れたままの山下を確認して、まあ、と頷いた。
膝を立てて息を整えるように、一つ大きく深呼吸する。
まだ見続けている山下に、苦く笑いを送った。
灰谷とは同じ班なので、山下にあんまり観察している余裕はなかったのだが、それでも今日の授業の、彼に対する周りの過剰な反応ぶりは感じていた。
特に、運動部の身体が大きいだけの奴なんかからは格別に。
さっきの乱取りのときだって、わざわざ柔道部の前田からのご指名が入って。
灰谷はけして小柄のほうではなかったが、学年一大きいらしい前田との体格差は歴然だった。
投げられたり、抑え込まれたり、とやられ放題。
もし山下が同じことをされたら、と考えると、イジメと勘違いして明日から不登校児になる自信があるぐらいだった。
このイジメの原因らしきものを、山下は遠耳に聞いていた。
今日の気温は例年の平均を下回っているにも関わらず、額には汗が浮かんでいる。
その横顔を、じーっと見つめてもみるものの、そこに自分との決定的な差は見つけられそうになかった。
なんだか、不思議だった。
同級生で、クラスメイトで、隣の席なのに。
「……オレ、山下になんかしたっけ?」
気がつくと、視線の先の灰谷が困ったように笑っていた。
「はっ? いや全然!」
山下は顔を赤くしてかぶりを振った。随分と不躾な態度をとってしまった。
灰谷自身も先ほどから不思議に感じているのだろう、首を傾げて、立ち上がる。
一瞬、ウワサの真偽を尋ねてみようか、と思ったが、いつのまにか授業も終盤、自由乱取りの時間になっていたらしい。
おーい、と、前田たちがまた大声で隣の人物を呼んでいた。
灰谷はそれに応えて、道着の乱れを整えて帯を締め直した。
山下は自分の心配も後回しにして、大丈夫か、ともう一度声を掛けていた。
「平気。やられてばっかじゃ悔しいし」
とん、とその場で軽く飛び上がる。
自分とそんなに身長の変わらない後ろ姿を、ふと大きく遠くに感じた瞬間だった。
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