+体温+

*読まれる前に。
 本編38話までの内容を含みます。
 理実と日直が一緒になった男子生徒の観察日記です。


  番外編 本日の感想  

 シャープの芯をノックする、親指の爪がきらきらとしている。
 芯から生まれてくる文字が、少しだけ丸みを帯びていて、女の子らしいなぁと思った。
 放課後に、教室で女子と二人きり。
 なんて構図は山下にとって夢のように遠いものだったので、少し昂揚感があった。
 ただ単に、クラス唯一の女子と出席番号がたまたま隣で、一緒に日直の仕事をしているだけなのだけど。
 それでも相手の女子は、女の子らしい女の子で、見ているだけでも楽しかった。
 見すぎてセクハラにならないように注意しながら、山下はどうしてもウワサの出所を気にしてしまう。
 日誌を書くために屈むと、ちょうどそこが制服の影から出てきてしまうのだ。

 白い肌の上に、赤い点。

 それがどんな意味を持つのか、あんまり縁のない山下でも今日一日の間に思い知った。
 もっとそういうことと無縁そうな彼女と、知らない世界を結ぶ点。
(……やめよう、これじゃ本当にセクハラだ)
 戒めて、山下は外に目を向けた。
 昼間は青かった空がどんよりとした重たい雲に覆われていて、今にも落ちてきそうだ。
 日誌には晴れを示す太陽のマークが記入されている。
「明日、雪かな」
 山下の何気ない呟きに反応して、顔が上がった。うん、そうらしいね。と同意する。
「でも、なかなか素直に喜んだりできないね」
「は?」
「雪。小さい頃って、降るだけで無条件で嬉しくなかった?」
 嬉しかった。彼女の言葉で、あの頃の気持ちが蘇ってくる。
 また落ちてきた沈黙は、口下手な山下にとっては日常茶飯事なものだったが、なんていえばいいのか、自然と、あるもので。
 珍しく居心地がよくて、自然と口がゆるむ。
「体育の授業が外だったら、今でも嬉しかったかもしれないけど」
「え?」
「……中止に、なるから」
 ああ、と彼女の顔がほころぶ。
 こういう通じる感じは嬉しかった。彼女はおそらく聞き上手なんだろう。
 再び日誌の記入作業に戻って、しばらくすると手が止まった。
「どうかした?」
「今日の欠席って、いつもの二人と……あと誰だっけ?」
 いつもの二人というのは、柳原以外の女子二人のことだった。
 一人は新学期以来顔を見たことがないし、もう一人は時折やってくるのだが、山下は話したこともなかった。
 そういえば今日の欠席は、やや多めの4人だったような。
「覚えてないな。俺、ちょっと職員室行って、聞いてくるよ」
「ほんと?」
「うん。柳原さんはその間に書けるところだけ書いちゃって」
「わかった。山下くん、ありがとう」
 そう、彼女は何気なく微笑んだ。
 誰かのものだとわかっていても、喜んでしまう自分は馬鹿なのだろうか。
 なんとなく罪悪感を覚えながら、山下は職員室へと急いだ。



 失礼します、と儀礼的にドアを開け、2年生の教師が集まる島を目指す。
 目当ての席に担任は見つからず、隣の席にいた教師に尋ねると、部活動のほうに行ったのではないかと。
 担任は柔道部の顧問だった。
 山下は足取り重く、武道場を目指し始めた。武道場は、体育館の横にある。
 とぼとぼと廊下を歩いていると、後ろから足音が近づいてきた。
 自分のものよりややテンポが速く、通り過ぎていくと思われた瞬間、後ろから羽交い絞めにされた。
「ぎゃあ!」
 山下は自分でも情けなくなるほど高い声で悲鳴を上げた。
 その反応に嬉しそうに、背中から笑いが響いてくる。
 まだバクバク言っている心臓をなだめながら、山下は恐る恐る後方を確認した。
 悪い予感ほど当たる。
 悠然と微笑む男子生徒は、山下がここ最近で一番苦手にしている人物だった。
「山下くん、こんなところで何してんの」
「……今日、日直だから」
 ふーん、と聞いておいて興味のなさそうに呟かれる。そこで、気がついた。
 この校舎棟には生徒会室があるのだ。だから彼がここにいるのも偶然ではなくて。
 どちらかというと、山下のほうが異分子だった。だからちょっかいも掛けられたのだろう。
「なに。一人で日直やらされてんの?」
「いや、柳原さんは教室で待っててくれてるから……」
 ぴくり、と眉が動いたような気がした。
 山下の気のせいだったかもしれない。へえ、と呟いたときにはもう興味がなさそうで。
 やっと解放される、と思った山下の肩を抱いて、生徒会長はくるりと方向を転換させた。
「え、あの」
「山下はさ、ちょっと生徒会室に寄っていけばいいよ、な?」
「はあ?」
「ちょうど差し入れのロールケーキを切り分けたところなんだ。でも今日は人数が揃わなくてさ、余ってたから」
「でも、教室で柳原さんが」
 いいからいいから、とぐいぐいと肩を押される。
 どんどん行きたかった場所から遠ざかっていく。
 こんな信用ならない男の腕の中にいるよりはよほど、彼女の待つ教室に帰りたかった。
 つれていかれた生徒会室には、山下とは縁遠い学内の有名人がひしめいていて、まるで動物園のようだった。
 もらったロールケーキはおいしかったけれど。



 教室に戻ったら、柳原さんがまだ教室に残ってくれていてほっとした。
「遅くなって、ごめん」
 待ち疲れさせてしまったせいか、彼女の反応は鈍かった。
 怒っているのだろうか、と山下はびくびくしたがどうやらそういうわけでもなさそうで。
「……柳原さん、大丈夫?」
 うん、と力なく頷いて俯いた彼女の制服の影から、茶色いものが覗いた。
 あれ、と思う。あんなものあったかな。
 セクハラぎりぎりで、なんとなく宙に思いを巡らせてみたり。

「待たせちゃったから、もう先に帰ってくれていいよ」
 でも、となかなか引き下がらない彼女を、いいからいいからと教室から追い出す。
 一瞬だけ現実に戻ってきた彼女が言ったバイバイが、ずっと胸に居残った。
 自分はやはり馬鹿なんだろうか、と思いながら、馬鹿がどうやら一人きりではないことに安堵する。

 さて、日誌の残りに取り掛かろう。
 と言っても、ほとんどは柳原が埋めてくれていたので、欠席者の名前と、最後の本日の感想の欄だけ書けばよかった。
 なんだかいつも無難に毎日を過ごす山下にとっては、実りの多い、忙しい一日だったような気がする。
 さあ、どうやって締めくくろうか。親指で、シャープの芯をノックした。


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